あれは、いつか自分に向けられる顔だ。
 考えるより先に諦念のような深い納得があった。

 ――無理に構ってこなくていい。……困る。

 それはたぶん、最後についた『困る』が一番の本音だったことだろう。自覚していたかどうかはわからないが……その顔は、その目は、本音がどこにあるのかを如実に示していた。ここ数日続けていた我慢の反動でもあるのだろうか、困惑からくる恐怖と嫌悪。警戒。濃く煮詰まった他人行儀の果て。対して、赤ん坊のような無垢さを残した気配であった無表情が、怯えのようなものに硬直していく。まるで対照的な双子の姿に、心操は無意識のままその場から去り、二人から距離を取った。毎朝のつもりで始めた走り込みは、家に帰ってシャワーを浴びて着替えてさらに二度目の朝食を食べてもまだ余裕がある時間だ。いつのまにか皮膚の表面に浮いていた冷や汗を、振り切るように自宅まで走る。それでも脳に刻まれたような納得はいつまでたっても消えなかった。
 あれはいつか自分に向けられる言葉だ。
 あれはいつか自分へ向けられる態度だ。
 ――轟という人間は、基本的には当たりが柔らかい。雄英では珍しいほど気さくで、誰にでも優しくて、……それを、よくできた愛想笑いや無関心の一種類だと、今になって思い至る。予兆はあった、薄々だが察してはいた、ただ、そんなにも隔絶的なものだとは思ってはいなかった。こいつ面倒なことあると笑って流そうとするんだよな、程度には理解していた。もしも全部が、これまでのすべてが、この数日なにかに耐えているような様子で弟の呼び出しに付き合っていたのと同じようなものだったとしたら。
 ――心操くんこそ、私なんかに構ってる場合じゃないでしょ。
 あれが、こちらを気遣うような形を取っただけの拒絶だったとしたら。

 自分へ向けられたわけでもないあの目がフラッシュバックする。あの目で、あの顔で言われていたとしたら自分はきっと一歩だって近付けない。困るんだよ、鬱陶しいんだよ、存在だけで気分が悪い。そう、言うのを聞いたことがあるわけでもないのに、悪い方にばかり想像力が働く。それくらい饒舌な目をしていた。
 そのうち街頭インタビューとかでさ、心操くんと同級生だったんですよって自慢しちゃうから。
 いつか笑い話の間、どんな流れで口にしていた台詞かも思い出せない。一瞬心に引っかかったその言葉を、その時は僅かな違和感だけで流してしまった。あれは、いつか心操がヒーローとして活躍できるようになったころ、自分をその場に置いていない言葉だった。連絡すら取らない、ただただ『元同級生』として扱うだけの言葉だった。そんなことにさえ、今更、気付く。

 おかえり、……あんたやっぱ無理してるんじゃないの、顔色ひどいけど。
 そんな母親の言葉に生返事しか返せず、登校しても隣が不在なことにほっとする始末。ホームルーム開始とともに体調不良による休みを知らされ、同級生が『心操どうせラインするんでしょ、私にも連絡するように言っといて』と耳打ちしてきたが、曖昧な返事だけで実際なにかメッセージを送ることはできなかった。トーク画面を開いて眺め、すぐに閉じることばかりを繰り返す。

 ――眠いだけだよ。

 どう考えても様子のおかしい気絶のような入眠を何度か繰り返してなお、そんな言い方をしていた。

 ――いっそ休学か退学かするべきかなあ。

 それなり以上に勉強して、身体を鍛えて、人間関係に気を配って得ているはずの学生生活さえその扱い。
 どうして自分自身のことをそんなに他人事みたいに言うんだよ。もっと自己中心的に、ああしたいとかこうしたいとか、あれが嫌だとかこれが気に入らないとか、言ってみろよ。病気やなにかを疑えよ。せっかく入学できた雄英にしがみつけよ。手放したくないって、言ってくれよ。
 だけどもしかして、それこそ自分の我儘で。彼女は彼女自身に無関心というより――自身を含めた世界のすべてに、無関心なのかもしれない。

(そこには俺も入っている)

 開いては閉じて、消して、を繰り返した画面を、電源を切って真っ暗にする。そうやってポケットにねじ込んだスマートフォンは当然ながら何の通知も示さないのに、手放してしまうことだけはできなかった。



