口に出して初めて気付く気持ち、というものがある。残念ながらマジである。ぽろっと口から出るまで自覚が一切なくて、言葉という形になったことで初めて自分でもその正体を発見し『マジかよ』という気持ちになることがある――今である。

 先生。好きです。
 いや、好きだけど、我ながら引くレベルで好きだけど、そういう意味の好きだとは思っていなかった。だって冷静に考えて好みのタイプかっていうと、どうだ、うーん、いや、……ゾンビマンさんの方が好みィ……。イケメン代表のアマイマスクさんとジェノスはそうでもない……。しかも今になってどうしろと。死んで生まれて世界線すら違う場所で自覚したところでどうしろと。どうしようもないけれども。

(自覚した瞬間に失恋とか……笑えないわあ……)

 そもそも本当にこれを恋と呼んでいいのか不明なところでもある。フブキさんと距離が近くとも嫉妬したような覚えはない、けど、恋だと思えば説明がつくような気がしている。
 誰よりあの人の傍に行きたかったことも。
 誰よりあの人の目に映りたかったことも。
 名前を呼んでほしかったのも、いつか頼りにしてほしかったのも、色々教えて欲しかったのも、女なんだからと同じ部屋ではなく隣の部屋に住まわせられて、不満を訴えつつなんだか少し嬉しいような気持ちでいたのも、――全部。
 先生。

(……やっぱり失恋だな、これ)

 私じゃかなえられなかった願い、私じゃ癒せなかった孤独。傍にいるときには気付けなかった想い。どう考えても、どうやっても、実る恋ではなかったのだろう。
 ヒーローになりたかったわけじゃない。
 あの人を、一人にしないでいられる存在になりたかった。
 先生、先生。先生。先生。これ、どうすればいいんですか、先生。いや、どうしたらいいかなんて知ってるんですよ、わかってるんですよ。この想いを捨てないまでも、かなわないと理解し受け入れて消化していかなきゃならないんですよ。

(本当は、どうしたらいいかなんて、みんな知ってるんですよ)

 前世のことなんて忘れればいい。考えないようにすればいい、思い出をなぞらないように注意していけばそのうちきっと薄れていく。ひとは弱いから、慣れる生き物だから、記憶は頼りないから、私はきっと忘れられる。そうして今世を受け入れ大事にすればいいのだ。お父さんともお母さんとも、正しく思考と努力を続けていけば和解できる日も来るだろう。和解できなくたってこちらから歩み寄る姿勢を保っていれば誰かが目にとめてくれることはある、そちら側から崩していくことだってできる。基本的にはあの人たちは誰も悪人ではないのだ、悪気が無かったんだよね知ってるよ。大丈夫、私はあなたたちの娘だからちゃんと理解できてるよ。そう笑って、伝えて、これまで通りに。表面だけの女子高生ごっこを、本当のことにすればいいのだ。それだけだ。それが一番正解で安全な道なんだって知ってるよ。
 でも嫌なんだよ!!!!!
 やりたくないんだよ!!!!!
 先生を忘れたくないんだよ!!! あいつらのしたことを忘れたくないんだよ!!! 私は私の無個性を愛していたいんだよ!!! 愛して、許してほしいだけなんだよ!!!!!

 正解の道と、そちらへ進みたくないことだけをわかっている。
 ――結果、こうしてウロウロしているばっかりだ。

 それでも一通り涙を流し、尽きて、心の一部が溶けて消えたようで、緑谷くんの背中に押し付けていた頭を起こす。
 律儀に前だけ向いている彼の、後頭部がびくっと揺れた。素直な反応に笑うと、振り返った緑谷くんが怒ったような戸惑ったような顔でティッシュ箱を出してくれる。ありがとう、やさしい。優しい子だ。私も、優しくなりたかったなあ。

