昨日、お母さんのお見舞い、どうだった。
 自然そのものの声で言うお姉ちゃんは、私とあの人が二人きりの空気を知らない。だから笑って、いつも通りだよ、とだけ答えた。いつも通りだ。いつものことだ。そう、とほっとした様子で笑う顔。父関係のおつかいが私に割り振られることが多いので、母関係のことは主にお姉ちゃんがやってくれている。何も知らない、だろうけれど、なんとなく何かを察してはいるのかもしれない。母と焦凍は互いに罪悪感を抱き合って、怯え合っていて、私はたぶん他の家族よりも焦凍と結びつきが強い。顔を見て連想されやすい。関係性だけの、話だけれど。
 ねえ、私にも個性があったらよかったのにって、お姉ちゃんも思う?
 私にも個性があって、焦凍にも個性が一つで、そうしたら、轟家はもっとまともな場所だったかもしれないって。お姉ちゃんも、そう思う?

「……訓練場の方、うるっさいねえ」
「もうすぐ体育祭だから張り切ってるみたいよ、お父さんも」
「ふーん……」

 ていうか昨日は帰ってたのか。焦凍のためかな。もっと言うと焦凍の朝晩トレーニングのためかな。
 …………ほんの十分、あれば、お母さんの顔を見ることくらいはできるんじゃないかなあ。

?」
「……うん」

 お姉ちゃんに、うまく返事ができない。
 ご夫婦間の事情なんか知らないけどさあ、あんたらが上手く意思疎通できてないのが原因の大部分を占めてるんじゃないの。おまえの左側が醜い。絞り出すような母の声を急に思い出す。個性婚だかなんだか知らないけどさ、仮にも一人の女を娶ったわけだろう。自分の子を五人も孕ませたわけだろう。思い入れが、一滴もないとでも、ほざくのか。

「…………」

 焦凍も焦凍だ。なにを自棄になっているのか知らないが、なにに怯えて怒っているかはなんとなく知っているけれど、かっこつけやがって。どうせお母さん譲りの個性だけでお父さんをぶったおすとでも思ってるんだろ。お前のやった個性婚とやらに意味はなかったって実例添えて言ってやりたいんだろ。それを否定はしないけどさ、それは、泣いてうずくまってる母親を放置して追い続けなきゃいけないことか。たった十分、顔を合わせて、呼んでやればいいんじゃないのか。そうしたらお母さんだって、お姉ちゃんだって――私、だって――

「……、どうしたの?」
「…………宿題忘れてたの思い出した……」
「えっ」
「置き勉しちゃったから! 早めに行って片付けなきゃ!」
「あーあー」
「ごめん朝ごはん食べてる暇ない! 行ってきまーす!」

 鞄を掴んでリビングを出る。ちゃんと食べた方が、という姉の声が追ってきていたけれど、ごめんごめんとだけ返して――その声を明るく装うことだけに集中していた。
 とても振り返って言える顔じゃない、ことだけは自覚していた。

 だめだ。今はお姉ちゃんの顔が見られない。お父さんの顔も、焦凍の顔も、見たらとても誤魔化せそうにない。喉を焦がすような悪意を、体内にとどめておける気がしない。
 お前らがそんなんだから。 ――家族とはいえ他人の私が言っていいことじゃない。
 なにがヒーローだ。 ――その単語については、とっくの昔に決着がついているはずだ。
 妻を、母を、泣かせてまで、するべきことなのか。 ――そんなのお母さんを言い訳にして、本当に言いたいことはお姉ちゃんと私のことだと自覚している。
 いいよなあお前らは! 『夢』とか『目標』とか御大層っぽいことを言っとけば許される、自分でも忘れていられる立場でなあ! 羨ましいよ!! ――そんなの、ただの、やっかみだ。

「…………、」

 めちゃくちゃに走って――フォームも呼吸も雑な走りは、体力を消耗させる。血の味がして走れなくなるくらいまで走って、はあ、と空を仰ぐと、いやになるくらい明るい晴天だ。
 朝ランニングのたび訪れる公園は、中途半端な時間のためか誰もいなかった。気にするのもおっくうで鞄を地面に置き、柵に体重を預ける。

(……つかれた)

 怒るのも、悲しむのも、ひどく疲れる。
 ……だから先生はあんまり怒ったり悲しんだりしなかったのだろうか。ふう、と大きく溜息を吐いて、汗で濡れた首の後ろをぱたぱた仰いだ。濡れた髪に風が通って、少しつめたい感触がする。

