「これで貸し借りゼロだかんな身の程知らずのバカ女!!!」

 なんか今すっごい怒鳴られた気がする。声の内容を吟味する間もなく、ただ大きな音にビクッとする感触で目を開ける。上手く開かない瞼と、濁ってぼやける視界。遠くにわあわあ騒ぐ声が聞こえる。緊急搬送――早く救急車を――あっちの男の子は大丈夫そうだ――誰か――オールマイトが――雄英――雄英の制服――どこの女子だ――ヒーロー科ではないはず――誰か早く――言ってる場合じゃねえだろ――それらの声を感じるのも面倒になり、目を閉じる。頭が痛い、内側からとかじゃなくて物理的に痛い。コブできてる系の痛みだ。
 ええっと、何があったんだっけな。ていうか気が遠のいている、手足が先から冷えていく。これあれだな……死ぬな……? 人生二回目だからわかるけど、わりとガチめに死ぬやつだな……?

(……呆気ないな)

 あそうだ、ヴィラン連合にいたんだったわ。いたっていっても説得されて入れよ居ろよって繰り返し言われてた感じだったけど。でもな、なんだろう、記憶が曖昧というかブツ切りだな。なんかそういう個性の人がいたのかな。短い記憶が所々に連続してある感じで――トガちゃんが、いて……気付いたら床に倒れてて……誰かに助け起こされて……怒鳴り声が……あーもう眠い。
 呆気ないな。二度目の死もこんな感じか。一度目は、どうだったっけなあ。確か戦闘中に普通に死んだんだよなあ。ジェノスはどうしたんだろう。先生はどうしたんだろう。あの人達のことだから大丈夫だろうけど、悲しんでもくれたはずなので――そう思うと本当に恵まれてたんだな一度目は。死んで、悲しんで、それでも立ち直って元気に生きてくれたと信じられる人達がいたんだ。恵まれていた。二度目はどうなんだ笑っちゃう。……心操くんとは……喧嘩したままだったなあ……。

(……お姉ちゃん大丈夫かな、大丈夫だよね多分)

 雨降って地固まる的なことがあるはずだ。轟家はたぶん平気。と思ったら心配事ゼロになっちゃったわ。まあこういうのも恵まれてると言っていいのかな。心配がいらないっていうのは。つくづく私の命に価値ねえなあ。死柄木さんだけちょっと心配かもしれない。だけど私が心配するようなこともないんだろうな、彼には慕える指導者と仲間たちがいる。
 ……トガちゃんに、会いたかったかも。あと緑谷くん。引子さん。でもまあ、そんなこと考えるのは贅沢かあ。他人の娘でも心を砕いてくれちゃう人だから、こんなシーンは見られなくてよかったか。……幸せな思い出がひとつある、それで満足するべきか。

(緑谷くん)

 ヒーロー、というものを避け続けていた私に、ちょっとだけ希望を与えてくれた男の子。
 ああいう子がいるなら、世界の先は明るいんじゃないだろうか。だから大丈夫だ、この世界のことは全部、何ひとつとして心配ない。世界には。私以外の、すべてのことには。

「―― ちゃん!!」
「、」

 やたら重くて開かない瞼が、その声に押し開かれる。視界に広がる緑色。ぼたぼたと、落ちてくる雫。

「……ど ぃや、くん」

 舌も上手く動かない。想い瞬きを経て少しだけ磨かれた視界に、覗き込んでくる緑谷くんの姿がある。

「……はは」

 なんだこれ。なんだそれ。なんでこんなことになってるんだっけ、何がどうしてこんなことになったんだろう。何もわからない、けれど、まあ、もういいか。もういいや。充分だ。

「……ちゃん」
「なあに……泣いてんの……」

 手を伸ばす、その手を取ってしがみつかれる。なにこれ本当に死ぬみたいじゃん、まあ死ぬんだけど多分。何も心配いらないって、何ももう必要ないって、思ったんだけどなあ。
 こんなシーンで出てきてくれるって、こんなときに名前を呼んで傍にいてくれるって。すごいな、本当にヒーローみたいだ。ヒーロー、なのか、そういえば。取られた手を握り返す。はっとした顔をした緑谷くんが、ちゃん、とどこか切羽詰まった顔で見返してきた。おっかしいな、こんな顔をさせているのに。ついでに言うなら私は多分ぼろぼろなのに、気分がすごく軽い。ちょっと楽しいくらいだ。
 緑谷くん、緑谷くん、こんな場面で会えるなんて思わなかったよ、こんなときに来てくれるなんて思わなかったよ、ありがとう、嬉しい。自分でも意外なくらい嬉しい、本当はずっと会いたかったのかもしれない。緑谷くんごめんね、私はずっときみのことを羨んでいたんだ。個性とか関係なく、ヒーローとか性別とかも関係なく、うらやましくってしょうがなかったんだ。その心根が、その行動が、あのご家庭が。汚しちゃいけないって思うくらい、近付けなくなるくらい、眩しくて切なくて大好きで。私の持っていないものを全部持ってる緑谷くん、私が本当に心底欲しかったものを全部持ってる緑谷くん。だからこそ、たくさんの人を救うんだろう、きみに。
 なにか言いたいのに、何も言えない。口を開いたものの、緑谷くんが声を聞こうと耳を寄せてくれるものの、喉の奥に詰まった言葉をどうやればほぐせるのかわからない。
 羨ましいよ、あのお母さんに愛されるきみが。きみに愛される、あのお母さんが。いつかその輪に加わるだろう女の子が。愛情いっぱいに抱き上げられる誰かが。
 ねえ、ひとつ、お願いがあるんだけどさ。どうにかそれだけ言えた時、うん、と頷いて覗き込んでくる目に迷いがない。たぶん今、月を取ってきてくれって言ったらかなえようとしてくれちゃうんだろうなと思って、少し笑う。それくらい真剣な顔をしている。
 ありがとう。人生で一番幸せかもしれない。こんなデッドエンドなら悪くない。
 お礼の言葉を、言いきれたかどうかもわからない。倒れ伏すように抱き締めてきた緑谷くんに、笑って、――抱き返そうにも両腕は持ち上がってくれなかった。





