「ありがとうございましたー」

 朝から元気な店員さんの声に見送られて店を出る。途端、じり、と焼き付くような日差しに思わずうめき声を漏らした。
 暑い、初夏と言えどあまりに暑い。そそくさと木陰に入り、手にしたビニール袋のアイスが溶けないうちにと公園へ向かう。ランニングそしてトレーニングのつもりだったけれど、家を出て五分もしないうちに集中力が切れて早々に諦めた。切れるも何も、元々霧散しっぱなしのものをかき集めていたようなものだったのだけれど。

(……)

 暇があると、弟の後頭部を思い浮かべてしまっている。
 首を振って歩き出すも、二、三歩進んではまた足を止めていた。

 無個性、だから、なのかなあ。
 昨晩、お風呂の最中にふと思い浮かんだそんな言葉がいつまでも付き纏ってくる。
 私が無個性じゃなかったら轟家はもうちょっとまともな家庭だったのかな。お父さんはまともに父親やってたのかな。お母さんは心を壊すことはなかったのかな。お兄ちゃん達は早すぎる自立を選ばなかったのかな。お姉ちゃんは家庭に縛られることはなかったのかな。
 焦凍は。
 私が無個性じゃなかったら、焦凍は、返事を、してくれたんだろうか。

 考えるだけ虚しい話に思考を絡め取られながら、のろのろと歩く。ベンチに座った時には既に立ち上る冷気の感触は消えていた。

(……身勝手だ)

 無個性に救われ、縋り、頼っている。その反面、無個性でさえなければというもしもの話が頭を離れない。取り出したアイスはすっかり溶けて、ゴムチューブの中でたぷんと揺れた。指で押すとわずかに凍った芯の感触があるけれど、これも五分ともたずに液体になってしまうことだろう。二つ並んだ、よく似て少し違う形のアイス。別に、焦凍と、アイスを半分こしたことなんてないのに。そういうことをできるような年齢になったころには、私達の間に接点は途絶えていたっていうのに。そうだ、とっくに失ったはずのものを、これから完全に手放す覚悟でいたものに、何を今更。傷ついて、なんか。

(……凍れ)

 期間限定、シチリアレモン味。それをぎゅっと握って念じる。凍れ凍れ凍れ凍れ。たっぷり一分ほど念じるも、確認したそれはやはり液体のまま。むしろ手の熱で少しぬるくなった。
 まあ、そりゃあ、そうだよなあ。家に帰って冷凍庫に入れないといけないか。手持無沙汰にぐにゃんぐにゃん揺らしながら溜息を吐く。
 ――あんまり深刻になっちゃいけない。悲しみすぎてはいけない。……そこそこで、立ち直らなくちゃいけない。フリでもいいから、平気だって顔をしてなきゃいけない。そうするうちに本当に平気になることもあるから、――大丈夫だって思わなきゃ。私らしくないから。

(……平気なフリをするなって、言われたことがあるな、そういえば)

 ジェノスだった。あと、あんまり間を空けずにゾンビマンさんにも同じことを言われて驚いた覚えがある。ジェノスには意地を張ってしまってうるさいなとしか言い返せなくて、ゾンビマンさんの忠告はわりとあっさり聞いたのでジェノスには拗ねられた。いや、あんまり接点のない先輩にまで言われたら気にしちゃうでしょ普通。あと正直言ってゾンビマンさんめちゃくちゃかっこよくて好みだったのもある。イケメンだわ強いわ優しいわで完璧が過ぎた。
 ――平気なフリをするな。
 ――痛みに鈍感なのは、命取りになるぞ。
 今思うとサイボーグとゾンビが何を言うんだって感じだけれど、彼らがある意味で生身ではなかったからなのかもしれない。生身でないゆえに陥った危機があったのかもしれない。それを聞くことはできなかった。
 ……聞けばよかったな。初めて、そんな風に思う。聞けばよかった、声をかければよかった。ジェノスにも、ゾンビマンさんにも。先生にも。フブキさんやキングさん、なんならソニックにも。色々聞けばよかった、もっとたくさん声をかければよかった。無視されたり振り払われたりもしただろうけれど、全部がそうってわけじゃなかっただろう。……もっと、もっと、できることはあったはずなのに。
 いつもこうやって、届かない後悔ばかりをしている。

 深く俯いていると――ふ、と、足先にかかっていた日差しが陰った。

「……?」
「あ、お、起きた」
「……みどりやくん」
「ちょっと見かけて、具合悪いのかなって……ストーカーとかではないよ?!」
「疑ってないよそんなこと。……隣どう?」
「……お、お邪魔シマス」
「ふふ」

