少しずつ、距離を取らなきゃいけないんだろうな。
 そう思ったのをまるで知っているみたいに、心操くんは顔をしかめながらも何故かいつもより傍にいてくれていた。クラスメイトや他のクラスの子にからかわれながら、学校の外でもあそこのカップルとか呼ばれながら、いつもより少し距離を詰めて接する。『昼飯行こう』も『図書室付き合ってくれ』も、『遅くなったし家まで送る』も、その一環だったように思う。

「……心操くんさあ」
「なに」
「なんっか気ィ使ってくれてない?」

 からかわれながら学校を出てしばらく歩き――ようやく、誰にも会話を聞かれる可能性がないという意味で、二人きりになってからそう口に出す。相変わらず不健康そうな目がきろりとこっちを向いて、すぐに前へ向き直った。べつに。短く柔らかい音が耳に届く。

「そんなつもりじゃない。……轟こそ、俺に気を使われるような覚えがあんの?」
「……別に」
「ほら」

 心操くんが日に日に口が達者になっていっている気がする。私をやりこめる言い方を覚えただけだろうか。互いに合わせてチューニングしていくような感覚は、有難いし嬉しいと感じる反面なんだか落ち着かない。
 だって私は心操くんとも離れていかなきゃいけないんだよ。
 この三年間を幸せに楽しく過ごしていければそれでいいのに。

「……ここまでで大丈夫だよ。最近お父さん帰りが早いからさ、見られると厄介かもしれない」
「挨拶ぐらいちゃんとするけど」
「心操くんがどうとかじゃないんだよ、ほら送ってくれてありがと! また明日ね!」

 近い肩をぐいぐい押して距離を取ろうとすると、却って体重をかけられる。ちょっと心操くん、か弱い女子になんてことすんの! か弱い……じょし……? か弱いはともかく女子は疑問符つくとこじゃないでしょうが! 自覚できちゃってんじゃねえか。おしくらまんじゅうするみたいに肩をぶつけ合っていると、通りすがりの人達から視線を感じた。

「……注目されちゃってんじゃん」
「お前の場合はいつものことだろ」
「何がよ」

 むずがゆい気分で離れる。ふっと、小さな子供を見るような顔で微笑まれて、睨んでいた目を逸らしてしまう。
 ――その個性で、ひとの心に触れるからだろうか。たまにこうして、やわい部分を優しく掴まれているような気になる。

「……、」

 足が止まる。心操くんも足を止める。まっすぐ見つめられない私に反して、心操くんはただ静かに私が喋り出すのを待っている。話せることなんか何もないのに、べつに何か強固な態度を取られているわけでもないのに――その目が言葉よりずっと雄弁に語っている。『なにか言いたいことあるんじゃないのか』『吐き出したいことあるんじゃないのか』『俺にだって聞いてやれることはある』……『お前の支えに、なってやれる』。

「…………」

 話せることなんか何もない。状況は何一つ変わっていない。
 だけど、目の前の男の子に、無条件で助けようとしてくれている友人に――縋りたくなってしまうのは、たぶん私の弱さなんだろう。
 私は高校卒業と同時に消えなきゃいけない。君と友達を継続できない。家族ともうまくいっていないどころか、未だに前世の記憶に引きずられている。未だに、あの場所に帰れたらいいのにと思ってしまう。今でも先生が恋しい、弟弟子が恋しい、憧れた人や楽しい先輩や気の合う友人達に会いたい。どこにも、行き場が無くて、漂うように生きている。
 それを口にするだけで何か解決したりするんだろうか。気が楽になったりするんだろうか。手放さなきゃいけない存在を――強く、抱きしめる、ことが、

「……心操くん、」

 彼を見上げようとしたのと同時、足元に冷気が触れたような気がした。

「っ」
「……あ」

 彼も何か感じたのだろう、振り返った先に――白い冷気が細く渦を巻いていた。気のせいだったのかと思うくらいに儚く消えたそれは、肌に刺すような冷たさだけを残している。
 赤と白。色だけならめでたく見える、あの二人の子供。赤毛の下――火傷に覆われ、いっそう父に似たその目が、私を捉えていた。

(焦凍、)

 喉が引きつって声も出ない。
 心操くんが私の一歩前に出るのとほとんど同時に、やはり冷気だけを漂わせて焦凍はすり抜けていった。

「しょ、」
「轟」

 追おうとした腕を、心操くんに掴まれる。今、ヤバいと思う。潜めた声のそれは本気の忠告だ。それはなんとなく、私も察している。なんだか知らないがなんかヤバい。刺すような冷気と薄皮一枚下にひどい熱の気配がした。だけど、今、追わなかったら。

「……心操くん、ごめん、ありがと。私帰るね」
「……」
「大丈夫だよ! ……だと思う」
「……ああ」

 私の作り笑いをちっとも信じていない顔をして、だけど腕を放してくれるのは、心配しつつも尊重してくれたのだろう。また明日ね。そう素早く言って、家まで走る。跳ね返ってくる勢いで扉を開くと、焦凍はちょうど靴を脱いで玄関を上がったところだった。

「焦凍!」

 声に、出して、弟の名前を呼んだのは何年ぶりだっただろうか。

「――」

 そのまま奥へ進んでいこうとしていた両足が歩みを止める。片足を軸に、半分だけ振り返る。それがどうしてか、ひどくゆっくりと映った。

(左目)

 父によく似た左目。

「…………、」

 私は、どんな表情をしていたんだろうか。
 一瞥と呼ぶにふさわしい視線が投げられたものの――刹那だったそれが永遠のように長かった――私を視界の端に一度捉えただけで、前を向く。そのまま音もなく歩んでいく焦凍を呼び止めもできず、私は身体の均衡を失って背後によろめいた。跳ね返って中途半端に閉じかけた戸に背中を打つ。

(焦凍)

 いない、あつかいを、された。

(……追わなきゃよかった)

 心操くんの忠告を聞き入れて、もう少し一緒にいてもらえばよかった。少し寄り道でもすればよかった。もうちょっと学校に居残ったって良かった。だけど、だけど、――心操くんに、何も話さなくて、よかった。
 だってやっぱり、今ここでショックを受けていること自体があまりにも身勝手だ。そんなこと、知られないで、ほんとうによかった。

(……しょう、と、)

 おねえちゃんのこと、ぜったい守る。
 そう言って胸を張った私の弟は、もうどこにも居ないのだ。


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2019.11.05