怒らせてしまったなあ、失敗失敗。怒らせたというより心配させたとか落胆させたとかそっちの方が近いのはわかっているけれども、それにしても、心があんまり動かない。こんな友達甲斐のない奴の心配してるとか心操くんマジ可哀想。ヒーロー志望者ってだいたい損な性質だよね。とか、いう、『他人事』な態度の自分が悪いことは、わかっている。
 わかっちゃいるけど、どうにも眠い。
 眠りすぎたのか、未だ霞みがかる頭をふらふらさせながら歩く。ぼやぼやしているのに芯は冷えている。睡眠は一番手軽で身近な現実逃避だ。体育祭以後――正確には、その翌日の緑谷家お見舞い以後、眠ってばかりいる自覚もあるけれど、本当にどうしていいのかわからないのだ。
 夜は、轟家に帰る。帰る時刻が日に日に遅くなっているのは、双子の弟にもの言いたげな視線を投げかけられるのが億劫でだ。姉には何も話していないものの、なんとなく理解を示してくれているし、甘えて遅く帰ってはこそこそ入浴して部屋に引っ込む、ということを繰り返している。朝は早いうちに起きて分担している家事を済ませ、朝の稽古が終わる前に家を出る。公園をぶらついたり早めに学校に行って人の少ない場所を探したりして、そのうち堪らなく眠くなって、の毎日だ。自堕落ゥ。口に出して言ってみて、深く溜息を吐いた。
 自堕落。
 ……心操くん達とは卒業、もしくは心操くんの移籍を待って縁が途絶えると思っていたわけだけれど、それ以前に見捨てられるというルートも出てきた。むしろ今までその可能性を考えてもいなかったあたり、我ながら前向きな女だ。やっぱり学校辞めようかなあ、無駄だよな正直。とはいえ辞めたところでどうするのか。このご時世、ただでさえ無個性だっていうのに中卒は流石に厳しいだろう。主に就職活動的な意味で。そもそも現状で就職活動ができるかどうかすら危うい。この睡眠病をどうにかしないといけない。
 とはいってもなあ、眠いんだよなあ。
 無限ループする内容を、考えるでもなく思い浮かべながら校門を出る。今日はどこで時間を潰そう。ファストフードもそろそろ飽きた。また公園でだらだらスマホを眺めるか、と思ったところで、すぐそばの壁に寄りかかっている少女を見つけた。

「……あ、」
ちゃん!! お待ちしてましたぁっ」

 ぱあっと輝くような笑顔。明るい声と、見覚えのある犬歯。

「トガ、ちゃん」
「はいトガですっ。お洋服返しに来たんですよぉ、ありがとうございましたっ」
「いや、」
ちゃん制服姿もかぁいいねぇ、時間あったらトガと遊びに行かないですか? お礼しちゃいます」

 見止めた途端に駆け寄ってきて、足をぱたぱたさせながら腕にまとわりついてくる。騒がしい小型犬のような反応に一瞬あっけに取られてしまったものの、つい笑ってしまう。騒がしくて賑やかで強引で、可愛い。じゃあ、お礼してもらっちゃおうかな。そう言ったに、やはり輝くような笑顔の彼女は『はい!』と力いっぱいの返事をした。

「えへへ、制服デートやってみたかったんですよぉ! 制服違うけど、これも仲良しって感じでいーですよねぇ」
「平日の遊園地って初めて来たー」
ちゃんちゃん、お耳つけましょ! トガあのリボンのついてるやつがいーです! そんでタピってぇ、あの翼のとこで写真撮ってぇ、あとあとー衣装着るやつもやりたいです! あと屋台グルメも回るのです!」
「順番ね順番!」

 ぐいぐい引っ張ってくる細い腕が意外と力強い。そうだよなあ、女の子ってそうなんだ。彼女につられて駆け足で笑いながら、あっという間に両手を一杯にしながらまた移動する。首から提げるバスケットタイプのポップコーン、まともじゃない色のドリンク、付け耳のカチューシャにに順番待ちチケット。あそこ見ましょう、あれの写真撮りましょう。あれ乗りたい。あれも食べましょう、半分こしようね。ちゃんこのシュシュあげます、お揃いにしましょ。そうやって渡されたものをお互いの右手と左手につけて手を繋いで、騒がしくて眩しくて忙しく楽しい時間を過ごす。
 示し合わせたわけでもないのに、最後に選んだのは観覧車だった。

