久々の――初めての、か。酒が足元を覚束なくさせている。
 水とつまみを入れたとはいえダブルをロック、氷は溶けきらなかった。そりゃあ酔いもするわと、ふわふわの足裏で思う。しかしまあ構わない、なんかもうすぐ体育祭だった気がするけれど別に私の関わるこっちゃない。やるからには勝ちたい気持ちはあれど、勝ちを狙って『やる』ほどの情熱が自分の中に無いのは知っていた。
 緑谷くんは、全力なんだろうな。日中、一緒に過ごした子のことを思う。
 ヒーローみたいだなと思った。彼の境遇を知って、なおさらに。誰にも当然あるべき能力を持たずに生まれながら、努力して成長して、然るべき力を手に入れて、優しさと強さを併せ持つ。たぶん傷ついただろう、平坦な道ではなかっただろう。数冊あるノートは、焼け焦げたものや水たまりに突っ込まれたと思わしき泥汚れのものもあった。私が『エンデヴァーの子供』という肩書で得た恩恵を、彼は持っていなかったのだろう。だけど挫けず、雄英に入学した。この国でヒーローを目指す者ならエリートコースど真ん中。シンデレラストーリーではない、あくまで自助努力の賜物だ。

(……ヒーローみたい)

 あんなきらきらした目をして、あんな温かい場所で育って、きっと何事にもそうなんだろう、一生懸命で。名前も知らないような女を慰めたり力付けたりするような心をしていて。
 困難を乗り越え、理想を手に入れて輝かしい場所で生きる人。

 ――どうやら貴女は、こちら側だ。

 どっち側だか知らないが、たぶん緑谷くんがいる方の川岸ではないのだろう。もっと暗くて寒くて、足元さえ覚束ないような場所を……酒を頼りに歩いている。ポケットに、おそらく違法薬物を携えて。
 やべえなヒーローの風上に置けねえな。風下すら危ういわ。今の私、ヒーローじゃないけれども。そう思った瞬間、自然と足が止まっていた。未だふわふわと頼りない足裏は、だけど心地いい。
 私はヒーローじゃない。じゃあなんだ。雄英普通科一年生、無個性、エンデヴァーの末娘、轟焦凍の双子の姉。お姉ちゃんの妹、お母さんの娘。肩書は私個人というより誰かや何かとの関係性ばかりで、――それらすべてが、ぐらついている。居場所も、行き場も、あまり無い。

(一日前までは、それをどうにかしたいと思っていた気がする)

 私が無個性でなければ、少し何かが違えば、轟家はもうちょっとマシな場所だったんじゃないか。そんなどうしようもない、もしもの話ばっかり考えていた。だけどまあ無駄だよね。薄々わかってはいたそんな結論を、今はハッキリ意識している。

 無駄だよねえ。私はどうしたって無個性のクソモブだし、そうでなくても過去は変わらない。たとえば今この瞬間に私に個性が発現したとして――何かが変わるとでも思うか? これまでのことが全部なかったことになるか? 父を、母を、無条件に愛せるか? たとえば緑谷くんが引子さんを慕うみたいに?

(……無理ッスわぁ……)

 論ずるに値しない。無理。
 私は私の無個性を気に入りつつもどこかでコンプレックスなのかなあと感じていたけれど、そんなことはなかったわ。妙な言い方をするけれど、在っても無くても多分同じだ。――あの両親が、あの両親でなくては私やお姉ちゃんや焦凍をつくれなかったように。私は無個性として生まれた、その現実が全てだ。否定しようとは思わない。どうにかしたいとも、思えない。

(ただ、もう、悲しいだけだ)

 そしてそれは、『終わった』ことへの感情だ。足を止め、両手をポケットに突っ込む。片手に触れる錠剤の感触。これ何回分あるんだろう、一回何錠なんだろう。ヤバい薬なんだろうし一気に飲むのはまずいよね多分。飲んだとして、ハマったとして、一回分いくらくらいするんだろう。……飲む気でいるのかなあ、私。お守りくらいの気持ちで貰ってきたつもりだったんだけど。
 指先で感触を確かめつつ弄んでいると、いつのまにか注目を浴び始めていることに気付いた。