 言うだけ言って逃げ、どうっしても学校に行く気になれなかったので学校でも家でもない方向へ足を進める。学校へはお姉ちゃんのふりをして電話をしておいた、こういうとき複雑なご家庭でよかったなと思う、こんなことするのは初だけど。どうしようっかなあ、適当にぶらぶらして家に誰もいなくなるころに帰ろうかな。今朝お父さんいたからなあ……今日オフだったっけどうだっけ、カレンダー共有しろよマジで。今まで使った試しないけども。
 とりあえず目立って仕方ない雄英の上着を脱ぎ、特徴的なネクタイを外す。これで多少はごまかせる。……いやお姉ちゃんのふりして電話しつつ学校サボるなんて初ですよ初ですってば。

(どうしようかな、サボり学生の珍しくないスポットってどこだろ……ゲーセンは開いてないか。コーヒーでも飲みに行こうかな……)

 あ、漫画喫茶とかいいかもしれない、個室のところがやっぱりいいよね。……もしかして某ラーメン屋も候補に上がる? 個室って言うならカラオケでもいいか? 意外と選択肢豊富だったな?
 ぷらぷらっと定めるでもなく足を進め、ひとの少ない道を選んでいく。そうやってチョコレートのようなドアの前に立った時、『いやおかしいだろ』と自分へ突っ込んだ。
 治安の悪い地域、朝でも薄暗い路地裏、分厚いドア。反射のように、慣れた道を選んでここへ来た自分。
 いや、おかしいだろ。ここへ来るのはこれが二度目――二度目? 三度ではなく? 三度……いや……もっと?

(……もっとなんて、来てるはずがないじゃん)

 いつ、どのタイミングで来るって言うんだ。そう思うものの、『なんとなく』進む道なんて結局その足が行き慣れた方向へ進むようになるのは経験として知っている。ここへの道は正直うろ覚えだったはずだ。第一あのバーテンダーさんの様子から考えるといつも同じところに存在するドアなのかどうかも危うい。金色のドアノブを握り、どっ、と心臓が大きな脈を打つ。この感触を知っている。嘘だろう。

「おや、明るい時間にいらっしゃるのは珍しいですね」

 すぐ傍から聞こえた声に、驚く余裕もなく顔を向ける。
 煙のような個性の――

「黒霧、さん」

 なんで思い出すより先に声が出た。

「開いていますよ、どうぞ。ちょうど死柄木もいますから」
「……しがらき」

 その名前が、どんな字を書くのか知っている。誰を示すのか知っている。

「? さん、一体どうし、……ああ、今は『そちら』なのですね」
「……なに、が、」
「大丈夫ですよ、ほら」

 そうやってごく自然に、本当に慣れた様子で片手を取られた瞬間。ばちっ、と電気が繋がるように、蘇る記憶があった。
 ――傷を負った様子の誰か。男だしあんまり近づきたくなかったけれど、死にそうに見えて声をかけた。病院には行けない、警察にも。じゃあ後ろ暗そうなところがあるんで案内しますよ。そう言ったとたんに現れたチョコレート色の扉。軽い治療。ヒーロー殺し。ステイン。お前には信念がない。わかるう。さん黙りましょう。お前はなんなんだ。ただのJKです。いやあまさか貴方がヒーロー殺しさんだとは。同情しますよ、もうちょっとカッコいい名前が欲しいですよね。ヒーロー殺しってわかりやすくはあるけどストレート過ぎない? なんかこう……もっと物語性のある……リヴァイアサンとかどうですかね、終焉を呼ぶ獣の名前です。水の悪魔だし呼び水的な意味でも。お前ほんとそういうとこしゃらくさいな。死柄木さんはこだわりなさすぎですよねえ黒霧さん。
 とろりとした茶色いお酒をコーディアルグラスで貰って上機嫌に笑っていた自分の姿が直結し、……うそだろ、と声が出る。うっそだろ。

「あ、同化されましたか。時間がかかりましたね」
「……え、いや、え? マジで? 私ですか本当に?」
「ステインとは一応協力というか共闘体制が敷けました」
「うわあ覚えてるう……」

 ――ボロ出しそうなんで、記憶操作か何かしていただけたら有難いんですけど。そういう個性持ちさんいらっしゃいませんか? そのほうが皆さんも安心できるでしょうし。
 百パーセントの善意でそう言ったことも思い出し、うわあと悲鳴ともうめき声ともつかない声が漏れる。たしか通い始めて最初に言ったことだった。そうだ、ここに来るのは初めてじゃない。二度目は確か体育祭後、深夜とも早朝ともつかない時間帯で、その次は翌日、緑谷くんの家から帰る途中だ。その次は。その次は。次々と思い出してうめき声をあげる私に『まあお入りください』とドアを開ける黒霧さん、慣れすぎじゃないですかね。とはいえたぶん危険もないので促されるまま中に入る。あらちゃん、こんな時間に珍しいじゃないの。おはようございますマグねえさん……。マグねえさんも早い時間にいらっしゃるの珍しいですね……。