「はは、……すっごい泣いた」
「もう笑ってる」
「そんな諺あったねえ」
「今泣いた烏がもう笑う」
「それそれ」

 仕方なさそうに、ほっとしたように、笑う男の子を好ましく思う。きっとこの子は焦凍のヒーローで、心操くんのきっかけで、いつか誰かの、たくさんの人の心と命を救うのだろう。
 そのまま少しお喋りをして、少し距離感が近くなったのを感じる。これだけ近くで泣いたり笑ったりしたから、流石に慣れてくれたかな、と思いつつ、私も緑谷くんに慣れてきたところがある。誰に対しても持ってしまいがちな柔らかな壁、気付かれないようにしている膜のような隔たりが、彼には少し薄くなっている――自覚がある。

(多分、これは、あんまりいいことじゃないんだろう)

 だって私達は、あまりにも違う。理想みたいな男の子だから――理想みたいな、ヒーローの卵だから。近しくなった分だけ私は勝手に傷付くだろう。緑谷くんと違う自分に落胆して、彼を羨み続けるんだろう。有り得なかった『もしも』を空想しては泣くんだろう。それはあんまりいいことじゃない。私にも、緑谷くんにも。
 私が後生大事に抱えている恋心は、実体すらあきらかでない亡霊のようなものだ。それに傷付くのは自業自得にしても、誰かを巻き込むようなものじゃない。

「……」
、ちゃん?」
「……緑谷くんに会ってから、いろんなものが自分から剥がれ落ちていくのを感じるよ」
「エッ」
「いや悪い意味じゃないよ~」

 いい意味かどうかはわからないけれど。
 元ヒーローとしての矜持、双子の姉としての想い、隣席の友人としての気持ち、無視されて育った子供としての記憶。ふざけんなって一発殴って説教かましたかった、弟を救いたかった、友人の助けになりたかった、無条件に愛情に満ちた腕に抱きしめられてみたかった。私が私である限りかなえられなかった願いは、緑谷くんが緑谷くんであったからこそ全部かなえてくれた。

「――……」
、ちゃん?」
「……やることなくなっちゃたなあ」
「え、」
「緑谷くんさ、ヒーロー名とかもう考えてあるの? 体育祭終わったらなんかあるじゃん確か、インターンシップだっけ?」
「あ、いや」
「ただいまー。轟さんまだいる? お菓子買ってきたのよー」
「引子さんおかえりなさい!!」
「今日イチの笑顔!!」

 すっかり溶けてしまったアイスを今度こそ諦めて捨て、引子さんを手伝う。なんだか娘ができたみたいで嬉しいわ、と小声でささやかれ、正直なところ泣きそうなくらい嬉しかったけれど、ここには二度と来ちゃいけないなと思った。だってこんな優しい場所、こんな温かくて幸せな場所、出られなくなってしまう。居座りたくなってしまう。カッコウの子供みたいに、居場所を奪おうとしてしまう。そんなのは駄目だ。この人たちに、嫌われたくない。

「そういえば昨日の体育祭ね、録画してあるんだけど――」
「わーわーわーお母さん! いいよそんな、僕もちゃんも会場に居たんだから!」
「だからじゃないの、テレビに映るなんてそうないんだから」
「いいってば恥ずかしい!」
「緑谷くんヒーローになるならメディア慣れしてかないと」
「それとこれとは別だから!」

 わあわあ騒ぐ緑谷くんと、本当に嬉しそうな様子の引子さんの笑顔を目に焼き付ける。
 理想だった。ここに居たかった。彼になりたかった。

(きみに、なりたかったよ、緑谷くん)

