そこまで送るよ。
 緑谷くんの申し出を有難く受け、靴を履く私達に引子さんは玄関先まで見送ってくれた。
 轟さん、今日はありがとう。よかったらまた遊びに来てね。緑谷くんとよく似た笑顔に、是非またお邪魔したいですと心の底からの声が出る。本心だった。けれど、本心はそれだけでもなかった。

「……緑谷くんのお母さん、かわいいねー」
「そう、かな。あんまり言われたことないなあ」
「かわいいよ。優しそうだし、穏やかだし、……私が無個性って言っても、反応し過ぎなかった」

 その言葉に一瞬、目をまあるくした緑谷くんが、そうかもしれない、と淡く笑む。彼も思うところはあるのだろう、元無個性としては。現無個性を、もしかしたら慰めるつもりでいてくれたのかもしれない。僕も無個性だったんだよ、でも最近になって個性出たよ。そんなふうに。そうだとしたら、そう言われなくてよかったと思う。
 私が無個性でなければ。私がなにかの個性を使えていたら、私達はもう少しまともな家庭を築けていたのかもしれない――何度考えたかわからない『もしもの話』は、今はもう議論する価値さえない。だって気付いてしまったのだ、私が欲しかったのは個性じゃない。望んでいたのは私と焦凍に個性が一つずつの状況ではない。

「そういえば轟さんの家って――」

「え?」
って呼んでよ。同じクラスにも轟っているんじゃ呼びづらいでしょ?」

 少しの沈黙を挟んで、燃え上がる勢いで紅潮する顔。
 ……思ったんだけど緑谷くん、女子耐性がなさすぎでは……? ヒーロー科ってえらくモテるもんじゃないの? しかもA組、強者では? 私としては完全に思いつきだった(ついでに焦凍と双子バレしにくくなるといいなという希望)提案を、彼はぷるぷる震えながら『いやでも知り合ったばっかりの女子を名前でなんて』と言い訳のような言葉を繰り返している。私も出久くんって呼ぼうか、と付け加えてみると、ものすごい勢いで首を振られた。若干傷つく。

「ぼ、ぼくはいいよ、緑谷でっ」
「私はがいいなあ」
「っ、……、、ちゃん……」
「…………」

 照れながら――目を逸らしながらも、口にしたその音が。慎重で、丁寧で、まるで大切なものを扱うような響きをしている。
 とどろきさん。

(…………本当に、そっくり親子だなあ……)
「? とど、……ちゃん?」
「……いや、なんか、感慨深いなあって」
「え?」
「ほら、あんまり人に名前で呼ばれることなんかないじゃん? でもいいねこれ。私もそのうち出久くんって呼ぼうかなやっぱり」
「み、緑谷でいい、デス」
(そろそろ慣れてくれたかと思ったんだけどなー)

 まあでも、この不慣れな感じも可愛いかもしれない。いじりたくなってきた。わざと距離を詰めて顔を覗き込むと、ピャッと飛び上がる勢いで逃げられた。可愛いし楽しいけどやはり若干傷つくのでやめよう。

「――、ここまででいいよ、ありがと」
「え……あ、うん。また、学校で」
「うん。またね、緑谷くん。気を付けて」
「とど、ちゃんもね!」

 いつもの公園より少し家に近付いたあたりで解散する。少し不安そうな顔だったけれどまだ夕暮れと言っていい時間だったからだろう、頷いて来た道を帰っていった。その背中をしばらく眺め、適当な壁に寄りかかる。

(……身体、重い)