 以前のように、二人並んでベンチに座る。少し幼い印象のあるヒーローの卵は、見ていて微笑ましい。
 ……この子、焦凍のクラスメイトなんだよなあ。それから、きっと近い未来に心操くんともクラスメイトになる存在。

(……いいな)

 自分の無個性を不幸とは思わないし、思いたくない。けれどこの男の子のいる場所は、素直に羨ましいものだった。

「……ねー緑谷くん、緑谷くんの個性ってどんなの?」
「え、……あ、うん、……まだ上手く扱えないんだけど、短く言っちゃうと怪力かな」
「へえ、ちょっと意外」
「えっ」
「あごめん、気を悪くしないでね。悪い意味じゃなくて、……雰囲気が、なんていうか、もっときめ細かそうな感じがしたから」

 生まれ持った力はシンプルなだけ強く、幼少期から強い人、というのは、似た雰囲気になっていく。フブキさん、アマイマスクさん。ある程度ならばジェノスやS級ヒーロー全体にも言える。こっちで言うとヒーロー科のトップだという男の子や焦凍。彼らには、『在る』ことが当然なのだ。勿論それ自体は悪いことではなくて、そういう人でなければ成せないこともある。

「この前も楽しそうに話してたし、なんか分析系かなって」
「いや、あれはただの趣味っていうか…… ぼ、僕のことはともかく! 轟さんの個性は?」
「…… え、」
「実は前にも聞きたかったんだけど、……轟さん?」
「うん、あ、いや、わかる、……えっと……」

 個性。
 無個性。
 ……四歳か五歳から素直にそう返してきた、時にはドヤ顔すら添えたりもした、その回答を。今、初めて、躊躇った。

 無個性でなければ焦凍は返事をしてくれたんだろうか。
 無個性でなければ心操くんとずっと友達でいられたんだろうか。
 …………無個性だと知ったら、緑谷くんはそれでも、笑ってくれるんだろうか。

「個性、ないんだ、私。無個性ってやつ」
「――え」
「ごめん」

 謝る必要なんかない。恥じる必要なんかない。私は無個性を不幸だともコンプレックスだとも思っていない。そう叫ぶ心に反して、素早く謝罪を口にした私は袋を掴んでベンチを立っていた。そのまま駆け出そうとした足が、ぐんと腕を捕まえられて空を蹴る。

「っ、」
「わ、ご、ごめん! 大丈夫?!」
「大丈夫、だけど、」

 転びかけた身体を支えられ、その姿勢のまま緑谷くんを見上げる。彼は一瞬顔を赤くしたものの、どうしてか『――ごめん』と言い募った。

「ごめん、あの、……えっと」
「……?」
「あの、……そのアイス! よかったらウチで凍らせてかない?!」
「……」

 意外なほど力強い腕に支えられて体勢を立て直し、呆気にとられたまま見た顔が、なんだかあまりにも必死で。なんとなく、頷いてしまった。


 適当に座ってて。
 そう言って通された部屋は緑谷くんの部屋らしく――オッケー、とりあえずオールマイトのファンなのだということは痛いほど理解した。ポスターとフィギュア、整然と並べられたグッズから少し距離を取って座る。いや引いてるわけじゃないけどガチのオタクは他人にフィギュア触らせないっていうしな……遠くから眺めるのが安全……。
 しかしコレクターは整理整頓好きでないとやっていけないっていうけど本当だな、必然的に得意になってしまうって話なのかもしれないけど。フィギュアやグッズやポスター、その合間に参考書や筋トレグッズが挟まっている。努力家なんだなー緑谷くん。男の子の部屋、というか人の部屋に入ることなんか滅多にないものだから珍しいし好奇心を刺激されてしまう。触らない程度に部屋中をきょろきょろ見回していると、机の上に積みあがったノートが目に付いた。
 将来のためのヒーロー研究ノート。
 男の子らしい大きな文字で書かれたそれは、整理中ででもあったのか、一冊を中心に何冊かは開きっぱなしになっている。あんまり見るのは悪いかな、と思いつつも、開かれているページだけつい見てしまった。
 ヒーロー名、個性、特徴、メリットデメリット、活かし方、苦手な状況、その場面でも活かすには。ふと高速回転で喋っていた様子を思い出し、なるほど緑谷くんの頭の中にはこんなものが詰まっているのか、そりゃ早口にもならなきゃ喋り切れないなと納得した気持ちで眺める。熱心で努力家で強い個性持ち、か。

(いいなあ)

