泣かない子供だったという自覚がある。
 まあ幼児とはいえ中身は成人女性の記憶持ちだ、泣くことによる記憶の整理や感情から言葉への変換やその他諸々も必要ない。あと片割れがめちゃくちゃ泣くタイプだったのでそっちの世話にかかりきりだった。そこそこに成長してからも、あんまり泣くことはなかった。いや……ぶっちゃけこの世は大体仮初なもんで……。映画とかゲームみたいなものなので……。盛り上がるけどあんまり感情移入する方じゃないのかもしれない……。
 そんな私が、この二日間まるで蛇口が壊れたみたいに泣き続けている。
 こうなってみて初めて知ったことだけれど、泣くって多分あんまりいいことじゃないな。引子さんにさんざん慰められ、力付けられ、引子さんは出かけるところだっていうのに緑谷家の玄関前まで一緒に来てくれた。じゃあ私はちょっと出てくるけど、ゆっくりしていってね。そう言って開いたばかりのドアから出ていく引子さんに、頭を下げて目元を拭う。気を使わせてしまったなあ。もう乾いてはいるけれど、赤くなってないかな、どうだろ。

「お母さん、忘れ物でも―― え」

 ドアが開く音に反応したのだろう、奥から緑谷くんがやってきた。

「こんにちは。お邪魔します」
「え、あ、ちゃん? なんで、」
「お見舞い。外で引子さんに会って、入れてもらったの」
「あ、ありがと……あがって、とりあえずお茶でも」
「緑谷くん絶対安静って言われてたでしょ、そういうのは私がやるよ」

 靴を脱いで上がり、バタバタしはじめた緑谷くんを捕まえる。気を使わなくていいから、座ってて。ハイ。意外とおとなしくソファに座った緑谷くんが、そわそわ落ち着きなくしているのには気付かないことにする。

「枇杷買ってきたんだよ、枇杷平気?」
「好きだよ、僕もお母さんも。ありがとう…… あ、あとアイス! この前の、帰るときにアイス渡すの忘れちゃって」
「え? あ、ああー……」

 そういえばそういう話で連れてきてもらったんだった。
 しかし今になって思うと結構無理があるというか、なかなかな口実である。そのアイス、うちで凍らせてかない? って。

「緑谷くんレモン味好き? 半分こしようよ。また忘れちゃいそうだし」
「え、いいの」
「いいよいいよ。あれなら片手でもいけるし。ところでいつもああいうナンパをしているんですか」
「ナンッ、違うよ! してないよ!」
「ははは嘘うそ」

 かーわいいなあ。冷凍庫からひんやり復活したアイスを出して、双子のプラスチックチューブの片割れを渡す。受け取った緑谷くんはふにゃっとした笑顔で、誰かとアイス半分ことか初めてだ、と小さく言った。

「あ、言われてみれば私もそうだわ」
「え、意外」
「褒められてんのかな?」
「も、もちろん! ちゃん友達多そうだし、その、いつも明るいし」
「ありがとう」

 酸味より甘味ばかりが際立つ黄色いアイス、一回完全に溶けてしまったせいかいまいち滑らかさに欠けるそれを吸いながら頷く。
 緑谷くんの方がよっぽど友達は多そうだけどな――と、思ったけれど、口に出すのは堪えた。彼と同じクラスには、私の双子の弟がいる。焦凍と緑谷くんが友達と言っていいのかどうなのか、私にはわからない。……だけどまあ、昨日の試合を見るに。それなりに話ができる仲ではあるのだろうと思う。

「……」

 昨日の、試合。
 それを思い出した途端に、全ての言葉が霧散してしまう。何を言おうとしてたんだっけ、どうやって会話をしてたんだっけ。他愛ないやりとりって、どうやるんだっけ。ぐに、とプラスチックチューブの腹を押したまま、アイスを咥えたまま硬直してしまった私に反して、緑谷くんはなにか決意したような顔で『……昨日』と言った。昨日。

「……昨日、なに?」
「いや……あの、ヒーロー科の轟くんと、その、なにかあった?」

 半分ほどに減ったアイスを、零れないようテーブルの上へ置かせてもらう。やっぱり男子というか、緑谷君のアイスはすでに終わり近くになっていた。

「……何か聞いた?」
「うん……いや、聞かれたっていうか……」

 それは試合の、後だろうか、前だろうか。どんな話をしたんだろうか。
 従姉妹とかじゃないよ――以前、自分が言ったきりの台詞。嘘じゃないけど、とても本当とは言えない台詞。おそらく焦凍も正確なことは何も言っていないんだろうな、と予測がついてしまう。それは、いいことなのか、悪いことなのか、わからない。
 あの子は多分、私の存在に言及はしてもそのことについて何も話しはしなかったのだ。
 だから私が答えよう。別に嘘を吐くわけじゃない。むしろ本当のことだ、事実でしかない。そう自分を鼓舞しなきゃならないほど、口に出すのを躊躇った。