 お昼は焼きそばをごちそうになった。たんぱく質を補給したいらしい緑谷くんのお皿には目玉焼きが三つ乗っていた。デザートにロールケーキをいただいて、マグカップで飲むお茶がたっぷりで。素朴で幸せな食卓だった。
 そういえばジェノスと先生と、遊びに来ていたキングさんと、ホットプレートを囲んだことが何度かあったな。お好み焼き、焼きそば、たまにホットケーキ。ジェノスはあれで甘いものが好きだった。つらつら考えながら、緑谷くんの姿もすっかり見えなくなって、自分も家へ向かって歩き出すべきなのにそうできない。
 バナナ、牛乳、卵。ブロッコリー。筋トレと走り込み。手合わせ。ヒーロー活動。
 ぴかぴかの録画デッキ、オールマイトのポスター、テレビに向かって設置されたソファ。引子さんはきっとあの場所に座って、緑谷くんの活躍を見守っているんだろう。声を出したり腕を振ったりするかもしれない。我が子を応援する親の姿が、あまりにも容易に思い浮かぶ。

(……帰りたくないなあ……)

 そういえば、昨日も、心操くんに送ってもらったところだったな。
 忍び寄るような冷気、その奥にある激しい熱の気配。母とよく似た顔、父とよく似た眼差し。あのふたりと同じ色彩。ふと、手を開いて見下ろして、すぐに止めた。あの一家の中で、私だけが似ていない。私だけが異物のようなのは、前世持ちだからなのだろうか。――実際、異物だから、なのだろうか。

「……」

 少し、眠い。家に帰りたくない、あの家に帰りたくない、あの玄関に足を踏み入れる気力が湧かない。どうしてだろう、ひどく疲れている。いつまでも、道端で壁に寄りかかっているわけにも、いかない。
 壁と一体化してしまったような身体をはがして、あてもなく歩き始める。

(みどりやくん)

 ヒーロー志望の男の子。好奇心に満ちたきらきらした目をしていて、最近になって発現したという超パワーを少し見せてくれた。彼の母親の引子さんはものを引き寄せられて、父親は火を吐くことができるのだという。
 無個性だと判明した時、彼は泣かなかったのだろうか。彼女は泣かなかったのだろうか。父親はどうしたのだろう。あの家族、は。
 自分の子供が、どうしようもなく無力な存在なのだと知った時、彼女らは。

「……」

 あてもなく立ち入った路地裏で、ふと仄暗い光を見つけてつい目が吸い寄せられる。暗がりに潜むような扉に近付いてみると、そこはバーのようだった。ちらちらと頼りない灯は、とても客を迎え入れようとしているようには見えない。見えないけれど――だから、かもしれない。チョコレートのような分厚く大きな扉を、押し開けていた。

 からん、と控えめにベルが鳴る。店内の視線が一斉に集まり、散って、そのうちの幾つかは気配を控えめにまた集まってきた。
 どこかで、ガキの来る場所じゃねえぞ、と囁く声がする。

「――初めてのお客様ですね。どうぞ」
「おい黒霧」
「お気になさらず」

 いつの間に、そこに居たのか。カウンターの内側から、煙かなにかの個性と思わしきバーテンダーが声をかけてくる。
 ……私はたぶん、成人には見えないだろう。化粧と服を頑張れば誤魔化せるかもしれないが、まるっきり朝ランの格好のままだ。けれど席を示す手に甘え、カウンターの端に座らせてもらう。分厚く硬い、一枚板のバーカウンター。しかも耳付き。店内を見回せばどうやらソファは本革、吊り下げられたグラスにはリーデルの刻印が見えた。酒の銘柄はよくわからないが、こんな治安の悪い場所にはちょっと珍しいほど重厚な店だ。
 ちっ、と軽い舌打ちが聞こえて、視線だけ向ける。先程バーテンダー――黒霧さんというらしい――を咎めるように呼んでいた人だ。個性由来のものか、顔に何かくっついていて表情がうかがえない。不自然でない程度に視線を逸らしていると、なにかお飲みになりますか、と声をかけられた。せっかく上げてもらったのに注文しないわけにもいかない。

「そう、ですね、……」

 この身で酒を飲んだことはない。第一に未成年だし、飲めるような環境でもなかった。父や兄の晩酌をこっそり味見する、なんて状況は存在しなかった。だけど前世ではそれなりに嗜んだし楽しんだ。先生はそれほど飲まなかったから、もっぱらヒーロー協会での飲み会や顔合わせなどだったけれど。