「っはぁ~めっちゃ遊んだ!」
「すっごい楽しかったです! ちゃんはどうでしたか?」
「私もすっごい楽しかったよ、なんか久しぶりにこんなに動き回ったし笑ったよー」

 ……本当に。そう、付け加えた声が、少し重くなっただろうか。一周約三十分の大きな観覧車の中で、満足そうに小首を傾げる彼女の金髪が跳ねている。

ちゃんは最近、あんまり笑えてなかったんですか?」

 さらっと。本当にさりげなく、天気の話でもするみたいに言うから。もはや反射と化した『なんでもない』が、出てこなかった。そんなことないよ。なんでもないよ。元気だよ。そう、特に意味のない、相手を柔らかく拒絶するだけの台詞が。

「……、そうかも、しれない」
「ふうーん…… 雄英に通ってるような人でも、そんなことあるんですね」
「そりゃあるでしょ、人間だもん」

 雄英生徒だからって、と言いながら、……まあ確かに雄英に通うような生徒は作り笑いや虚勢や現実逃避に全力疾走で生きるようなのは居ないかもしれない、と思う。私が、異端なだけで。私が、失格なだけで。
 真向かいに座っていた彼女が、荷物を避けて隣に座る。わざわざちょっと空けた距離をぎっちり詰めて、くっついてくる。それをどうしても不快に思えない。試しに腕を伸ばしてみると、彼女は得たとばかりに微笑んで自分の肩へ回した。寄りかかる一人とその肩を抱く一人、まるで仲のいい恋人同士のような距離感で、短いスカートの上に置いた袋をぽふんと撫でた。キャラクターもののビニール袋は彼女が雄英の前で掲げた、あの日のスポーツウェアが入っている袋だ。

ちゃん、上着、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ、わざわざありがとう」
「それで、ですね。ごめんなさいなんですけど、トガ、ポケットの中身を見ちゃったのです」
「……?」
「これです」

 薄手の小さなビニールに、白い錠剤。
 ――リフレイン。
 思い出して絶句する私を意に介した様子もなく、相変わらずの上目遣いでその袋を口元に掲げた。

「飲むんですか?」

 …………とりあえず、中身がヤバイ物だということは確信されていると考えるべきだろう。
 リフレイン。『繰り返し』。幸福な夢を見られる薬。無言のまま手を伸ばすと、彼女はあっさりそれを手放した。風邪薬と言えば信じられてしまいそうな、何の変哲もない白い錠剤。覚えてすらいない幸福をもう一度見られるかもしれない、たとえ夢でも会えるかもしれない、名前を呼んでもらえるのかもしれない、それでも。

「……飲まないよ」

 握り締めた指先で、錠剤が砕けるのを感じた。

「飲まないんですか」
「うん。……どっかで足ついて、これくれたお店に迷惑がかかるのも嫌だしね。これを降りたら、トイレにでも流すよ」
「勿体ないですねぇ。末端価格けっこうしますよソレ」
「なんでそんなこと知ってるかは聞かないでおこうかなー」

 細い肩は抱いたまま、違法薬物をポケットにしまう。観覧車を降りたらトイレに行って薬を流して、ビニール袋は洗ってから捨てよう。腕に力を籠めると、彼女は抵抗する様子もなくその身体をに寄せた。そうしてまるで、ぬくもりを分け合うようにくっつきあう。徐々に上がる観覧車、すっかり日も落ちてむしろ今が盛りとばかりに輝く園内を見下ろしながら、今日二人が会ってから今この瞬間がいちばん静かだ。

