冷静になって考えよう。
 私、レズだったんだろうか。
 レズ……っていうのは差別用語らしいから表現変えよう、ビアンって言ったりするらしいけどまあとりあえず同性愛者? 同性愛者なのか? いや先生は男の人ですけど? 当時も女だったし別に同性愛者ってわけではないと思う、けれど、今のところ好きな男の子っていないしな。好きな女の子ならいるのかっていうと、…………これ恋じゃないだろ。恋っていうか肉欲だろう。トガちゃんが色っぽ可愛いのが悪い。いや悪くはない最高。最高だけどそういう問題じゃない。
 トガちゃんと別れ、浮かれ放題だった付け耳カチューシャやらお揃いのシュシュやらお土産その他を袋の中に押し込んで持ち歩く。お姉ちゃんには連絡したし大丈夫だろう、……お姉ちゃんにも心配させてるよな……わかってる……。ここ数日、本当にとっぷり日が暮れるまで帰っていない。家事分担は朝のうちに大体済ませてしまっているとはいえ、必然的に夕飯準備を任せっきりになってしまっている。良くない。
 眠いのは本当に眠いのだけれど、そろそろ解決策を探さなくてはならない。学校に居るにしろ辞めるにしろ、就職するにしろ家を出るにしろ、現状のままではどうにもならない。せめて、まともに生活を送らなくては。

(……って、考えられるようになったの、トガちゃんのおかげな気がする)

 強制的に切り替わったというか、気分転換になったというか。あと女体に思ったより癒されてしまった、自覚してたより俗物だな私。あったかくて柔らかくて、なんというか、ただ身体がそこに在るってだけのはずなのに愛情すら感じてしまう。それでこんなに気分がすっきりしてしまったのだから、癒されるってすごいことだ。知らなかった。

「……」

 少し目を閉じると、鮮やかなイルミネーションをバックに膝の上に乗っかってきた得意げな笑顔を思い浮かべられる。
 色とりどりの光にふちどられて、淡い金髪が輝いていた。ちゃん。幼くまとわりつく甘い声。泣かないで、ちゃん。躊躇なく寄せられた唇。片手に提げた袋を、気付けば握り締めていた。
 これはきっと恋ではなくて、ただ許してくれて優しくしてくれて、笑顔を向けてくれる彼女への、甘えとか怠惰とかそういうものだとわかっている。そんなつもりのままで寄りかかるのは、自分にはもちろんだし彼女に対して失礼だ。ただ――自分でも、わかってはいる、けれど……


「!」

 誰もいないと思った玄関先に、双子の弟が待ち構えていた。
 しょうと。小さく名前を呼んだのが、音になったかどうかもわからない。底の見えない目で私の姿を捉え、片手に下げた袋に視線を向け、何も言わないまま逸らす。……夜の街に引き返したい気になったけれど、さすがにそうもいかない。

「……ただいま。なに、どうしたの、どこか行くところ?」

 十中八九、自分に用件だろうとは思いつつすっとぼけてそんなことを口にする。返事を待たず焦凍の横をすり抜けて扉を開けたところ、片手を強く掴まれた。

「いっ、」
「……少し、話がしてぇ」
「…………」

 やや睨むような顔は、たぶん緊張しているし怯えている。のだと、思うけど、実際はどうなんだろうな。正直もうよくわかんないんだよな。焦凍についてある程度は予測がついているつもりだったし、接点が無くとも双子の弟。多少なりとも理解しているつもりだった。だけど心操くんに送ってもらったあの日、それから体育祭。お母さんのお見舞い。予想外のことばっかりだ。わからないことばっかりだ。

(…………急に、眠い)

 この眠気、やはり現実逃避が極まったものの可能性が特大。
 無言になってしまった私を引っ張って、焦凍が家の中に入る。腕痛いんですけど、くらい言えばいいのに、口を開くのがどうにも億劫……そうだ、面倒くさい。靴は脱いだものの荷物を部屋に置いてくる余裕もなく居間へと引っ張られていく。焦凍の真向かいに座らされ、やはり(おそらく多分)緊張した面持ちで話されたのは、だいたい予想のついていた内容だった。
 緑谷くんとの試合で、お父さんの存在を一瞬忘れられたこと。炎の個性を、少しずつ自分のものにしていけるような想いでいること。
 お見舞いに行ってきたこと。お母さんが喜んでくれたこと。子供の頃みたいに抱き締めてくれたこと。
 今まで、視野が狭かったんじゃないかと思うようになったこと。
 クラスメイト達とも少しずつ話をするようになってきたこと。

(……よかったね)