「――ウイスキーを、いただけますか」

 頼まない方がいいことは知っていた。飲まない方がいいことくらいはわかっている。腐っても無個性でも雄英生徒、未成年。エンデヴァーの娘、将来の大物ヒーローの双子の姉。どんな些細な醜聞だってきっかけを作るべきじゃない。でも、だけど。

「銘柄はいかがいたしましょう」
「詳しくないので、香りのいいものをお願いします」
「なるほど」

 何が成程なのか。と思う間もなく、一度深くかがんだその人が重そうなビンをカウンターに乗せる。黒に近いほど色の濃いガラスの中で、もう漆黒にしか見えない液体と思わしき影が揺れる。先程舌打ちをしていた、水色の髪の人も、それを眺めているようだった。
 ビンの蓋が音を立てて開く、数秒遅れて香りが漂ってくる。まあるい氷を、なだめるように滑り落ちてグラスを満たす琥珀色。

「お待たせいたしました」
「――いただきます」

 滑るようにやってきたグラスに、誘われるように指を触れる。薄い縁を撫でただけで、指先が凍るような冷たさを訴えた。美しく澄んだ丸い氷が音もなく回転する。その表面に絡んだ液体が一瞬見えて、瞬きの間に落ち切っている。……きれいだ。
 誘われるまま口を付けると、鮮やかな薫香に脳を揺さぶられたような気がした。じんと舌を痺れさせ、喉を焼いていく液体。懐かしい、――懐かしい、前世ぶりの酒の味。
 思わず天を仰いでいたところ、まぶしいほど真っ白な紙ナプキンが差し出された。疑問に思ってバーテンダーを見返すと、本来ならばハンカチを差し出すべきではあるのですが、と返ってきた。どういうことだ。声に出して訊ねようと口を開いた途端、頬を伝って涙が落ちる。

「……、ありがとうございます」

 泣いたつもりなんてなかったのにな。引き抜いた一枚に涙を吸わせ、それ以上流れてこないことを確認してから再びグラスに口を付ける。揺れるたび、丸い氷が滑らかな金色の光を纏う。そういえば尖った氷を『笑っている』、角のない氷を『泣いている』と呼ぶ表現があったはずだ。それがこちらの世界でも存在するのかは知らないが。
 グラスから口を離し、深く息を吸うと体内で香りが膨らんだように思った。涙はもう出ない。氷が代わりのようにグラスにぶつかり、華やかな音を鳴らす。
 ああ、……ああ。
 自分の中にくすぶっていたものが、ゆっくりとほどけていく。緑谷くん、引子さん、心操くん、先生、ジェノス、お父さん、お母さん、焦凍。お姉ちゃん。お兄ちゃん。学校。個性。自分。それらに対する想いが、たぶん言葉にするのはよくないものが、霧散していく。

「……」

 泣きはしないものの、潰れはしないものの、両肘をついて背中を丸め、グラスをじっと覗き込むような体勢になる。たまにグラスに口をつける。そうすることしばらく、やがて飽きたような溜息が聞こえた。

「美味いもんじゃないだろう、そんなもん」

 呆れたような声だ。気怠く視線を向けて――意識したわけじゃないけれど、どうしても動きがのろくなった。酔っているのかもしれない――声をかけてきた人を確認する。水色がかった灰色、個性と思わしき幾つものてのひら。そのうち一つは顔を覆って、隙間から血走ったような眼が覗いている。なんていうか、ホラーな個性だ。
 言わんとしていることはわかるけれど、酒ってのは美味い不味いじゃないんだよなあ。そんな言葉が出てくるあたり、この人はまだ若いのかもしれない。もしかしたら未成年か。ギリギリの線だな、筋肉も身長も大した目安にはならない。ぼんやり思いながら、琥珀色をもう一度舐める。

