ただいまあ。そう言う妹の声が聞こえたのは、テレビで丁度『プルスウルトラ』と『おつかれさまでした』の被った声が響いたところだった。
 どうしたの、閉会式は。玄関先まで顔を出した自分に、あんなの残ってるの上位関係者かメディアばっかりだよー、とへらへら笑って――観戦しながら食べすぎちゃったみたいだから、今日は夕飯いらない。お風呂入ってもう寝るね。既に断定の口調で言う妹に、冬美も追及はやめて『そう』と微笑んで終わった。泣いた跡のある顔を、言及はせずに。

 宣言通り妹がお風呂に入って早々に部屋に引っ込んで、暫くしてから父と弟も帰宅してきた。父はなかなかに上機嫌で、弟はなにやら考え込んでいる様子で。何か、誰か、探すように視線を彷徨わせているのを見たが――冬美は何も言わないことを選んだ。食卓に不在のについて、誰も言及することがない。それは珍しいことではないのに、無性に物悲しくて腹立たしい。
 母がいなくなって家政婦が体調を崩して、家事を引き受けることを選んだのは冬美だった。どうにかなるという気持ちがあったし、どうにかしなければならないと思っていた。新たに他人を家の中に入れたくなかったのもある。不器用ながら優しかったはずの父は焦凍以外の家族に無関心になり、弟達は荒れたし悲しんだ。母は入院してしまった。自力でどうにか、ここをどうにか、支えなければ、壊れてしまう。何が、かはよく解らなかったけれど――今になって思うと、ただただ手放したくなかったのかもしれない。あの日に戻れると信じていたのかもしれない。そんな自分を隣に立って支えてくれたのは、まだ十歳にも届かない末の妹だった。

 お姉ちゃん、私もお手伝いする。
 お姉ちゃん家のことばっかじゃなくて友達と遊びに行ったりしてきなよ。私だってごはんぐらい作れるからさあ。
 お姉ちゃん、新人なんだからお仕事に集中してていいんだよ。おつかいぐらい私だってできるよ。お父さんじゃなくて事務所の人なら誰か受け取ってくれるっしょ、楽勝。

 年を追うごとにしっかりしていく妹はいつも明るく前向きで、器用で、支えるというよりも二人三脚で家庭を回してきてくれた。ウチの男共は何もしないからしゃーない。そう言って、笑いながら。
 無個性の落ちこぼれ。たまにそんなふうに悪態をつかれても無反応で、目が合った冬美にだけ肩をすくめて笑って見せた。――父を注意できない姉を、責めることなく。



 体育祭は騎馬戦で脱落したらしい――そのシーンは放映すらされなかった――妹と、二位という結果を残した弟。今まで頑なに使わなかった左側を、炎の個性を使って勝った弟。おそらくは上機嫌で、いつもより口数の多い父。



 優しいばかりの妹に、泣いたこともその訳も話そうとしないで笑顔で隠す妹に、何をしてやれたんだろう。
 やはりいつもより饒舌な父の声が、ちっとも頭に入ってこない。



「……はしゃいでんなぁ」

 お父さんだろう声が、いつになく弾んでいる。
 そりゃそうか、一位じゃないとはいえ二位、『左側』を使用しての二位だ。これまで頑なに使わずにいた父譲りの個性を、十年以上ぶりの使用だ。そりゃ自称制作責任者としては嬉しいか。ごろんと寝返りを打って、闇を見つめる。部屋に戻ってすぐに電気を消して布団に潜り込んだというのに、睡魔は一向にやってこない。
 目を閉じると、砕けた氷がきらきら輝く幻視が見えるようだった。日中見た光景。ぼろぼろで叫ぶ緑谷くん、焦凍。端々にしか聞こえなかった緑谷くんの言うことはまあ正論で、だけど、これまでだったら絶対に――誰が、どんな表現で言おうとも――焦凍が無視し続けてきたことだった。聞いた認識すら無いかもしれないことだった。今回も無視するかキレ散らかすかと思ったが、焦凍は、……わらったのだ。たぶんだけど、遠かったけど、どうしてか解る。双子の絆的なものがあの瞬間だけ仕事したのかもしれない。焦凍は笑ったし、これもさらに多分だけれど、ありがとうとすら言った。
 緑谷くんの声だけが、緑谷くんの拳だけが、これまであらゆるものを切り捨て無視し続けてきた焦凍に正しく届いたのだ。
 他の誰でもできなかったことが。

(……緑谷くんは……すごいなあ……)

