また会おうね、ちゃん。
 そう笑った口の中に覗いていた犬歯。触ったらきっとちょっと痛いんだろう、それ以前に指を入れたりしたら噛まれるかもしれない。甘噛みなら、ちょっとされてみたいかも。小さな口と赤い舌。腕や胴体と同じく、なめらかに動いて擦り寄ってくるんだろうか。薄いけれど女子らしく柔らかそうな、淡く色づいた唇。子供っぽいのにまとわりつく声。可愛いんだけどちょっと毒っぽくて、あまりにも非常事態で怪しくて、でも放置なんかできなくて。ハニートラップ――そんな単語を彷彿とさせる、蜂蜜みたいな女の子だった。
 おかげさまでというべきなのか、彼女のせいでというべきなのかは不明だけれど、私は呆気に取られているうちに帰宅できたしお風呂に入って眠れたし翌日また学校に行けたし、心ここにあらずな状態でも(だからこそ?)日常生活を送ることができた。

 そして運命の雄英体育祭、第二種目にて脱落。

(まあうん、わかっちゃいた……わかっちゃいたけど若干悔しいな……)

 そもそも無個性と騎馬戦組んでやろうって人がいなかった。心操くんや普通科の友達が気を使ってくれたけれどさすがにこの場面で足を引っ張るわけにはいかないし、他の科の人とも組めるわけがない。最終的に似たような状況の人達と組み、あっさり敗退。さもありなん。怪我しなかっただけ良しとしようか――切ない気持ちで溜息を吐き、

「ランチラッシュのカップからあげ450円でーす! ドリンクセットで600円!」
「くださーい!! セットでお茶も!」

 とりあえず見物に専念するとしよう! ランチラッシュのからあげが観戦スタイルで食べられるとか最高かよ!! ランチラッシュありがとう経理科の商人魂もありがとう。マジで雄英に来てよかったことランキング堂々の第一位です学食。二位は心操くんたちと会えたことです、友情も食欲には勝てないのだよ……。できればビールが欲しいところではあるが未成年だし我慢しよう、いや久々のお酒おいしすぎたなマジで。また今度あのお店に行こう、今度は化粧と服をきちんとして。

「あんたお昼終わったばっかりで……」
「揚げ物は別腹なんですよねぇ」
「それを言うなら甘いものとかじゃねーのか」

 ドヤ顔を披露したところ呆れ顔をされて終わった。ついでにからあげを一つ奪われた。人に! 呆れた顔を! しておきながら! 腹いせに彼女のカップからベビーカステラをひとつ奪う。蜂蜜の甘い匂いがぷわんと広がって美味しい。甘いしょっぱい甘いのループいくらでも繰り返せるぅ……。

「そういやエンデヴァー来てるってよ」

 ――その一言に、わいわい楽しんでいたおやつのやりとりが中断された。

「すっげ大物じゃん。やっぱ今年はオールマイトがいるから?」
「いやーお子さんがいるからじゃないの。ヒーロー科と普通科にいるわけでしょ? 轟なんか聞いてないの?」
「……さあー。やっぱ子供相手でも守秘義務とかあるんじゃないのー?」

 喉に詰まりそうなカステラをお茶で流し込んで、言う。そっかー、しかし現役ヒーローのトップ二人が揃ってるとか滅多にないよねえ。あの二人あんまり一緒に仕事しないもんな。そんな会話が流れていくのを聞きながら、見えもしない方向――ヒーロー科のいるであろう方向を眺める。スタジアムと呼んで遜色ない会場は広く、人は多く、たったひとりを見つけるなんてできない。

(焦凍)

 十中八九、焦凍にちょっかい出しに来たんだろう。
 念願の雄英入学、成績トップに浮かれてんのか知らないが、構いすぎて嫌われてる部分もあるって気付いてないのだろうかあの人は。気付いた上で、その方が効果的だと考えてたりするんだろうか? どうだろうなあ。そこまでゲスではないと思いたいけれど、目的のためには手段を選ばない派(少なくとも個性婚を行いその子供達に意識的に格差をつけられる程度には)だからな。からあげ最後の一個をもぐもぐしつつ考える。あの人の愛情だかなんだかって結局よくわかんないんだよなー。まあ劣等感から始まったものが最終的に愛情や救いに育つこともあるだろう多分。今がどうかは知らないが。