「え……っていうかなんで同化、というか記憶が繋がったんですかね今……?」
「さあ、条件付けについて私も詳しくは存じませんが。予想するに、受け入れ準備が整ったのではないでしょうか」

 ……それは、この人達の状況というよりも私の精神的なもののような気がした。
 受け入れ準備が、整った。『私』が、『この記憶』に対して――ヴィランの方々と酒を酌み交わす記憶に対して。

「……」

 席に座らせてもらい、隣に置いた鞄を見つめる。脱いだ制服で膨らんだ鞄。雄英を、見たくない気持ち。轟家のこと、焦凍のこと、お姉ちゃんの、お母さんの、お父さんのこと。学生としても浮いてしまっている自分。どこにも、居場所がないという事実。行く場所も帰る場所もない現実。この世界に、ヒーローは居ない。繰り返し言い聞かせ、理解しているつもりで……それでも続いた絶望。

「あら、ちゃんようやく仲間に入るの? よかったわねえ~」
「いや何度も言ってますけど無個性ですよ私……ついでに言うなら個性以前の問題ですよ……」

 こいつはやべえ、近付きすぎた。奥に行っていたらしい死柄木さんがやってきて、なんだ今日は早いな、と独り言のように呟く。そんなに夜中に来てましたっけ? 来てたな。

「やっと準備が終わったのかよ」
「…………準備……」
「死柄木、さんはまだ安定していません」
「んだよ長いな。まあ、まだ先生とも繋がらないし」

 そういって視線を向けた先のディスプレイ――『先生』とつながるはずの画面に、またひとつ蘇る記憶。
 君のポテンシャルには目を見張るものがある、ぜひとも力を貸してほしい。イメージよりもずっと穏やかに平和的に持ち掛けられた話を、『いや無理です』と断った。だって私、無個性ですよ。エンデヴァーの娘って点で使いようはあるかもしれませんが、お父さんはおそらく私を殺すことに何の躊躇も持ちません。母にも、兄弟たちにも、私の存在はなんの障害にもならない。そうつらつらと告げた時の、きみのそういうところを買っているんだ、という返答には首を傾げた。血も出自も使いたくなければ使わなくて構わないよ。ただ君の、君自身の力を貸してくれないか。そう、告げられた時、なんとも表現しようのない感情が広がったことを覚えている。若干ぐらついた覚えもある。承認欲求。社会的承認。私を認めてくれ、愛してくれ、尊敬を地位を名声を、自分自身を許してやれるその理由を、自身を信頼できる根拠を、ここにいても 生きていてもいいのだと 誰か。
 先生。

「…………」

 知らずのうちに、奥歯を噛み締めていた。ヴィランになんてなれない、無理だ。そう言いながらこの店に通うことをやめられなかった。心置きなくいられる時間が、隠れることなくお酒を飲める時間が必要だったことは否定できない。だけど、もっと強く、単純に。

「……死柄木さん」
「?」
「私、あなたのことが……いや黒霧さんの方が好ましいんですけど……マグねえさんのほうが仲いいんですけど……」
「わざわざ喧嘩売りに声かけたのか」
「いえ、あの、私がここにいる理由って最終的には多分あなたへの……親近感みたいなものでして……」
「ハア?」

 同病相憐れむ。同じ穴の狢。いつまで経っても子供の癇癪を抱えたままの成人。絶対的な渇望感。これが癒えることは無いのだと、心のどこかで知っている。傷を舐め合うような、いや舐め合うことすらしていないけれど、そんなに近しくないけれど、視線を外すことはできない。彼が私に対してそれほど酷い態度に出ないのも、たぶん同じ理由だろう。おそらく理由も知らないまま、私達はきっと互いを無視できない。

「……私はヴィランにはなれません。個性が足りない、才能が足りない、……心が足りない。抱く理想が、信念が、私には無い」

 視界の端で、ディスプレイに光が灯った。
 私はヒーローにはなれない。同じ理由で、ヴィランにもなれない。

「……どうして」

 ひびわれた唇が舌に押し開かれる、その様子を、いつも痛そうだと思いながら眺めていた。リップクリームをあげたい、と思っていた。ドラッグストアにいる頃には彼の存在を忘れてしまっていたので、終ぞそれはかなわなかったが。

「……私にも。先生って、呼びたい人がいたんです」

 その理由だけで息をしている。飛びそうな正気をつなぎとめて、その先に何をどうすればいいかもわからないのに。
 だから、ごめんなさい。そう言って席を立とうとした瞬間、平衡感覚を失ってその場に崩れた。



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2019.12.15