 世界を、変えてしまった。焦凍の、たぶん私のも。轟家も少し変わっていくだろう。他の人にもきっとそういう風にしているのだろう。彼の必死さでだけ、彼の真剣さでだけ、変えられるものがある。私がつい緑谷くんに手を貸したくなったり、構いたくなったり、安心して手を伸ばしてしまうみたいに、他の人達もきっとそうなんだろう。少しずつ、確実に、誰かを、なにかを、変えていく。
 …………もしも彼がいれば、先生の孤独も癒せたのだろうかと 考えてしまっていた。
 もしも私じゃなくて緑谷くんだったら、先生はもっと楽しかったのかな。どんどん強くなっていく緑谷くんだったら、先生も真剣に指導に当たれたのかもしれない。その成長を心待ちにしてくれたのかもしれない。いつか拳を交える日があったのかもしれない。どうしようもないほどの高みに、一人ぼっちになんかしないでいられたのかもしれない。緑谷くんだったら。

(……)

 また泣いてしまいそうで、布団の中で膝を抱える。
 学校で散々、あのふたりの試合後に本当に散々泣いた。保健室まで様子を見に行って、麻酔が効いて眠る緑谷くんの隣でまで泣いた。これ以上泣いてどうする、枯れちゃうだろうが。既に頭は相当痛い。手探りでペットボトルの蓋を開け、一気に飲んで、再び布団へ潜る。明日は、母のところに行かなきゃならない日だ。

(……まあでも寝不足でボーっとしてるくらいで丁度いいのかもなあ……)

 起きたら着替えセット作らなきゃ、あと今回はお見舞い何にしよう。果物が一番自信あるけど勿体ないよな毎回、たまには花とかにしてみようかな。でも花は水替えとかあるから看護師さんに悪いんだよな。そうやって明日の予定で頭を一杯にして、意味のない『緑谷くんだったら』を追い出す。そうだ、私にはやることがある、一応ある。無いに近いけどまだある。寝て起きて、明日はお姉ちゃんを安心させたい。それぐらいしかないけど。

(……学校行くまでに、立て直さないと……)

 そうだ。そういえば何も言わずに帰ってきてしまった、みんな心配してるかもしれない。……いやでもバラバラ解散って感じだったし大丈夫か。まあいいか。心操くんも、緑谷くんと試合してなんかちょっとスッキリしてたっぽいな。移籍はすぐには無理かもしれないけど、少なくとも印象づいただろうしいけそう……緑谷くんは、心操くんのこともきっと変えられちゃったんだな……。

(だからやめっつってんだろ!! 寝る!!!)

 危うく声に出しそうになったけど堪えた。間に合った。
 誰かの声が近くに聞こえた気がして、頭まで布団をかぶった。



 そんな寝方をしたものだから、もしかしたらこれは夢か何かなにかもしれない、と未だ受け止められないでいる。
 背中をくっつけた白い戸の内側から声が聞こえる。『焦凍』『どうして』『おかあさん』『ごめんなさい』『焦凍』『ごめんね』――……溜息を吐いて、ドアから背中を放す。顔見知りの看護師さんが挨拶をしてくれたのでそれに愛想よく頭を下げ返しながら、現実だったわ、と病院を出る。

 今日お母さんのところ行ってくるけど、なにか持っていくものある?
 お姉ちゃんにそう声をかけたところ、気まずそうに視線を彷徨わせながらの返答は『焦凍が行った』だった。きょとんとして聞き返した私に、同じ言葉を繰り返す。『焦凍が、持って行ってくれたの』。
 ……詳しく聞くと、どうやら今朝になってお母さんのところに行くと言い出したらしい。用意していた紙袋を持って、ほとんど止める間もなく家を出てしまったそうだ。よかったら、も行ってあげて。は花とか果物選ぶの上手いから。そう言われ、夢か気のせいかと思いながら果物を買って病室の前まで行って――あの声だ。まあ入ったら邪魔者ですよね、私は空気の読める気遣い上手ないい女なのでむやみに首を突っ込みません偉い。私えらい。私が顔を出した途端にお母さんが凍り付いたりしたら目も当てられないしな。問題はこの紙袋をどうするかだけだ。

(……でも)

 本当に――本当に、きっともう、大丈夫なんだろうな。
 溜息とともに空を仰ぐ。抜けるような青空だ。
 焦凍はたぶん、立ち直った。元来が優しい子だ、憎悪も長くは続かないだろう。父親としてはどうかわからないがヒーローを志す者としてエンデヴァーを見れば尊敬できるところもあるはずだ、あの二人はあの二人なりの父子関係を探って築いていけばいい。逃げていたトラウマに立ち向かい、泣いている母に気付いてすれ違いを解消して、お兄ちゃんやお姉ちゃんは元々焦凍に対して怒っていたわけでもない。たぶん、うまいこと回っていくだろう。