 気まずいのか、怯えているのか、私の方を見ることはなく、焦凍らしくもなくややずらした視線でぽつぽつ喋る。それらすべてが前向きで喜ばしい内容ばかりだ。時折つっかえたり勢いが増したりする声を聞きながら、私はひたすらにうんうん頷いていた。そうだね、知ってるよ、見てたよ、頑張ったね、よかったね――と、言ってやれば、いいものを。声帯が仕事をしない。少し、眠かった。
 緑谷くんに救われたんだよね。知ってるよ、私もあの子のことが大好きだよ。憧れて切なくて、彼の笑顔を思うと胸が痛くなる。信頼できる相手だと思う。信じたい、人だと思う。力になりたいと思う。二度と彼のパーソナルエリアに入ってはいけないのだと思う。私自身から、あの母子を守るために、もう傍には行けないのだろうと思う。
 お母さんと向き合えたんだね、よかったね。私もずっとそうなってほしいって思ってたよ。お母さんが見つめずにいられなかったのは過去の罪で、繰り返さずにいられなかったのは彼女自身への罰で、それを終わらせられるのは焦凍だけだったんだと思うよ。お母さんの苦しみも焦凍の苦しみも、ようやく終わりに近づいたんだね、よかったね。次に私が会うとしたら退院後かなあ。そのころには私の顔を見ても普通でいてくれるといいんだけど。
 私はね、まさに今日、入学式から今日までずっと私みたいなのに付き合って優しくして友達やってくれていた男の子に、心底呆れられたところだよ。まるっきり自業自得で仕方ないんだけどね、なんていうか、対照的だねえ私達双子は。別に焦凍がうまくいったから私が下手を打ってるわけじゃないだろうけどさ。そもそも。……そもそも。私のこれまでの人生が、『うまくいってた』なんて思えないし、ね。

 ――よかったね。

 そう、ひとこと言ってあげればいいだけだと知っているのに、唇が重い。舌が重い。焦凍の声が耳をすり抜けていく。少し眠い。
 ねえ焦凍、私の半身。轟の双子の弟。ようやくハッピーエンドに向かって歩き始めた男の子。その行く先が光に満ちていることを知ってるよ、過去の傷を忘れられずとも自分なりの折り合いを見つけられることだろう。お父さんともお母さんとも、お姉ちゃんともお兄ちゃんとも、友達や仲間とだって、うまくやれるよ、焦凍なら。あの学校は誠実で優しくて正しい人ばかりだ、きっと焦凍の欠けた部分を補ってくれるし切磋琢磨の相手にもなる。そうやっていつか満たされたヒーローが、新たに誰かを救っていく。
 そこに私の姿はなくたっていい。

(……もう、つかれた)

 頭の中で言葉になったのはそれだけだった。ただ、感情がその言葉で固まった途端、片手に提げたままの袋をぎゅっと握る。無言のまま唐突に立ち上がった私に、焦凍も言葉を失ったようだった。
 驚いて見上げてくる両目。まあるく開かれたそれだけは、少し懐かしい。

「……よかったね、焦凍。私も嬉しい」

 なにかを諦めた途端に、その言葉がひどく軽く唇から落ちていく。たぶん、今の私は笑ってすらいる。どんな笑顔かは自分でも全然わからないけれど、別にいい。大した問題じゃない。きっと、誰にとっても。

「ずっと頑張ってたんだもんね、ずっと苦しんでたんだもんね。偉いよ、よかった、おめでとう」

 中身のない、寄り添ってる風の言葉だけが零れていく。自分で言ってて白々しいほどなのに、焦凍もわずかに笑ったようだった――だけどやっぱり、もう、よくわからない。あんたの笑顔ってそういうんだっけ。忘れちゃったよ、薄情でごめんね。

「焦凍も、お母さんも、きっともう大丈夫だね。……教えてくれてありがとう、おやすみ」

 なんでかな、見えてるはずの笑顔が真っ黒だ。

 疲れた、疲れた、疲れた。部屋に戻って布団へ倒れ込み、袋のままの荷物を抱きしめる。返してもらった上着からはポップコーンや砂糖菓子の甘い匂いがして、どうしてか少し泣きたくなる。
 お揃いにしましょう。ちゃん。好きですよ。無条件に許し、認め、愛して、優しくしてくれる女の子。こんな気持ちで甘えるのは、こんな状態で衝動に身を任せるのは、私にも彼女にも良くない。でも、だけど、思うくらいはいいだろう。頭の中で、彼女の笑顔を繰り返すくらいはいいだろう。だってあんなふうに、あんなに無条件に抱きしめてくれるような相手、初めてなんだよ。ただひたすらに寄り添って傍で笑って楽しくいられるような、相手は。前世を加味したって本当に初めてなんだよ。いつからこんなに弱くなったんだ私は、こんなことじゃ先生の弟子を名乗れない。先生。ジェノス。あなたたちに恥じない私でいたいのに、私の弱さが私を潰す。
 どんな絶望も一撃で砕く、あなたの拳に恋をしたのに。今、この瞬間、彼女の痕跡を手放せない。


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2019.11.29