「なあ、おい」
「あそこ」

 ひそひそ聞こえる声、ちらちら向けられる視線。……やっぱり女一人でこの地域は危険だったか。このへんはヒーロー事務所も交番も少ない。初見の客に薬をあげちゃうような店があるのだ、そりゃそうか。物思いにふける暇もないな、ちょっと走るか――と、両足首を軽く回し膝から力を抜いて準備態勢に入ったところ、ずるりと音が聞こえた気がした。さっきよりずっと狭い路地に、なにかが引きずられている音がする。注目を浴びているのは、私じゃなくてそっちだったか。

「――ぇ」

 関わる気はなかったのに。ちらと向けた視界に、肌色が見えた。裸足だ、――はだか、だ。

(え、女の子 ?)

 背後で笑う気配がする。誰かが揶揄して声を上げている。身を護るように身体を縮こまらせている女の子の、結い上げられた淡い金髪が跳ねている。
 反射的に、誰かの下卑た声を踏みつぶすように、浮かしかけていた足を踏み鳴らした。

「どうしたの、大丈夫? 寒くない?」

 抱えた膝の間に顔を伏せていた女の子に声をかける。びっくりした顔がこっちを向いた、その顔と体に怪我が無いようなのを確認しつつ、脱いだ上着を広げて表通りから隠す。どこからかブーイングが聞こえたけれど構っていられない。日除けでしかないパーカーは薄く、長さとしても頼りないだろうけれど、抵抗する様子は無いので彼女の肩にそれをかけた。

「……怪我してない? なにか必要なものある? 水とか、薬とか」
「…………」

 肩にかけられた上着と私に交互に視線を向けていた女の子が、やがて状況を理解したらしく小さく頷く。よかった。思わず出た声に彼女はやはりきょとんとして、……数秒後、ちいさく笑った。

「優しいんですねぇ。……もしかしたら、私がワルモノなのかもしれませんよ?」
「……それでも夜にこんな場所で一人でいる女の子、放っておけるわけないじゃない……」

 こんな格好の、という言葉を咄嗟に略したのは、よかったのか悪かったのか。彼女はますます目を細め、パーカーのファスナーを閉めて立ち上がり、上機嫌そうにくるんと回った。お尻が隠れるか隠れないか程度の長さしかない様子が際どい。思わず自分も立って、通り側からの壁になる。やはり誰かのブーイングが聞こえ、うるせえな殴ってこようかな……と顔を半分向けていたところ、身体の正面にドスッと衝撃があった。

「ぇ」

 するりと伸びて絡みついてくる、肩と背中に回されたそれは彼女の腕だ。反射的に向けた顔に、触れるほど近くに迫る顔があった。そうしてやっと身体に受けた衝撃の、重みの、あたたかさの正体に思い当たる。ハグと呼んでいいのかわからない、ただ艶めかしく寄せられている肉体。バランスを崩して後ろへ下がった足と対照的に、腕は彼女の腰へ回されていた。

「やさしいんですね」

 間近に迫る薄い唇が、幼い声に似合わないひそやかさで言う。抱いた身体はあたたかくて、やわらかい。微かになにか、甘さとも苦さともつかない匂いがする。思わず腕に力がこもり、耳元で『んっ』と誘うような声がした。

「……ごめん、あの」
「ふふ、なんでしょう」
「……寒くて……つい」
「上着、私がもらっちゃいましたもんね。責任もって、あっためてあげますね」

 すりすり、スポーツウェアの強張りの中で柔らかな肉体が動く。ひどく効果的に寄せられる。抱く腕をまたきつくしてしまいそうで、意識して指先の力を抜いた。ふう、と首筋に彼女の溜息が触れる。

「――個性の関係で、服が溶けちゃうんです。いつもは着替えを持っておくんですけど、今日は盗まれちゃったみたいで」
「そう、なんだ……災難だったね」
「災い転じてってヤツです」