(緑谷くんはスゲエなあ――…… あ、緑谷くん)

 そうだ、緑谷くんのお見舞い行こう。
 数日は絶対安静ってリカバリーガールも言ってたし、お家にいるだろう多分。いなかったら果物だけ置いて帰ろう、結果としてお母さんのところに置いとくより有意義。おっとこれは言っちゃいけないことだな。でも確実に腐る場所より他の人のお見舞いに使った方がいいよね。食べ物を無駄にしてはいけませんよね。

(引子さん枇杷好きかなー、ちょっと早いけどいい枇杷だと思うんだよなあコレ)
「あら、……轟さん?」
「あ、引子さん!」

 ナイスタイミング!! 集合住宅の敷地に入ったところで声をかけてくれた引子さんは、『体育祭おつかれさま』と笑いかけてくれた。いえそんな、騎馬戦で脱落なので元気です、と返したところ『でも目立ってたわね』とくすくす笑われる。そうだっけ……? そんな派手な働きをしましたっけ……? ヒーロー科の電撃くらって一発アウトだった覚えがあるけどな……?

「緑谷くんのお見舞いに来たんですけど、もしかしてお留守ですか?」
「ううん、出久は居るわ。安静にって言われてるんだけど暇そうだから、よかったら遊んであげて」
「引子さんはお出かけですか?」
「ちょっと用事があってね」

 そっかあ……ちょっと残念……。いや緑谷くんのお見舞いに来たのであって引子さん目当てに来たわけではないけれども……。
 だけどそこでしばらく立ち話をして、やっぱりどうしても体育祭の話になる。
 緑谷くん、すごかったですよね。うん、負けちゃったけど、でもすごかったのよ。はい、見てました……実はあれ、私の身内なんです、轟って。あら。……謝るのも筋違いかもしれないんですけど、でも、ごめんなさい。ううん、いいのよ、だいじょうぶ。そう微笑んだ顔が、少しだけ、寂しそうだ。

(……昨日、緑谷くんの片腕は、完全には治らないって聞いた)

 身内である引子さんも、多分それを知っている。
 死ぬほどの怪我じゃないし、けれど治るようなもんでもない。傷跡がせめて戒めになるといいんだがね。そう呟いたおばあちゃん先生――回復系の個性持ちヒーローとしては、思うところがあるのだろう。私も軽く頷いて、頭を下げるにとどめた。ヒーローの影にはいつもそういう人達がいる。
 それでも多少、納得というか、どこかあっさりと受け入れられているのは、彼女にとってヒーローはそういうもんだという諦めのような想いがあるのだろう。経験に裏打ちされた理解があるのだろう。『職業ヒーロー』としての、戦闘を生業にする者として。
 だけど、一般人は、どうだ。

「……出久には内緒にしてくれる?」
「……はい」
「あの子がね、誇らしいの。あの子があの子の人生を頑張って生きてくれているのが嬉しい」
「……はい」
「だけど、どうしてかしらね、たまに」

 夢を追ってほしい。目標に向かって頑張ってほしい。きらきらした目でいてほしい。日々を楽しく、充実して、生きてほしい。だけど。

「……たまに、ヒーロなんか目指さなくたっていいのにって、思ってしまうの」

 引子さん。

「…………、」
「あら、あらあら、」
「ふっ…… うっ……」
「ご、ごめんなさいね。そんなつもりじゃないのよ」
「ち、違、わかる、わかります、」
「……」
「わかります……大事だから……」
「……ええ。……ありがとう」

 違う、それも違う。だってわかる、大事な人には怪我なんかしてほしくない、そもそも怪我するような夢を選ばないでくれと思ってしまう。そんなところじゃなくたって君の夢はあるはずだと、君の幸福はあるはずだと、思ってしまう、そう思う自分に罪悪感を抱いてしまう、その気持ちも大いにわかる。だけど今、眼球を熱くさせているのはそんな気持ちじゃない。

「優しい子ね、轟さん。出久のこと、よろしくね」

 緑谷くん。私の友達で、たぶん恩人で、弟を助けてくれた人でもあって。感謝しているのに――好ましく、思っているのに。
 きみのことが羨ましくってしょうがないんだ。


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2019.11.21