 ――努力もせずにこぼす羨望なんて卑しいだけだ。そうやって自分を律したいと思うのに。
 私にも追いたい夢があればよかった。私にも無邪気に信じられる存在があればよかった。私にも、

「轟さん、お待たせ。麦茶でいい?」
「――うん、ありがとう、お構いなく。ごめんね、急に来たのに」
「いや、呼んだの僕だし……来てくれて、ありがとう」

 俯きがちに笑う顔が柔らかそうで、触りたい。指を伸ばしたくなるのを我慢して麦茶を受け取り、緑谷くん個性好きなんだね、と机の上を示すと彼は慌てた様子でノートを閉じた。

「ごめん、見ちゃった。開いてたとこだけ」
「いや別にいいんだけど、恥ずかしい……字汚いし僕」
「そうかなー」

 勢いがあっていいと思うけど。絵も、上手というか図解がわかりやすくていい。緑谷くんヒーローもいいけど研究系も向いてるんじゃないかな。って言わない方がいいのかな、ヒーロー志望者には。

「……僕は、ずっと、無個性だったから」
「え」
「あ、いや! 個性が出るのが、その、遅くて。ほんと最近で、…… …………」
「……緑谷くん?」
「……、ううん」

 何か言いかけた彼が、苦々しい顔で口を閉じてしまう。どうしたの、と何度か促してみても、迷った様子で首を振られてしまう、わずかに開いた唇がすぐに噛み締められて、なぜだか彼は『ごめん』と言うのを堪えているような気がした。

「……謝ることなんて無いよ」
「え?! い、言ってない、よね?」
「言ってないけど、聞こえた」

 笑うと、泣きそうな顔の後に苦笑が返ってくる。素直な子だ。何を謝罪しようとしていたのかは解らないけれど、謝ることなんて本当に無い。しかし個性が出るのが遅かったのか、レアケースだけど無いわけじゃない……あ、だから『まだ上手く扱えてない』のか。そういえば怪我が多いって言ってたな、それもあるのかな。
 でも、そうか。
 彼が抱えたままのノートに手を伸ばす。緑谷くんは一瞬びくっとしたけれど、恥ずかしそうにしつつもそのうちの一冊を貸してくれた。
 きっとどこへ行くにも持ち歩いたのだろう、よれよれになりつつ端の膨らんだノートは、どのページもびっしりと埋まっている。鉛筆、シャーペン、ボールペン。掠れることに気付いたのか、後半はボールペンが多い。ヒーロー名、コスチューム、その効果、メディアからの情報、そこから推測されること、たまに全然関係なさそうな好物とか出身地まで。
 ……これを、無個性の頃から書き続けていたのか。ふとそう思い至って、指先に力が入りかけ――もろくなったノートを破ってしまいそうで、力を抜いた。

「…………緑谷くんは、すごいね」
「え」
「すごいよ」

 私がヒーローに焦がれていたとして。無邪気に憧れる存在がいたとして。無個性の私が、こんなふうにできただろうか。勉強して、体を鍛えて、あらゆるヒーローと個性とその対策を考えて。そんなふうに過ごせただろうか? 無理だろう。

「……怪力が意外って言ったの、覚えてる?」
「え、う、うん」
「緑谷くんが最初っから個性に目覚めてたらさ、多分このノートは書かれてなかった」
「……え」
「私の弟――とか、家族、は。結構、強い個性持ちなんだけど」

 炎と氷、兄も姉も偏ってはいるけれどそのいずれかを継いでいて、誰も決して弱くはない。たとえばお兄ちゃんがヒーローを目指していたとしたら、決して無謀な目標ではなかっただろう。

「強い個性持ちってさ、見ててちょっと雑なところあるんだよ」

 あそこのコントロールもうちょっと細やかにできないのかなーとか。ジェノスもそうだったけど、強いっていうのは力押しができるって意味で、そうなると手っ取り早さを求めがちだ。結果として人質の救出とかには極端に向かない人がいたりする。タツマキさんあなたのことやぞ。あの人は繊細なコントロールもできたけれど、それ以前に『ガバーっとその一帯を更地にしちゃおう』とかができてしまう人なのだ。

「だから――これ見て納得した。なんか、これも『個性』だよね」

 これまで培った理に則って、新しく得た力押しができるようになるだろう。たぶん、焦凍がそうするよりずっとスムーズに。どちらが優れているとかいいとかでは多分ないのだろうけれど、成長スピードは結果として早そうだ。