「……双子なの。焦凍と、私」

 焦凍は隠しているのかもしれない、と思うまでは、軽く口にできていた事実。

「え、あ、そう、だったんだ……」
「内緒ね。……ごめんね、騙したみたいになって」
「いや、別にそれは! 全然! いいんだ、けど……」

 勢いが、目に見えて消沈していく。
 考えてしまっているんだろう。優しくて聡い子だから。どうして隠したのか、どうして内緒だなんて言うのか。同時にその答えも。無個性と複数個性持ちの双子。『ウチの焦凍にはオールマイトを超える義務がある』。頑なに使わなかった炎の個性。緑谷くんと焦凍が何をどんな風に話したのかは知らないが、状況がこれだけ揃っていれば察せるものもあるだろう。

「……昨日、試合見てたよ。かっこよかった」
「え?! う、あ、ありがとう……」
「私が言うのもおかしいんだけど、……ありがとう。心操くんのことも、焦凍のことも。緑谷くんのおかげで進んだこととか、スッキリしたこととか、あると思う」
「……」

 緑谷くんにしかできなかったことだ。
 心操くんに発破をかけるのも、焦凍に言葉を届けたのも。きっとあの状況で、あの場面で、緑谷くんだからこそできたことなんだ。

「ほんと、私が言うのもおかしいんだけどさ。……だけど、ありがとうって言わせてね。……ごめんねって言わせてね」

 焦凍の心を救ってくれた。片腕に、消えない傷を抱えてだ。

「……謝るようなことなんて、」
「緑谷くんがねえ。……緑谷くんがね、それを本気で言ってるの、知ってるよ。でも、私は女で、一般人で、無個性だから。なくしたものとか傷付いたものについて、考えてしまうんだよ」

 必要というよりも、戒めのためなのだろう。ギプスに覆われた腕に触れる。案の定、それを忘れていたみたいにはっとした顔の緑谷くんが見返してきた。ばかやろう。少し、笑う。先生は怪我とかしなかったからさあ、ジェノスもあんまり……アイツ基本的にやられないけどやられる時は思いっきりやられるから全面修理って感じでさあ。周囲が強い人ばっかりだったから怪我に慣れてないんだよ私。自分は怪我してたけど。
 …………ああ、先生が包帯を替えてくれる時に難しい顔でいたのは、こういう気持ちでいてくれたのかな、なんて。いやそれはないか包帯からまってただけだなあの人。
 先生。先生。不意に思い出してしまったあの人の面影が、強く胸を締め付ける。先生。緑谷くん、だったら。寝る前に散々考えて、もう考えないと思っていたはずのことが、容易く溢れる。

 緑谷くんだから心操くんを楽にできた。
 緑谷くんだから焦凍を過去から解放できた。
 緑谷くんだから、こんな怪我を忘れてしまえるような子だからこそ、世界を変えられた。
 緑谷くんだから。
 緑谷くん、だったら。

「……わた、し」

 リビングに飾られた写真が見つめてくる。小さな緑谷くんと引子さん。小学校入学、中学校入学、卒業。そのいずれも、隣に笑顔の引子さんが、お母さんがいる。
 先生。ジェノス。どこかであっけなく死んだ私を、多分ふっつうに戦闘中に、誰を庇うわけでも守るわけでもなくただ死んだ私を、どう思ったんだろう。

「私――きみに、なりたかったなあ……」

 やっぱりどこか壊れたんだろう。本当に昨日も今日も泣いてばかりだ。
 緑谷家のソファーにぽたぽたと発生した円いしみを見つめながら、そう思った。



 緑谷出久にとって、ひとに『羨ましがられた』経験というのは無いに等しい。
 雄英に入学してからは無くもないが、それらは全て『個性』に関するものであり、ついでに大した熱量ではない。超パワーいいなあ派手だし使い勝手よさそう。そうさらっと口に出してしまえる程度の羨望は、その程度なのだと緑谷も知っている。そもそもが、人それぞれ形が違うからこその『個性』だ。約四歳の発現から付き合い続けてきた己の個性を完璧に完全に疎んで持て余しているような人間ならば、そもそも雄英には居ない。
 昨日試合した心操人使にしたって、あの『いいよなあ』は『ヒーローっぽい戦闘向きの個性でいいよなあ』だ。どれにしろ緑谷出久個人へ向けられたものではない。
 雄英に入学する前は勿論、無個性の地味ないじめられっ子だ。諦めが悪く辛抱強い、くらいしか長所と呼べそうなものがなく、幼馴染の横暴さをほぼ一身に引き受けてきたため憐れまれ蔑まれることはあっても羨まれることなど無かった。
 だけど――この女の子は。どこか冷ややかな美貌の、だけど気さくで優しくて明るい、陽だまりのように笑う女の子は、涙を流しながら血を吐くような切実さで言った。きみに、なりたかった。――その音に、信じられない気持ちで目を見開く。
 ぽたぽた、涙の落ちる音がする。