「そんなことより心操くん大丈夫かなー、そろそろでしょ出番」
「初戦突破なるかな~……正直ここまで来ただけでも大したもんだけど。普通科から出たの心操だけでしょ」
「科を移籍ってことまで考えたらもうちょい目立たないと痛いんじゃないの」
「戦闘能力が全てじゃないと思うけどなヒーローって」
「……うん」

 全てとは言い切れない。けれどまあ、大前提ではある。強いだけじゃやってけない(かもしれない)が、強くなくちゃそもそも無理な職業だ。そのうえで何を成すのかだろう、なんて。

(……私も現役でもないくせに大口を叩くよなぁ……いや言ってないけど……)

 そもそもサポート特化の役割や個性だってあるわけだし、私の定義とこの世界の定義はちょっと違う。いいかげん余分なことを考えたくない、自分の領域でもないくせに大言壮語を吐くばかりなんて下品にもほどがある。

(やっぱ情緒不安定というか、機嫌が悪いのかもしれない……やめやめ、応援に集中しよう)

 ちょうど会場が歓声に沸く。リングへ近い立見席にみんなで押し寄せて、勝っても負けても心操くんに声をかけるつもりである。そういうのは入退場する選手たちに近しい生徒達には許されているらしく、教師や学校側からの心遣いであり、メディアから考えればいいシーンを撮るチャンスでもあるのだろう。

「あれ第一種目で一位突破した……えーとなんだっけ、みどりや?」
「……緑谷出久」
「そうそう。なんか地味なのにやること派手だったよなあ」

 友人達の声を聞きながら、手すりに肘をついて見入る。心操くんの背中越しに、なんだか緊張――というか、警戒しているような緑谷くんがいた。ネタバレしてんのかなあ。誰かが言う。
 試合が開始したというのに、始まったのは舌戦だ。心操くんの個性上は仕方ないとはいえ、わざわざ怒らせるような挑発が続く。そういうことするからヴィラン向きとか言われんだぜ心操くん。

(心操くんらしいっちゃらしいか。……フブキさんやタツマキさんも、まず挑発するタイプだったなそういえば)

 あの姉妹は特に計算してそうって訳じゃなかったんだろうけれど――いや解らないな、特にタツマキさんはわからないな。でもフブキさんもナチュラルに上からっていうか彼女はそういう人だからなあ。
 絶世と呼んでいい美貌に相応しい、きっつい性格をしていた。本当は優しいところもあったのに、それをなんだか恥じているような人達。裏方でだっていくらでも活かせるような能力だったのに、敢えてか真正面からばかり挑んで。自信と呼んでいいのかさえ定かでない、自分が強者であるのが当然の顔をして。いつでもつんと顎を上に向けていた。

「なんてこと、言うんだ……!」

 あっやべ見てなかった。
 発言のどれかがよほど気に障ったのか――言い返して動いた緑谷くんが、傍目にも硬直する。

「かかった?」
「かかった、ぽいね。やるじゃん心操」

 緑谷くん頑張れよ、と言いたい気分と、やっぱりか、という思いがある。
 そうだよなあ、無駄だ。あの二人を前にした大抵の怪人は無力そのものだった。緑谷くん、応援したかったなあ。勝ってほしかった――かどうかは、なんとも言えない。心操くんと緑谷くんだったら心操くんを応援したいのは普通科だしお隣さんだから仕方ない。

(どうなるかなーこの後…ここまでそこそこ活躍できたし洗脳の強力さはプロも認めるところだろうし、そろそろ移籍の可能性も出てきた)

 心操くんヒーロー科移籍かあー。寂しくなるなあ。あんまり怪我しないでほしいけど、それも無理な話だよなー。ひとまず今日をどう終わらせるかが肝心……とつらつら考えて俯いていた額に、ごうっと巻き上がる風で髪が乱れた。

「え、」

 湧き上がる歓声、マイク先生の絶叫。踵を返してリング外へ歩いて行ったはずの緑谷くんは、その場に踏みとどまって振り返っていた。片手の指が、一部、グロい色になっている。
 まさか、自力で。精神感応系の個性、希少ゆえに対策もあまり練られていないものを、自力で?