 なんでまだあいつらに腹が立つんだろう。まだ期待してるってことなんだろうか。まだ望みを持っているんだろうか。たとえば円満な家庭を、両親が仲睦まじく、きょうだいで遊ぶような日常を?
 ……それは、『かつて欲しかったもの』であって。『今、欲しいもの』では、多分ない。かつて欲しかったにしても、あったらよかったのにな~程度の気持ちだ。あったらよかったのにな。平和に過ごせたら、私は父や弟にムカつきすぎて朝から全力ダッシュなんてしなかっただろうにな。
 今、欲しい、ものなんて。
 ――ふと青空を鳥かなにかが突っ切っていき、それを眺めるばかりだった前世の自分を思い出す。先生は飛べたわけじゃないけど滞空時間十分以上のジャンプは普通に飛んだって言っていいだろう。ジェノスはエンジン搭載してたし。
 ……両腕から、ざわっと鳥肌のようなものがのぼってくる。髪を揺らす風が、Z市で感じていたもののような気がしてくる。先生。ジェノス。フブキさん。タツマキさん。キングさん。無免ライダー先輩。ミズキちゃん。……。
 今の、ほうが、嘘だったり、しないかなあ。

「……『最強のヒーロー』……」

 せんせい。

 ……怒るのも悲しむのも疲れるからいやだと思ったばかりなのに。
 ぎゅっと目元を拭って立ち上がる。地面の鞄を持ちあげるまでもなく、私は女子高生のままだ。


 行く当てもなく登校してみると、早朝の学校は意外なほど活気があった。

「お、轟はええじゃーん!」
「そっちこそ、こんな時間からどうしたの」
「俺んち近所に公園とかねえから校庭使うの。敷地内なら個性使っても平気だしな!」
「……そっか」
「轟もトレーニングかなんか? 頑張れよー」
「うん……」

 元気な同級生に手を振って、彼が合流する数人の背を眺める。
 いずれも普通科の――ヒーロー科に落ちて普通科に入学した、生徒達だ。体育祭。普段の授業や行動でだって移籍のチャンスはあるけれど、内外に向けて大々的にアピールできる機会っていうのは希少だ。その数少ないチャンスをものにしようとしている生徒達が、わあわあと去っていく、その背中が、まぶしい。

(……みんな、それぞれ、頑張ってるんだよね)

 そうだ。誰でも、そうだ。鞄の紐を握る手に、ぐっと力を籠める。
 普通科。それがなんだ。無個性。それがなんだ。父の目に映らなかろうが母の意識の外に追い出されようが、そんなのは、私が私として生きる障害にはならないはずだ。彼らや心操くんが、普通科を夢を諦める理由にはしないように。
 悲しんじゃいけないわけじゃない。けど、悲しみすぎてはいけない。足元だけを見つめて歩くような真似はやめろ。

「私らしくねえぞ!!!!!」

 気合を入れるべく腹に力を入れて声を張った――のと、ほとんど同時に、背後でズシャッと音がした。

「…………」
「……あ、いや、あの、えっと……」
「……ご、ごめん。なさい。ちょっと気合を、入れてて、……立てる?」
「はい……」

 ほら! 下ばっか向いてると! ろくなことない!!
 見られていた恥ずかしさをこらえつつ、驚いて転んだらしい彼に手を差し出して立ち上がらせる。僕もごめん、なんか間が悪かったね。苦笑して言う、穏やかそうな男の子に、見覚えがある。

「……」
「……あの?」
「いや…… キミ、朝よく海岸のあたり走ってる子?」
「え、あ、……うん。あの、君は公園で野良猫に構っていく子だよね?」
「……うん……」

 ひとり叫んでるのを見られるわ野良猫にデレデレしてるのを見られてたわで結構な不覚。
 けれど気にした様子のない彼は、雄英だったんだね、と柔らかく笑った。それにつられて微笑を浮かべる。ほわっとしているというか、あたたかそうというか、――なんだか、警戒できないタイプだ。

(そういえば先生も普通っぽすぎてすごさが伝わらない人だったなー、まあだいぶ意味が違うけど……)
「……らしく、ないって言ってたけど」
「うん?」

 掘り返された? 恥ずかしいシーンを?
 思わず真顔で聞き返すと、いや悪い意味じゃなくて! と素早く言い訳っぽい声が返ってくる。自分でも蒸し返しているとは感じているのだろう、気まずげな頬がわずかに赤い。

「僕は――その、君らしさをなにも知らないけど、でも、……いいんじゃないかなと思うよ。らしくなくても」
「……」
「いや、ごめん! 何も知らないくせに勝手なこと言うなって感じだけどさ! でも、……泣いてる迷子を慰めて保護してあげてたりとか、猫に全力で構いに行ってたりとか、してるの見たことあって」
(本当に恥ずかしいとこ見られてる……)

 猫に構いに行ってるの、全力でってついた。いや全力では……いや猫じゃらしもって追い掛け回したことあるわ……一回だけ……。まさかピンポイントであれを見られていたとかそういうことか……? ちなみに彼女(メスだった)には後ほど煮干しを献上しました、あれはやりすぎたって自分でも思った。