「雄英らしくないって思う?」

 きろ、と眼球だけが動いてを捉える。視線を向けられているのが分かったが、見つめ返すような気にはなれなかった。
 雄英学園。現時点、日本の高等学校の最高峰。ヒーロー科に限らずヒーロー候補、サイドキック候補、開発者候補や事務所経営者候補が多く在籍する、高い志と能力を持った人間の集まる場所。その中で一人、今はもう隠しようもなく浮いている。
 相応しくなかったんだ、本当は最初から。ちょっと失恋を自覚したぐらいで足元から崩れ落ちたような気になって、眠り込んでいるばっかりになってしまうような女には。居るべき、場所じゃ、なかった。
 くっついている方の太もも、膝のほうに、そっと手が置かれる。

「誰かにそう言われたんですか?」
「いや、……いや。みんな、優しいから、何も言わないよ。聞こえるところでは」

 皮肉な表現になってしまった、と思ったけれど、隣にいる女の子は慰めるように太ももを撫でてくる。思わず肩を抱く腕に力を入れると、彼女は更に肩を寄せるようにして距離を詰めてきた。間近に迫った顔を、その目を今度こそ見返す。淡い蜂蜜色の瞳。

「さみしいんですね、ちゃん」

 そうなのかもしれない。
 ずっと一人ぼっちのような気でいるのかもしれない。優しい人はいる、ヒーローのような人もいる、愛情に満ちた人も正しさを貫こうとする人もいる。自身の強さを証明しようとする人も、弱さや過去の傷と向き合おうとする人も。助けを求めれば傍にいてくれる人もいるだろうと、わかっているのに。誰にも、そうできないでいるんだ。

「……本当はさっきの薬、飲んだっていいんだ。むしろ飲んだ方がいいのかもしれない」

 多少おかしくなってしまったほうが生きやすいこともあるだろう。リフレインにハマって、それを買うために頑張って働けるなら、目標を作って生きられるのなら、それはそれでアリなのかもしれない。

「ただの意地で、見栄なんだ。もう何のためなのかもわかんないような、意味が無いような、ただ守ってるだけの一線なんだって、自覚はある」

 長い睫毛が顔に触れそうな距離にある。きれいな瞳を覗き込みながら、もう少し鮮やかな金髪を持っていた弟弟子のことを考えている。先生。ジェノス。私がここで一線を護ろうが越えようが何の影響も及ぼせない人達。これは、私のためだけの、見栄だ。本当はわかっている。
 じっ、と見つめてきたトガちゃんは、ちょっと角度を変えて唇のギリギリ隣に唇で触れた。

「、」
「泣かないで、ちゃん」
「……泣いて、ないよ?」
「泣いてるように見えました」

 ちゅっ、ともう一度唇が触れる。心臓がきゅんとなって、その身体を両腕で抱き締めたくなる。その心境を予測でもしていたみたいに、ぴったりくっついていた肩が少し離れた。

「トガは好きですよ、雄英らしくなくっても。トガを助けてくれて、シアワセドラッグよりも大事な意地とか見栄がある、やさしくてかっこよくて寒がりなちゃん」

 ギッ、と観覧車が揺らぐ。隣に座っていた彼女が席を立って、真向かいに移動――ではなく。正面に立って、屈み込んできた。
 包むように抱かれて、その胸に頬が触れる。トガちゃん。俯きがちだった上半身を思わずのけぞると、ごく自然に膝の上に乗っかってくる。猫が甘えるみたいにしなやかに、あたたかく。

「ねぇちゃん。楽しいことも嬉しいことも、世の中にはいっぱいありますよ。お酒よりお薬より健康的で気持ちいいことも、あると思いませんか」
「……トガちゃん」
「もっと、あったかくなること、しますか?」

 いつのまにか彼女の腰に回っていた両腕に力がこもり、『ひゃん』と可愛らしい声が頭上から降ってきた。柔らかくてあたたかい生身の肉の感触、そのさらさらの皮膚、そして何よりその反応。太ももとお尻の境のくびれに、指先を埋めたい。顔のちょうど正面にある胸の谷間に顔を埋めて唇を摺り寄せて、よく似合うニットも制服も剥がしたい。ともすれば衝動に身を任せそうな両腕に、全身に、総動員の理性で皮膚の表面に力を籠めるようにして――覗き込んでくる彼女の顎先に、わざと外すようなキスをした。