「…………」

 手すりに伏せるようにしていた身体を起こす。声も出せない私の前で、リング上で、状況が展開されていく。心操くんがなにか言う、その顔に、いままで重ねるように見ていたフブキさんやタツマキさんの影が剥がれて消えていくようだった。
 子供っぽくて騒がしくて、怒りっぽいけどちょっとだけ優しくて、愛情の形がなんだか少し変わっていた、S級ヒーロー。
 たくさん部下を従えて――と言っても実際、彼女はヒトが好きだったのだろう――勝つこと、勢力を伸ばすこと、守ることに重きを置いていたB級ヒーロー首位。
 形は違えど彼女達はいつも飄々と自信家で、だれかに敵わないことなんて――それこそ、先生以外には、無かった。

(……泣きそう、だ、心操くん)

 叫び、怒鳴り、押し合い殴り合いに発展した試合は、はっきり言って見苦しい。その見苦しさに、彼らの必死さがそのまま出ている。本気で勝ちたくて、本気で、先に、行きたくて。諦めたく、なくて。

「…………、」

 ごめん。言いそうになって歯を食いしばり、手すりを強く掴む。
 私は。君のことを、なにも見ていなかったのかもしれない。君のことを――だけじゃなくて、もしかしたら、この世界の、全部を。

 彼に重なっていた自信家の横顔が剥がれて落ちていく。いつだって指先一つで状況をひっくり返して見せた、まるで幼女のかたちをしたヒーローが、掻き消える。
 脳裏でタツマキさんが『馬鹿ね』と見下ろしてきた気がした。フブキさんが呆れて肩をすくめたような気がした。誰だって私になんか、私達になんか、なれるはずがないじゃない。

(ごめん、……ごめんなさい、)

 どっちに、誰に、謝っているのかもわからない。
 試合を終えた心操くんにかけられる声や向けられる称賛を聞きながら、その隣で声も出せずに俯いていた。



 自分が試合したわけでもないのに俯いてボロボロ泣き続けた女がどうしたかというと、早々に戻ってきた心操くんをさんざんに困らせ、周囲にからかわれ、タオルを貸されてひとり遠くの女子トイレへと去ることになった。

(……おちついた)

 冷たい水で顔をバシャバシャ洗い、長く深い溜息を吐く。すぐに来たからだろう、それほど目元は腫れていない。このぶんなら三十分もすれば何ともなくなるはずだ。
 はあー、と特大の溜息とともに天井を仰ぐ。

「……」

 それでも油断をすると目の表面を覆う水分が滲み出てくる。
 どうして泣いてるんだ、何をこんなに泣いているんだ。自分が情けない、それはある。心操くんにフブキさんやタツマキさんを重ねていたのが申し訳ない、それもある。――あの世界と、改めて断絶されたと、実感した。それも、ある。

(……いまさらだ……今更ショックを受けるようなことなんかじゃない。重ねてたとしたってそれが全部でもないし、私はちゃんと心操くんとも友達をやれる……はずだ……)

 前世が恋しい。それは仕方がないことだ。
 今世が息苦しい。それも、仕方のないことだ。
 残念ながら今世の私はハンデを抱えていて、前世への愛ゆえにそれを克服しようとしていない。家族ガチャはたぶんハズレで、それを補えるほどの確たるものも私には無い。腹の奥で毒を吐きつつもそれなりに生きようとフラフラしてるだけの女子高生が、明るく楽しく苦しかったけれど充実して、いとしい人もいた職業ヒーローと比べようもない。
 けど、だからって、数少ない優しい人に誠意を欠いていいはずがない。

(ごめんな心操くん……今後あらためて友達やるから許してくれ……)