 こんないい加減な、へらへら笑って大丈夫なフリばっかり続けて誰にも彼にも優しいつもりで冷たいだけの女じゃなくて――きみに。
 ……口にしてから気付いたこと、が、もうひとつある。
 緑谷くんになりたかった。私は――『私』を、否定していた。元ヒーローの意見をずっと捨てられなかったのも、轟家のあれこれや普通科無個性のあれこれを他人事のように見ていた原因はきっとそれだ。私は、『私』になりたくなかった。無個性の女子高生としての自分を利用しながら無視していた。いつまでもサイタマ先生の弟子でジェノスの姉弟子でミズキちゃんの友達でゾンビマンさんの後輩で、そういう自分を本体だと思っていた。もしかしたら今でも。
 行く場所も帰る場所も無くて当然だ。そりゃそうだ、自分が自分の存在を認めていないんだから。仮初なりのありったけの願いも、余すことなくかなえられた。私の望みはすべて私の外側で完結している。

(……どうしようかなあ、マジで)

 それに気付いたところで前世に戻れるわけでもなし、今世がクリアできるわけでもない。
 前向きで正解な回答はわかっちゃいるが向かいたくない。
 行き場が、ない。

 穏やかに過ごして夕方になって、さすがに夕飯までいただくわけにはいかないので緑谷家を出る。送るよと言ってくれた緑谷くんに、絶対安静なんでしょうと強めのデコピンをかますと案外いい音がした。引子さんが楽しそうで、緑谷くんも不満気な顔はしつつ見送るだけに留めてくれた。その光景に心臓を掴まれたような気分になりながらも、手を振って、できるだけ何気なく別れる。さようならヒーローの卵、さようなら理想のお母さん。轟の見た夢のような家庭。大好きだから二度と会わない。

 まだ明るさの残る夕暮れの中をしばらく歩き――足を止める。

(……これが、途方に暮れるということか……)

 やっべえなあ、どこ行こう。
 いや、普通に考えて轟家に帰って寝て月曜になったら学校に行ってどうこう云々で流れに身を任せればいいだけなのだけれど。そういうことじゃなくて。人生の目的というか、目標というか。元よりそんなもんあったか? って言われたらどうにも断言はできないのだけれど、とにかく途方に暮れている。だってもうやることないし。やれることもないし。やりたい、ことも、まあ別に。やっぱこれ私自身に問題があるな?

 どこに行こう。
 どうやって、生きていこう。

 道端に立ち尽くしていたってどうにもならないことくらいはわかっているはずなのに、仮の行先すら見つけられない。



「……リカバリーガール、こいつ叩き起こしていいっスか」
「できもしないこと言うもんじゃないよ」
「……」

 今日も今日とて眠り込んでいる轟の横で、遠慮のない音量で話すも目を覚ます気配は無い。布団ひっぺがしていいですか、頭叩いていいですか。心操がそうリカバリーガールに許可を求めること数回、そのいずれも応が出ようが否が出ようが恐る恐る布団を叩く形で目覚めさせている。紳士的なのも困りものだね、とリカバリーガールは思ったが、それを本人に伝えてはいない。
 けっきょく今日も遠慮がちに枕を叩かれ、は数回のゆっくりした瞬きののちに『……しんそうくん』と、普段よりも幼い舌で口にした。呼んだわけではなくただ目に映るものを口にする、反射のような行動だとわかっていてもちょっとそわそわする――なんて思っていられたのは最初の数回までだ。

「放課後だぞ」
「うおおマジか……寝すぎた……ていうか心操くん、いいの私に付き合ってて。なんか特訓的なことしてるって言ってなかった?」
「これから行く」
「マジかよごめん」

 体を起こしてひねる、その様子に不健康そうな様子は見られない。喋る内容も寝ぼけている時以外はまあ普通だし、実はどこか身体が悪いなんてことも――多分、ない。
 最近のはずっとそうだ。成績が決して悪くはないのと、これまでの生活態度がいいのでそれほど叱られてはいない。あとリカバリーガールが教師陣に話しているのをこっそり見た。あれだけ眠りを必要としているんだ、少し寝かせてやろうじゃないか。その先に、いくつか言葉を隠しているような気がした。