(そんな)

 有名ヒーローの娘。双子の片割れは確実に未来の大物ヒーローで、本人も片割れほど鮮やかな色彩は持っていないものの、誰に評価させても間違いのない美少女だ。

(そんな、ことを)

 無個性。個性婚の結果の無個性。昨日、緑谷に家庭事情をぶちまけていった轟は最後にのことを訪ねてきた。『……轟、知ってるのか。普通科の』ちゃんなら友達だけど、と答えた時の、燃え上がるような圧。地を這うような『知らねえのか。アイツが―― アイツは……』その先は、口に出されることがなかった。舌打ちになって消えてしまった。
 待ち伏せていたエンデヴァーと、その背後で泣いた後の顔をしていた

「――……、」

 そんなことを言わないで、と、思うのに、なにも言えない。
 君は君だ。ちゃんはちゃんであることに意味があるはずだ。だけどもし、無個性の時分にもし、そんなことを誰かに言われていたとして、素直に聞くことができただろうか。一方的に馬鹿にされ虐げられ夢を諦めろとまで言われたし自殺教唆もあった、そんな自分に意味がある なんて 言われていたとしたら。

「…………君の……」

 ただ、今、目の前で泣いている女の子を、どうにか笑わせたい。どうにか元気になってほしい。できるだけ、ほんとうの言葉で。

「君の、やりたいことを、僕が全部やるよ」
「……」
「君の願いを全部かなえる。君の守りたいものを守る、君が助けたい人を全部助ける、……だから、」

 その両腕の重荷を全部引き受けてみせるから。

「だから―― ちゃん、には、君のままでいてほしい……」

 残酷なことを言っているのかもしれない、と、頭の隅で感じた。だけどもう、自分の気持ちをできるだけ正直に言うならば、それくらいしかないと思った。だって彼女が羨んでいるのは基本的には個性ではない。じゃあ何かというと緑谷には判別がつかないのだけれど、それでも、彼女が彼女だったからこそ救われたものがあるのも本当だ。朝の迷子、普通科の友人だという男の子、それから、
 ――すごいね、緑谷くんは。……強くなるよ。きっと、すごく正しい意味で。
 無個性の自分が必死で掻き集めていたものを、認めてくれた。あの数年間が報われたような気がした。これまでの全てが無駄じゃなかったと、これからも信じることができる。あの一言だけで、もう。

「――っふ」

 泣いている女の子を前にするのが多分初めての、いっぱいいっぱいの男のつぎはぎだらけの言葉に。

「ふっ、は、あっはっはっはっはっ」

 気が抜けてしまいそうな状況に、泣きたいくらいほっとしたなんて、多分とても言えない。

「あっは、はは、緑谷くん、緑谷くんさ、そういうの、プロポーズっていうんだよ」
「……?! え、いや、そんな、」
「わかってるわかってる! そういうとこあるよねきみ!」

 けらけら笑いながら涙を拭って――潤んできらきらしている両目に見つめられて、どきっとしてしまう。それを知っているのかそれとも感じてもいないのか、彼女はにっこり笑って『ありがとうね』と言った。

「でも大きいこと言うね緑谷くん、私がスゲー無茶ぶりしたらどうすんの」
「……がんばる」
「あっはっは!! 努力家!! ……でも、じゃあ、早速ひとつお願い聞いてもらおうかなあ」
「ど、どんとこい!」
「おお言うじゃーん。……そっち向いて。背中貸してね」

 ふ、と、空気が少し変わる。穏やかな笑顔をしている、泣いた後ではあるけれどすっきりしている。だけどなんだか、物悲しいような、少し怖いような雰囲気がある。
 言われるままに背中を向け、そこに触れる彼女の額の感触を感じながら、――視線のやり場がなく、天井を見つめた。背後で服を掴んだ細い指が、拳が、僅かに震えているのがわかってしまう。

「ありがとう」

 声が震えている。

「これで、おしまいにするよ。……だから、ちょっとの間、こうしてて」

 ぎゅうっ、と服の握りこまれる感触がする。嗚咽にまじって時折呻き声のようなものがあり、『ごめん』『ごめんなさい』『先生』『好きです』『先生』と、聞こえた気がした――けれど、正確なところはわからない。どちらにせよきっと、これは聞いてはいけないのだ。ギプスを巻いた片腕にもう片手で触れて、目を閉じる。
 笑ってくれたはずなのに、ありがとうと言ってくれたはずなのに。この状況に思い知らされるのは、己の無力さばかりだった。


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2019.11.23