朝走るようになってから、知ったことがいくつかある。
 早朝の街は、案外賑やかでその割に穏やかだ。走る人、散歩する人、配達の人、犬や子供を連れている人。おはよう。おはようございます。名前も知らないのに挨拶を交わし合う、この時間だけの文化がある。中学生のあの日まで知らなかったことだ。――オールマイトがくれたものは、個性だけじゃない、と思う。
 そんな中で、ルートが一部被る人、というのも存在する。多くの場合それは大人かお年寄りで、自分と年齢の近そうな人は……ひとりだけ、いる。きれいな顔をした女の子だ。

「おはようございます」
「おはようっ、ございます」

 さらっとした声と挨拶、横顔は冷たそうな印象があるけれど、笑顔は人懐っこい。足運びが素早くて低くて、音がしないのに意外なほど速い。
 忍者とかそういう、人目につかない系の個性だったりして、と思いながら眺めること数か月。ルート中程にある公園で休憩をとる様子を見ること数回。猫を追いかけまわしていたり、猫じゃらしを必死に振っていたり、迷子らしい子を慰めて保護して交番へ誘導していたり、ベンチでうつらうつらしていたり。それを、以前助けた子供に起こされていたり。
 一方的に眺めるだけの関係だとは自覚しつつ、知人のような気持ちでいた。彼女について、知っているような気がしていた。

(当たり前だけど、なんにも知らないんだ)

 最強のヒーロー。その言葉に、たぶん言葉通りの気持ちで呟いてはいないのも。初めて見る制服姿が、雄英のものだったことも。『気合を入れて』の絶叫も、初めて知ったことだ。宣戦布告をしに来た彼と、とても親しそうな様子だったのも。
 ――知りたいと思うんだ。

「おはよう」
「お、おはようございます」
「敬語やめようよ、同い年なんだし」

 そう言って彼女は、初めて見る顔で笑った。


 約束したわけではない、ただ彼女が休憩する朝の公園で待っている、なんて一歩間違えばストーカーの疑いをかけられそうなことを咎めるでもなく無防備に隣に座る。ベンチは、今まで感じたことがないくらい狭い気がする。近い。

「私、轟。きみは?」
「み、緑谷出久、です、……だよ!」
「あっはっは。普段から敬語派?」
「では、ないんだけど、その」

 慣れて、なくて。口の中でぼそぼそ呟いたことはうまく聞こえなかったらしい、軽く首を傾げた彼女が顔を近づけてきたので、慌ててなんでもないと首を振った。心臓に! 悪い!

「でもまさか雄英だとは思わなかったー。しかもヒーロー科」
「僕こそ……、あの、轟さんは、普通科?」
「うん。昨日一緒にいた心操くん……あー、あの紫の髪の子ね。あの子と同じクラス」
「仲いいんだね」
「へへ、まあねー。隣の席なんだ。見た目の割に面倒見が良くて優しいんだよ」

 なんて言い方したら悪いのかな、と悪びれずに言う彼女は、おそらく思っていたよりずっとその隣の彼と仲がいい。昨日のことを考えてもそうだし、くすくす笑う様子から気のおけない様子が見て取れた。

「まあ、心操くんほどオープンていうかむき出しなのは珍しいけどね。普通科の面々は、隙あらばヒーロー科を引きずり下ろそうと狙ってるよ? ガオ、つってね」

 手の指を鉤爪のようにして首元に寄せてくる。おそらく彼女的には悪そうな笑顔は、猫の手になっているそれも含め、申し訳ないが可愛い。

「ッ」
「……どうしたの、酸っぱい顔して」
「いや……うん…… 轟さんも?」
「え」
「轟さんも、その。ヒーロー科に?」
「……」

 大分ゆるくはなっていた鉤爪が、女の子のやわらかな拳に戻って下ろされる。いや。短く言った彼女の表情からも、なにかを装うような色は消えていた。

「私はあんまり、……あくまで観客として、楽しみにしてる感じかなあ」
「そう、なんだ」
「まあね。でも私みたいなのは普通科じゃ珍しいんだよ」

 両手をベンチに下ろし、こっちを向いていた顔が前に向き直る。少し冷たい風が吹いて、さわ、とその髪を揺らした。

(……どうしてだろう)

 普通科のことを、楽しそうに、いとおしそうに話すのに。自分のことになると、この子は寂しそうな表情をする。

 ――最強のヒーロー。
 つい先日、聞いた言葉。背後で足を止めた自分に気付かず、彼女は深く俯いていた。……彼女の言う『最強のヒーロー』は、多分オールマイトのことではないのだろうと思った。ナンバーワン、史上最強、そう謳われるのは間違いなくオールマイトだろうけれど――彼女にとってはきっと、そうじゃない。あれはもっと近しい存在に対する、もっと切実な音をしていた。必死に堪えたのに零れてしまった、なみだのような声だった。

 ――私らしくねえぞ!!!!!
 不安になってついていった先で、そんな大声を聞いたわけだが。

「……轟さんは、好きなヒーローっている?」

 あのとき言った『最強のヒーロー』は誰のことなのか、と直接的に聞いてはいけない気がして、咄嗟にそんな風に言葉を変える。
 だけどそれも失敗だったのかもしれない。一瞬、凍り付いたように息を止めたから。

「……え、」
「えっ…… いや、あの、変な意味じゃなく! 僕はオールマイトが好きなんだけどッ、ほら先生目当てに来る生徒もいるらしいし……!」
「あ、ああ、うん。……うん…… マイク先生が好きだよ。保健室の、なんだっけ、おばあちゃん先生もかわいいよね」
「リカバリーガール! 僕もすごくお世話になってるんだ!」
「やっぱりヒーロー科は怪我多い?」
「うん! ……いや、僕は特別多い感じだけど……でもやっぱり、他よりは多いんじゃないかな……」

 ちょっとだけ笑ってくれたことにほっとして、必死に言葉を紡ぐ。どうしてか、この女の子は傷つけたくないと思った。誰のことだって怒らせたくなんか、悲しませたくなんかないけれど、――この子はきっと、悲しんでも怒っても、それを上手に隠してしまう。心配させないようにと笑顔を作ってしまう。ヒーローの話題を、上手く先生達の話題に入れ替えたみたいに。

(……不思議な女の子だ)

 強そうで、儚げで、人懐っこくて、だけど一線引いた先にいる気がする。明るくて楽しそうで笑顔が似合うのに、濃い悲しみの気配がする。
 そういう種類の人間にあまり会ったことがないからだろうか、心臓がざわざわする。普段より一層、必死になってしまう。

(……あ、でも、)

 少し、空気の似ている人はいるかもしれない。

「ヒーロー科に轟くんっているんだけど、知ってる?」
「、え」
「なんか雰囲気似てるから。もしかしたら従姉妹とかかなって」

 どうしてか笑顔のまま動きを止めた彼女は、……昨日、その轟くん、なにか言ってた? と、ごく自然に首を傾げた。



next
===============
2019.10.29