「……、どうしたんだよ、お前、最近」

 飲み込み続けていた質問が、今日になってようやく口から出てくる。それを後押ししている焦燥のようなものに、自覚はない。

 体育祭を終えてから眠そうな様子の増えたは、ある時ゴトンと頭から倒れる勢いで眠り込んでしまってから保健室に入り浸るようになった。それまでも度々保健室を訪れていたらしく――そんなこと、心操は知らなかった――顔を見知った様子のリカバリーガールは『ああ』と溜息とも返事ともつかない声で頷いただけで受け入れた。最初は一時間だったそれは徐々に増えて、今はほとんど半日保健室にいる。

「……眠いだけだよ」
「そういうことじゃなくて」

 ベッドに座ったまま、まだ眠そうに瞬きを繰り返していたは目だけで心操を見上げ――質問の真意を悟ったのだろう。自分でも少し困ったように首を傾げた。

「なんだろ……燃え尽き症候群、が近いかな」
「……?」
「なんもしてねーのに? って顔しないでもらえますかね! その通りだけど!」

 ……その通りだけど。そう、小さく繰り返した声は、もしかしたら気のせいだったかもしれない。背中から再びベッドに倒れ込んだ音に掻き消える。

「まあでもね、学校に来てまで寝続けるのは流石に私もどうかと思ってるんですよ」
「教室来いよ」
「行ってるじゃん、寝ちゃってるだけで。……どうせ寝ちゃうなら行かないほうがいいでしょ、先生にも皆にも私にも」

 その苦笑に苛立つようになったのはいつ頃からだろうか。

「自分でもよくないってわかってるんだよ。……いっそ休学か退学かするべきかなあ」

 溜息まじりの台詞が、本音だとわかった。わかってしまった。
 バン、と布団とは思えない音が響く。心操がてのひらを突き立てた布団に、が驚いた様子はなかった。ただただ静かな瞳で見返している、その様子にも腹が立つ。

「なんで、そんな、他人事なんだよ」
「……」

 開いた口が、思い直したように閉じる。
 一瞬歯を食いしばったように見えた彼女は、やはり静かな顔で『ごめん』とだけ言った。謝罪ではない音をしていた。この場を切り抜けるためだけの、敢えて言うなら相手の気持ちを宥めようとしているだけの『ごめん』だ。一瞬、爪を立てるように布団を掴んだ――拳を作ろうとした心操が、咄嗟の理性でそれを解く。っの、バカ。声と布団を投げつけるように手放して、保健室を出ていった。
 残された生徒一人と、リカバリーガール。

「……お騒がせしまして、すみません」
「子供がつまらないことを気にするもんじゃないよ」
「はは」

 正しい大人だ、優しくて慈愛に満ちて、きちんと距離を置くことも知っている正しい大人だ。尊敬できて――厭になる。

「心操くんが心配してくれてるの、わかってるんですよ」
「……ああ」
「可哀想ですよね」
「?」
「こんな中身のない、友達甲斐のない奴を、友達カテゴリに入れてくれてる心操くんが――可哀想」
「…………」

 深い溜息とともに、ベッドの軋む音がする。さっさっとシーツと布団を整え、上履きを履き直し、中途半端に開いていたカーテンを全開にした彼女はすっかり普段通りに見えた。

「ベッド占領してすみませんでした。帰ります」

 その横顔に、何かを感じ取れる人間の方がきっと少ない。けれどリカバリーガールは声をかけていた。

「あんた、大丈夫かい」

 通り過ぎようとしていた生徒が振り返る。冷ややかな美貌の引き立つ無表情が、ひとによっては恐ろしく、心操にとっては冷たく無関心に見えたことだろう。その幼子のようなまっさらさが。

「自暴自棄……、以前の問題に見えるよ」
「……はは」

 彼女は、わらった。
 リカバリーガールがおそらく一番見慣れた、そして雄英高校の誰もが一番見慣れた笑顔で、なんでもないような声で言う。

「私にもわかんないんですよ、それ」


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2019.11.26