「……、」
「すごいね、緑谷くんは。……強くなるよ。きっと、すごく正しい意味で」

 なんつって偉そうなこと言っちゃってるね私。ちょっと恥ずかしいわ何様だ。笑いながら振り返って――

「え」

 緑谷くんの大きな目が、面積いっぱいに涙を溜めていた。

「えっ……ちょっ……ご、ごめんなさい?! な、泣かせた?!」
「なっ泣いてない泣いてない! なんでもない!」
「いや泣いてるじゃん! 泣ーかせたー泣ーかせた!」
「それ泣かせた側の歌うやつじゃ、いや泣いてないけど!」
「わかったよごめんて!」

 わあわあ二人で慌てていると、扉の向こうから『いずくー?』と声が聞こえてくる。いずく、誰か来てるの? 穏やかな声に、緑谷くんがはっとした様子で顔を乱暴に拭う。そんなふうにしたら後で目が痛くなるよ、というより先に、彼の元気な『はあい!』が響いた。

「おかえりなさい! 友達来てるんだ」
「あら、出久に友達…… 女の子?!」
「どうもお邪魔してますー、轟です!」
「ど、どうも、いらっしゃい! ちょうどお菓子買ってきたところなの、出久ちょっと来て」
「お構いなくー」

 ドアを開けてわちゃわちゃやっていた親子が慌てた様子で部屋を出ていく。またも緑谷くんの個室にひとり残され、そっくり親子だったな、と微笑ましい気持ちでいると出て行ったばかりの緑谷くんがひょこっと戻ってきた。

「轟さん、お昼食べてかないかってお母さんが」
「え、いいの?」
「うん! 学校の話いろいろ聞きたいって」
「じゃあお呼ばれしようかな」

 同じ学校ったって普通科だけどなあ私。と思いつつ、まあ珍しい学校だけあって話題はそれなりに豊富だ。普通科はヒーロー科移籍を目指す生徒のための特別補習もある(受けたことはない)し、共通の話題だってたくさんある。学食とかね。
 緑谷くんのお母さんは第一印象と違わず可愛らしい人で、ふっくらとした手があたたかい。よく笑う人なのだろう、目尻に小さなしわがある――それを見た瞬間、きゅう、と胸を締め付けられるような思いがした。いずく、と呼ぶ声が、とどろきさん、と私を呼ぶ声が、当たり前だけれど違う。だけどどちらも思いやりに満ちている。

「……親子仲がいいんですね」

 思わず、そんな言葉を口にした。

「そうかしら――そうかも。うちは父親がいないから、余計にそうなのかもしれない」

 それが『滅多に帰ってこない』という意味なのか、本当に居ないのかはわからないけれど、それを聞くのは憚られた。それに、二人きりの家族だとしたって、このご家庭は欠けているようにも歪なようにも見えない。
 リビングには親子の写真が飾ってあって、小さな緑谷くんはオールマイトの着ぐるみで上機嫌そうに笑っている。それを抱くお母さんの笑顔。体育祭に備えて買い替えたのだという最新式の録画デッキはぴかぴかで、そんなこと言って連続ドラマばっかり撮ってる、なんて笑い話に続いた。その、怒ってはいないけれど拗ねたようなポーズをとる緑谷くんと、だって練習しなくちゃ怖いものなんて言い返しているお母さん。

「……、」

 中学入学時のものだろうか、少しかしこまった様子で映る写真に目を向ける。緊張して少し控えめに微笑む、真新しい学ランの少年と、嬉しそうなお母さん。――彼がまだ、無個性であった時代に撮られたはずのもの。伸ばしかけた手を引っ込めて、だけどそれを凝視するのだけは自制できなかった。
 どの写真も母子だ。どの写真も笑顔だ。今ここにいる二人とまっすぐに繋がる、平穏で幸福で、互いを大切に想い合っている親子の図だ。

「…………、」
「轟さん?」
「――いえ、……お名前、うかがってもいいですか? 緑谷くんのお母さん、じゃちょっと」
「おばさんでいいのに」
「そういう呼び方はしない主義です」
「あはは、いい主義ね。引子よ。緑谷引子」
「……引子さん」

 うまく呼べただろうか。うまく笑えているだろうか。
 それよりお母さん、お菓子あるって言ってなかった? そうだった、ちょうどロールケーキ買ってきたのよ、一緒に食べましょう。轟さん、甘いものは好き? フルーツロールなんだけど。
 喉の渇きに似たものを覚える。胸の奥が強く引き絞られる。何かに強く縋りたいけれど、どこにも掴む場所がない。気付かれないようそっと深呼吸して、だいすきです、と答えた。
 おかあさん。おかあさん。 それは、緑谷くんだけに許された呼び名だ。

(――お母さん)

 私がそう呼ぶことを許されているはずの相手は、もう何年も笑っていない。

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2019.11.06