 これを、直接謝ることもできない私でごめんな。
 期間限定の友人とはいえ――だからこそ、私は君を愛したいと思っているんだ。その気持ちは絶対に嘘じゃないはずなんだ。自分がどこに居るのかわからなくとも、それだけは。
 もう一度顔を洗い、借りっぱなしのタオルで拭く。これ心操くんがくれたけど心操くんのタオルじゃないな、別の友達のやつだな。私が変な泣き方したから、慌てる心操くんにフォローのつもりで貸したんだろう。慣れない洗剤の匂いに、ふっと心が柔らかくなる。
 ここにも、優しい人はいる。この世界にも、信じられる人はいる。その事実を認めるだけでいいんだ。認めたって、いいはずだ。そんなことくらいで、私は――私は 先生を 忘れたり なんか。

「…………」

 本当かな。
 愛情って有限じゃないかな。少なくともキャパシティってもんはあるんじゃないのかな。なにかを大事に思うことが、ほかのなにかを蔑ろにすることに繋がるなんて絶対ないって言えるかな。先生じゃなくても親しくなくても覚えている人達、スイリューさんとかタンクトップ集団とかあのへんを、世界の片鱗を、私は少しずつ手放していってしまうんじゃないかな。そうじゃないってどうして言える。手放してしまったら、忘れてしまったら、あの世界を少しずつ失ってしまったら、私は――先生は――
 ぽた、と髪から落ちた水滴の音がいやに響く。洗面台に俯いていた顔を上げると、鏡の中の女は疑うような顔をしていた。

(……)

 首を振って、今度こそ女子トイレを出る。
 そうして歩き出したはいいものの、行き先に困って人の少ない方へ少ない方へと足を向け――やがて、足を止めてしまった。
 友人達のところに戻る。最終的にはそうなるだろう。けれど今、あんまりまともに顔を見られる気がしない。本当は、誰のことも、そうだ。

(……なに、考えてたんだっけ)

 疲れたのだろうか、そんなことを思う。前世への愛情、今世への愛情、それらを天秤に載せること、ひとつひとつ手に取って見つめて考えること、すべてが、必要なのだろうと解っているのに億劫で仕方がない。そもそも本当に必要なのかというと、多分そうでもない。最善はうっすらとだけど理解している、見えている。そっちへ走っていけばいいのだ、本当は。どうしても、やりたくないだけで。

(本当は――本当は、さあ……)

 立ち尽くしていた足元が、不自然に照らされた。

「……」
「…………」

 ゆらゆらと不安定な光、ほんのりと熱を持つそれに、見たくはなかったのに反射的に振り返ってしまう。
 炎を纏った、筋骨隆々とした成人男性。改めて考えるまでもなく実の父親。彼は首をちらとも下げることなく目だけで私を見下ろし――無様だな、と独り言の音で言った。
 なんのことだろう。騎馬戦での敗退か、今のみっともない顔のことだろうか。無言のままの私に、僅かに不快そうに眉を寄せただけで通り過ぎていく。

(……お父さん)

 心の中だけで呼んでみるけれど、当然ながら振り返りはしないし返事も無い。反応して欲しかったのかというと、それもよくわからない。あまり関わり合いになりたくない相手だ。たぶん軽蔑もしている。しょうもねえ男だと、前世の私が言う。
 未だにこんな気分になる、今世の私もいる。

(何かを期待していたつもりはないけど……ないけれども……)

 私は本当に……ああ、確かに、『無様』だ。なんだわりと的を得たこと言うじゃんヒューウ。そういや焦凍はどうしているんだろう。様子を、……見に行ったら嫌がられるかなあ。そもそも見る必要もないだろうしな。気付かれないようこっそり見るのもバレた時が怖いしな。たとえそうでも、特になにか言われることはないのだろうけれども。
 酒が飲みてえ、と強烈に思った。酔いたい。いろんなことを忘れたい。こんな状態で酒を飲むとろくなことにならないことだけは知っている。そういえば前世でも何度か逃避酒をした。酔って、そのたびジェノスにぶん殴られた。殴り返した。みっともなくバシバシやり合う私達を、先生は呆れつつ『じゃれてんじゃねえ夜は寝ろ』と布団に突っ込んでくれたことがあった。あの頃は、だから、安心して飲めたのかなあ。だってたぶん、今こんな不安定な状態で飲んで酔っても、叱ってくれる人はいないのだ。心配して、迎えに来るくせに怒って説教して、言い返したら殴ってくるような弟弟子は。