 こーゆーの何度かありましたけど、上着をくれる人なんて初めて会いました。そう、何気なくささやかれているであろう言葉が、いちいち耳をくすぐっていく。なんだかぞわぞわしてしまって、無意識に力が入ってしまう一方、どこかで強制的に脱力させられる。

「お迎え来るので心配ご無用なんですよぉ。……でも、それが来るまで、一緒にいてくれませんか?」

 こつ、と額が触れる。そうやって見つめられてしまうと、もう頷くしかできなかった。

 この子、お色気個性か何かなのかな。と思ってしまうくらい、頭がばかになっている自覚がある。ろくにものを考えられない、ものすごく短絡的になっている気がする。それとも自覚しているより酒が回っていたんだろうか。並んで壁に寄りかかったものの、トガヒミコと名乗った彼女は私の片腕にまとわりついていた。その感触が本当にあまりにも心地よくて、尋ねられたことを考える前に答えてしまう。お名前聞いてもいいですかあ。轟。じゃあちゃんって呼びますね。私はトガちゃんて呼んでもいいかな。いいですよぉ、ちゃん学生さんですか、学校どこですか。雄英の一年生。エリートさんじゃないですかあ。つっても普通科なんだけど。普通科でも充分じゃないですかあ、でも雄英の生徒さん、煙草とお酒のにおいがしますねぇ? ……内緒ね。ふふ、はあい。トガとちゃんだけの秘密ですね。お酒、なにが好きですか? 大体なんでも、けど強いのが好きかな。やだあワイルド。トガちゃんは学校どこ? トガはほとんど学校行ってないんですよお。そうなんだ。えへへ、趣味が楽しくって。でもこういうの、エリートさんは嫌ですかね? そんなことない可愛いと思う趣味に全力なのもいいと思う。ちゃんやっぱ優しいですねえ。いちゃいちゃべたべた、触れそうな間近で囁き合ったり内緒話みたいに耳に手を当ててこしょこしょ喋ったり、これは、なんというか、誤解を受ける。彼女の格好も相まって不純異性交遊、いや不純同性交遊の直後か直前か下手したら最中と疑われても仕方がない距離だ。と、わかっちゃいるのに、その『わかってること』を無視できてしまう。

(そういやハニトラを仕掛けられたことはほとんど無かったな……弱かったのか、知らなかった……)

 前世のヒーロー活動は話し合いも策略もなく怪人との喧嘩みたいなバトルが大半でしたので……収集される際も全面戦争って感じで話し合いとか云々の部分は協会本部とかS級の一部が担ってたっぽいし……。
 別のことを考えて気を散らせているのがバレたのか、トガのこと忘れちゃヤです、と腕に触れる身体の面積が広くなった。包むように抱くの! やめてほしい! この子天然でこれなのかな怖い!

「……あ、」
「ん」

 お迎え、来たみたいです。その言葉の通りに、すぐ近くに車が止まる。強すぎるようなライトが眩しく、車の全貌も明らかにならない。
 さっきまでぴったりべったりくっついていたのが嘘みたいにするりと離れ、それだけは無事だったらしい小さなバッグを持ち上げた。路地裏を抜けて車の方へ歩いて行った彼女が、くるんと踊るように振り返る。その指先で、ファスナーを少し下げた。胸の谷間あたりまで開かれたその肌が白くわずかに陰影を持っている。

「これ、もうちょっと、お借りしていきますね」

 パーカーを示しているつもりらしい指先が誘うように動く。触れて絡め取りたい衝動に襲われる。それをわかっているみたいに、彼女は目を細めて笑った。思い出したように裾を引っ張る――太ももの際どいところまでしか隠れていない丈が、その仕草を却って扇情的に見せる。

「ちゃぁんと、お返ししますから。……また会おうね、ちゃん」

 小首を傾げて笑う口から犬歯が覗く。
 ほとんど茫然自失のうちに彼女を見送り――我に返ったころには、酔いもすっかり醒めていた。

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2019.11.11