「今も、一生懸命元気になろうとしてるの、含めて――君らしさなんだろうし、君の周りの人は、きっと君のそういうところに、救われてると思うし、……だから、たまには君が、周囲の人に元気をもらっても、いいんじゃないかな」
「…………」

 俯きかけていた顔を上げる。しどろもどろに喋っていた男の子は、赤い顔でそわそわ視線を彷徨わせている。――朝、たまに見かけることがあるだけの存在。お互いランニング中だったから、特に注意を払っていたわけでもなかっただろう。それでも彼は私を覚えていて、私のしたことを見ていて、それを――認めた。赤の他人の、ささやかな善行を。認めて、本人に、伝えた。一体それを、どれほどの人間にできるだろう。

「……ありがとう」

 ふ、と笑う、鼻先に甘い匂いが流れてくる。たぶん気のせいだろう、バナナによく似た花の匂いがする。
 腐っていく果実。眺められることのない花束。あの人を満たせない私。――だけどこの男の子は、私がだれかを救っていると言った。実例を添えて、きっとそうだと、慰めを多分に含んでいるとしても――そう、信じて口にした。

「ありがとう。……優しいね」
「いっ、いや、その、やっぱ勝手なこと言ってごめん! じゃ、じゃあ!」
「あっ」

 心配になるほど顔を真っ赤にした彼が、逃げるように、というか実際に逃げたんだろう。走り去っていく背中をぽかんとして見送る。おいおい走るの早いなあ。名前くらい聞きたかったな。

(……まあでも、また会えるよね)

 朝のランニングで見かけることはこれからもあるだろう。彼も、もしかしたら声をかけてくれるかもしれない。

(何組かな、ていうか何科かな。そもそも何年生だ? あの感じだとサポート科か普通科かな)

 友達、ひとり増えるかもしれない。そう思って歩き出した一歩が、思ったよりもずっと軽い。
 ……え、何かしたっけ。してないよね。この一瞬でむくみが消えたとかそういう物理的な話じゃないよね。思わず足をあげてまじまじ眺めていると、轟なにやってんのー、と同級生に声をかけられる。

「いや、なんか身体が軽い気がして」
「お、スリム自慢か? ダイエット不要です自慢か?」
「違うよ! ていうかダイエットしてんなら誘ってよ、一緒にやろうよ」
「うるせえバーカバーカその体形でダイエットとか言うなバーカ!!」
「なんで?!」

 わあわあ騒ぎながら教室に行くうちに、おはよう、と声を交わせる生徒が増えてくる。
 おはよー轟、なに騒いでんの。おまえら朝からうるせーなあ。轟さんおはようー。課題覚えてた? おはよー。声の波に導かれるようにして、与えられた席へと進む。隣の彼はもう来ていて、目が合うとやや気遣いの色を隠して笑った。

「轟、……元気そうだな。なんかいいことあったのか?」
「――、」

 昨日。学校帰りに病院へ行く予定だった私は、もしかしたら心操くんに心配をかけていたのかもしれない。
 胸の奥から色鮮やかなものが溢れ返るようで、だけどそれを喉の奥にどうにか留めて、笑い返す。

「元気だよ! いいこともあったけどね! 私はいつもだいたい元気なんだよ」
「それは知ってる」
「心操くんはもうちょっと元気そうにしなよぉ~」
「いや、それはやめて、心操は轟のブレーキをかけて」
「クラス全体が困るからわりとマジで」
「だってさ」
「マジトーン……?」

 ああ、大丈夫だ。まだ大丈夫だ、呼吸ができる。先生、ジェノス、私はまだもうちょっとやれます。だからまだ、もう少し、――会えた時は、ちょっとだけ余分に褒めてください。

「そういえばさ、サポート科か普通科で緑頭の人いるか知らない? 癖っ毛でそばかすの」
「何年?」
「わかんない」
「お前この学校に何人生徒がいると思ってんだよ……」
「科が違うと全然会わないしねぇ。まあでも知ってる人いないか聞いてみようか。普通科かサポート科ね?」
「たぶん」
「多分て」
「男?」
「男子」
「……ほう」
「ほほう」

 ひそひそ話し出した友人達にやや呆れつつ、まあ高校生だしな。そういう話題に持っていきたいお年頃だよな……知ってる……。弟弟子はそのへんの年齢のファンが多かった。姉弟子だっつってんのに仲を勘繰られてファンレターに紛れて怒りのレターをいただいたことも結構ある……。

「心操くんは知らない?」
「……お前ほど顔広くないっての」
「……? まあ、わかったら教えて」

 ああ、と返ってきた声は明らかな生返事だったけれど、それを言及する前にチャイムの音に遮られてしまった。

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2019.07.13
2019.10.18(修正)