「しま、せん」
「…………女の子に恥かかせるのよくないと思いますぅ」
「それは私もそう思いますう!!」

 本当にな!! 据え膳!!! 頂いとけよって私の中の私が言う! まだ早いよってもう一方の私が言う! あれ、それっていずれは頂いてよしってことなのでは? 今は考えないでおこう。

「イケると思ったんですけど」
「そうですね、相当グラつきましたね」
「でもダメじゃないですかぁ。だいじなひとがいるんですか?」
「――そう……だね……」

 二度と会えない人。存在したかどうかすら怪しい人。私の脳内にしか記録のない人。だけど、それが、なんだっていうんだ。この気持ちの前でそんなことが何の障害になるっていうんだ。こんなに狂おしく好きで、恋しくて、誇らしい、私の先生。

「そう、なんだと、思う」

 リフレインを飲まないことにしたのも、結局はその一点だ。
 先生。あなたに恥じるようなことはしない。あなたの弟子として、後ろめたいことは絶対にしない。……今はもうそれだけが、この心を証明するすべてだ。

「…………あの紫頭の人ですか」
「むら、えっ? いや?」

 紫頭? いや先生ハゲだし。ハゲマントってヒーロー名つけられるくらいハゲだし。剃り跡すらないハゲだし。
 誰と間違えてるんだろう、と考える間もなく否定する。多分同じようにきょとんとしていたトガちゃんが、そうなんですか、と意外そうに言って、改めて腕の中へ潜り込んできた。

「トガちゃん?」
「いいえぇ。……いいえ。うぅん、なんていうか、手ごわいヒトなんですねぇちゃん」
「んん? そう? 私なんてちょろい方だと思うけどなあ」

 今だってこうやって擦り寄ってこられるだけでデレデレだ。たぶん言っちゃマズイこともぺろっと吐いちゃう。そうだな何がマズイかな、お母さんの病室番号かな。エンデヴァーの妻がぶっこまれている檻付き病室の番号とその経緯。うむマズイ。あとなんだろう、焦凍の個人情報……は私も知らないな……。

「チョロちゃんなんですか」
「チョロちゃんですとも。ちょっと優しくされただけでグラグラきちゃう」
「え~じゃあトガにももっとグラついてくださいよぉ~」
「既にトガちゃん大好きなんだけどなぁ私」

 ほっぺたをすりすり寄せられたりしたらもうアウトだ、気持ちいいあったかい可愛い。大きな目でじっと見つめられたりしたら何でも吐いちゃう。心操くんやリカバリーガール、緑谷くん、まともで優しいすべての人達に黙り込んでいる本音もポロポロ零れてしまう。

「まぁでも好きな人がいるんですもんねぇ。今は我慢しておいてあげますけどぉ」

 だったらそろそろ退いてほしい、膝の上ですりすりぎゅっぎゅされると辛うじて保った理性が崩れる。牙城みたいな顔して超もろいから私の理性。いかん……マジで……。いくら私生活があれこれで自我が崩壊気味で世間や世界に置いてけぼりになっている感覚があると言ってもこんな極上な女子の肉体を現実逃避の材料にするのはいかん……。という考え方が、やはり既に結構グラついている。

「……これ降りたらさ、この薬捨てに行きたいんだけど、付き合ってくれる?」
「いいですけどぉ」
「今日、いっぱいお礼してもらっちゃったから。次は私が奢るね」

 ぎゅうっと寄せてきていた上半身が離れる、その勢いに観覧車が若干ぐらつく。思わず腰を掴んで抱きとめると、きょとんとしていた顔は徐々に得意げな笑みをたたえていった。

「……んふ、ふふふふ。しょうがないですねぇ、奢られてあげます」
「うん」
「トガもお酒飲んでみたいです、内緒のお店連れてってください」
「化粧と服装しっかりめにしていこうね」
「制服じゃないデートですね!」
「そうだね」

 やはりキスできそうな距離で、唇どうしは触れずに、戯れのような声と笑顔のやりとりをする。いちゃいちゃしているうちに観覧車は終盤に差し掛かっていて、てっぺんからの景色は通り過ぎてから気付いた。けどまあ、見上げる彼女ごしのネオンより綺麗だったはずはないので別にいい。


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2019.11.27