「……美味には、いくつか要素があるそうです」
「は?」
「生理的要因、心理的要因、文化的要因、……あと何だっけな」

 生理的要因、たとえば全力ダッシュ後のスポドリや喉が渇いている時の水。必要な時には必要なものがうまいという話。
 心理的要因、うれしいときに食べるものは大体おいしい。みんなで食べると美味しいね、なんてのはここにカテゴライズされる。
 文化的要因、これはまあ『思い出の味』みたいなものだ。海外で食べる和食が染みるとか久々の味噌汁がうまいとかそういうやつだ。
 だから私にとって美味しいものが多いのは仕方がない話だ。酒、鍋、焼きそば、お好み焼き、ホットケーキ、うどん、バナナ、牛乳、からあげ、……前世で食べたすべてのもの。先生やジェノスと囲んだ食卓。

「お酒が美味しくないっていうのは、あなたにとって必要でも思い出でもないってことです。それは、健康で良いことです、たぶん」
「……」

 なんか煙に巻いた感じあるな、そんなつもりじゃなかったんだけど。またもグラスのふちに口をつけると、ガキが、と吐き捨てる口調で言われたがあまり怒らせたような気はしない。なぜか、なんとなく、『気がする』程度の思いだけれど――もうすこし無駄口を叩いても許される気がする。
 バーテンダーさんは聞いているのかいないのか、多分こういうところでは聞かないのがマナーの一種なのだろう、静かに氷を砕いている。他にもお客さんはたくさんいるけれど、意外なほど静かだ。……ここまでは、聞こえないだけかもしれない。誰かの声の気配はするから。
 いつのまにか水と、チョコレートとアーモンドの小皿が添えられている。これはあれだな、アマイマスクさんに連れてってもらったレベルのお店だな……。まさか今世になってこの年齢でこんな環境に触れられるとは思わなかった。アーモンドを一つ噛みながら、やっぱり少し酔っているのかもしれない、と思う。とろり、思考回路が溶けそうになっている。

「……変なことを言いますけど、お酒自体が思い出の味なんですよ、私には」
「……ガキだろお前」
「まあ、はい、ガキですけど。ガキにも思い出のひとつふたつはあるんです」

 思い出――そう呼んで、違和感を覚えた。私には『思い出』だろうか。先生が、ジェノスが、フブキさんがタツマキさんがミズキちゃんがキングさんが無免ライダー先輩がソニックが、みんなが、私には?
 うすぼんやり、ゆらゆらとしていると――白い錠剤が、添えるようにして差し出された。

「……?」
「みたところ、あなたは憂いを抱えておいでですね」
「黒霧」
「この方は大丈夫でしょう」

 酔い止めだろうかと思ったけれど、そんな野暮なもんではないらしい。小さなファスナー付きのビニール袋をつまみ上げるも、これといって珍しいものには見えない。風邪薬と言われれば信じそうなものだ。視線を上げると、リフレインといいます、とだけ返ってきた。

「リフレイン?」
「幸せな過去を見ることができるそうで」
「……」
「サービスです、最初はね」

 つまり、薬物。
 ……治安が悪いなと思ったけどわりとマジのガチで治安が悪かった。まじまじ眺める白い錠剤に、あれって液体だけじゃなかったのか、錠剤タイプが最近出たんだとよ、という会話が背後で聞こえる。これ私が私服警官とかだったら一発アウトだぞ。という気持ちで再び視線を向けるけれど、体すべてが煙のようなバーテンダーは表情ひとつ変えず――なんとなく、わずかに笑んだようだった。

「……危ないですよ、こんなもん初見の客に渡したら」

 すい、と押し返す。カウンターの逆端に座る人が、目を丸くした気配がする。
 まあ私が警察に駆け込んでも問題ない造りにはなっているんだろう多分。ごまかしがきくのか、店自体の場所を変えられるのか、はたまた私に何かトラップを仕掛けるのか。後ろ暗くてとても駆け込みなんかできないけど、そのへんを重々承知でいらっしゃるのか、知らないが。