「おぉ、いたいた」
「……?」

 暫し聞いていない朗らかさを装った声に視線を向ける。父親越しに人影がひとつ――緑谷くんが、驚いたようにエンデヴァーの名を呼んでいた。
 そっか、次、緑谷くんの試合か。いつのまにか随分状況が進んでいたらしい。反射的に足を進めかけるが、彼の警戒するような表情に疑問を抱く。オールマイトは別格にしてもプロヒーローはみんな好き、みたいなタイプだと思っていたけれど、何かあんな表情をさせるようなことがあっただろうか。態度と性根がよろしくないことはエンデヴァーを知っている者ならみんな承知している気がするけれど。

「君の活躍、見せてもらった。素晴らしい『個性』だね」

 ……無様だな。
 その通りだ。
 まだなにか続く言葉が、どうしてか遠い。あんまりここに居たくない。音をたてないように一歩、二歩、後ずさったところで緑谷くんが身体をねじ込むようにしてエンデヴァーの横をすり抜けてきた。一瞬目が合って驚いたものの、どうしてだろう、焦ったような顔をしている。

「ウチの焦凍には、オールマイトを越える義務がある」

 けれどその声に、足を止めたようだった。
 半分だけ振り返る横顔――その視線に、自分に向けられているわけでもないのに、数日前の焦凍が被る。焦凍。久しぶりに呼んだ名前。足を止めた焦凍はそうやって半分だけ振り返り、何事もなかったかのように前へと向き直した。まるで――私のことが、気のせいだったみたいに。

「君との試合は、テストベッドとしてとても有益なものとなる。くれぐれもみっともない試合はしないでくれたまえ」
(……初対面だぞコラ)

 別のことを考えているしどうでもいいって気持ちもあるのでスルーしようと思ったけど、不愉快が過ぎる。マジ毒親だなあうちのお父さん……。うちのお父さんって私が言っていいのか知らんけど……。でもこれ事実に則った呼称ですし……。
 本当は口に出したかったが控えた。初対面の息子のお友達にする態度と違うぞそれ。お友達じゃないのかもしれないけどさあ。しかし緑谷くんを困らせるなら流石に私も黙っちゃいないぜ、各種メディア目白押しのこの会場で無個性娘への加害事件の犯人にしてくれるわ。

「言いたいのはそれだけだ。直前に失礼した」
(マジで失礼だよ……礼を欠くどころの問題じゃないよ……)

 とりあえず駆け寄って飛び上がりヤクザキックからの隙あらば側頭部攻撃、できればそのまま走って逃げよう。追われなければそれでオッケー、追われたとしたらせめてカメラのあるところで捕まりたいな。両膝の力を抜いて一度軽く屈伸し、ふくらはぎのあたりにぐっと力を込めて抜く。重心を下げ、スタートを切ろうとした直前で、

「僕は……、オールマイトじゃありません」

 まさか、言い返すとは、思わなかった。奇妙な姿勢のまま緑谷くんを見上げる形になったけれど、彼の表情は見えない。

「轟くんもっ、あなたじゃない……!」
「――……」

 引き結んでいた唇が、なにか言おうとして開く。けれど何の音も出てこない。
 ぶんっと音のする勢いで振り返った緑谷くんが、私の存在を忘れていたのか目を丸くして、気まずそうに視線を漂わせた。それから一度――目を合わせてなにか、伝えるみたいに頷いて――通り過ぎていく。

「…………」
「…………」

 足音が、遠くなっていく。そちらにばかり聴覚が向いているはずなのに、自分の鼓動でよく聞こえない。
 神経をそっちに使いすぎているのか、顔を見合わせる形になっているはずの父親が、どんな表情をしているのかさえわからない。

「……、」

 彼とは反対方向に、客席方面に向かって走り出す。みんなのところに戻りづらくても、みっともない顔をしていても、たとえ焦凍に嫌がられたっていい。彼の試合を、見なくちゃならない。

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2019.11.15
2019.11.20(修正)