「――もっと平和に、イカレ話に付き合ってください。酔っ払いの戯言を、ただ聞かずに聞いてください」

 ここにはいない人の話を。

「……参考までに、戯言とは?」
「…………めちゃくちゃ強くて若干脳筋っていうか戦闘狂で、ちょっと冷たいくらい平等で、自分の芯をしっかり持った人がいるんですよ」

 不思議な人だった。てんでヒーローらしくなんかないのに、誰よりヒーローを体現していた。

「私と――もうひとりが、ほとんど同時にその人に惚れこんで、押しかけて、……ノリと勢いって感じでしたけど、どうにか弟子入りできて。一時期、家族みたいに一緒に暮らしたんです。登録が一緒だったので仕事始めも一緒でした。営業回りみたいなこと、一緒にして、……、」

 その先が、喉の奥で詰まってしまった。
 絡んできたソニックを追い払った。絡んできた徒党を組んだヒーローを、ぶん殴ろうとして先生に止められた。別にこいつらが言ってること間違っちゃいねえよ。その目にあるのは諦念でもある種の断絶でもなく、ただただ、自分の選んだ道を行こうという意思だった。
 俺は、やりたくて、ヒーローをやってるんだ。
 大切なこと、くだらないこと、強かった敵のこと、覚えてもいない敵のこと、何故か付き纏ってきた敵のこと。ジェノス曰く悪質なストーカー。油断すれば首を落とされるな、と察しつつ、なんだか嫌いにはなれなかった。いちおう同業であった人達のこと。
 話したいことはたくさんある。語りたいことが沢山ある。誰にでもいいから聞いてほしい、あの人の存在を、私達のことを、どんなに大切で愛おしくて焦がれて焦がれて、

「…………過去に したく、ないんです…………」

 せんせい。
 サイタマ先生。
 誰より強くて寂しくて乾いた人。あのひとを完璧だなんて思ってない、理想だなんて思ってない。結構面倒くさがりで節約魔で子供っぽいのに母親めいたところがあって、すぐ頭に血が上る私達を冷静にさせるのが上手だった。ジェノスも私も、先生に会ってから余裕ってものを覚えた。力を抜くのがとても上手なあの人の傍で毒気を抜かれてしまうことが多くあった。くだらない冗談で笑い合えるようになった。復讐以外のものを目に映すようになった。せんせい。先生先生先生。
 いつまでもあなたに焦がれていたいんです、先生。

 俯いた視界に、すっと滑り込んでくる白い錠剤。顔を上げると、やはりあなたにはこれが必要なようです、と短く告げられる。
 美しい思い出に浸り続けるための薬。リフレイン――『繰り返し』。

「今までこういったものを使った経験は?」
「……ないです」
「素晴らしい。耐性は無い方が――精度の高いものを見られます」
「…………」

 てのひらに転がる錠剤。幸せな記憶を繰り返すための薬。記憶と妄想の具体的な差は何かというとそれが実在したかどうかであり、脳にとってその差は無いに等しい。ならば私は、見られるんじゃないか、あの世界を。あのひとを。未だ手放せない感情を。

「……、」

 この白い粒は、あの世界につながる扉なのではないだろうか。
 薄いビニール越しのそれを握り締めた瞬間、また少し小さくなったらしい氷がグラスの中で音を立てる。舐めるような飲み方をしていたウイスキーだったけれど、それでもほとんど干してしまっていた。

「またのお越しを、お待ちしておりますよ」

 席を立とうとする気配を察したらしい、煙のようなバーテンダーが言う。顔の見えない客、なのか、オーナー関連なのか、グラスを置いてはいるものの酒を飲んでいる様子はない人が視線だけをこちらに向ける。

「どうやら貴女は、こちら側だ」
「…………?」
「お気をつけて」

 ……入店した時と同じ、控えめなベルに送り出され。路地を出る直前で振り返った先には、その扉は暗闇に沈んで見えなくなっていた。

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2019.11.08