「ずいぶん手荒な真似をするじゃあないか、ヒーロー」

 たった今まで全身を拘束されていたはずの人影――死の気配を人の形に固めたような存在が、傍らに倒れたものを仰向けにさせる。頭から血を流す少女の存在は、ヒーロー達の目に映ったかどうかもわからなかったが、辛うじて対峙している一人だけが『その子は』と呟いた。他にも、誰かいるのか。振り返ることもできない恐怖に身を震わせながら、過敏なほどになった耳が会話を聞き取る。狭い壁と壁の隙間、同級生を、友人を、幼馴染を奪還しようと立ち尽くしていた四人の間に、いやにゆったりと『あァ』と返事ともつかない声が響いた。

「無個性の少女だ。今の時代レアだからねえ、多少の実験に付き合ってもらおうかと思ったんだが……可哀想に、降り注ぐ瓦礫に成す術もなかったようだ」
「――」

 無個性の。少女。
 ここしばらく顔を合わせていない、朝のランニングでも見かけることのない女の子を連想し、まさか、と思う。まさかこんな場所にいるはずがない、まさかこんな状況に身を置いているはずがない。会うことが無いのは普通科とヒーロー科だからで、夏休みに入ったからで。合宿と入院とが立て続けにあったからで。そう自分を納得させようと思うものの、隣で自分と同様に壁に背をつけている少年が――連想した少女と、双子のきょうだいだという男の子が――恐怖に混乱を極めて身体の震えを止めたのを見た。
 とどろきくん。声も出せず、彼の横顔を凝視する。

「やれやれ、無関係の一般人が傷だらけだよ。これじゃあ使い物にならない――とはいえ、お仲間を守る手腕はさすがだ。ナンバー四のヒーローだけある」

 じゃあ。じゃあ。僅かに聞こえたあの音は、ちょうど身体の軽い女の子が放り出され倒れたようなあの音は。
 心臓の鼓動が全身に響く。壁一枚隔てた背後で状況だけが刻一刻と変化していく。とどろきさん。ちゃん。嘘だろう。夏休みの少し前から、ぱったり会わなくなった、彼女は、もしかして本当に。
 気配が増える。声が増える。死柄木弔。先生、そいつ。動揺の走る気配。

「瓦礫から私を守ろうとしたらしい。普通は逆だろうにね」
「……」
「その子の時といい、それがこの子の性分なのだろう。……馬鹿な子だ」

 途端に『アホか!!』と怒鳴る声が聞こえる。誰かなんて見なくてもわかる、あの横暴で凶悪で、守る必要なんてひとつもなさそうな幼馴染だ。そうは思ったって、必要ないだろうと頭で理解していたって、伸びる手を引っ込められたことなんて一度だってない。

「俺ァ必要なかったんだよ! そんな女に守られなくたって! ヒトを庇う前にテメェを顧みろやバカ女!!」
「全くだ。……で、弔。お前にはこの子が必要かい」
「…………先生……」

 喚き立てる声を、きっとこの場の誰より理解している自覚がある。そうか、かっちゃん、きみ本当に庇われたのか。ヴィランに捕まって、どういう状況だったか知らないが。ちゃんは、自分より確実に強くて凶悪で庇われたらむしろキレ散らかすような同級生を、悪名高いヒーロー科トップを守ったのか。

「いや、責めているんじゃあない。よいことだ。きっと、この子にも弔が必要なことだろう」

 一拍置いて、血が沸騰した。
 必要? ちゃんが? 死柄木弔を? 必要としている? 視界がぶれる。緑谷くん、と朗らかに笑っていた顔を思い出す。緑谷くん。引子さん。まるで家族の一員のように同じ部屋で過ごした時間。時折見せる、切ないような微笑。優しい指先。誰かを想って、震えていた声。尽きないような涙。

「先生」

 奴を呼ぶ声と、彼女が絞り出すように口にした呼び名が、被さるように響く。
 違う、違う、違う、ふざけるな、何も知らないくせに、彼女の気持ちも知らないくせに、他の誰かを必要だなんて言うな! 思い込むな! あの日の涙も知らないくせに!! 血を吐くような、あの声を、

「……ッッッ」

 振り返る直前、強く壁に押し付けられる。必死の形相でその場に押さえつけてくる飯田くん、その背後では切島くんを掴んで離すまいとする八百万さんの姿が見えた。
 そうだ、冷静に、考えなくちゃならない。ここで出て行ったって勝機は無いに等しい、もっと確実に、戦う資格のない僕らでもできることを、どうにか。


 そうやって戻ってきた幼馴染は、片腕に女の子を一人抱えていた。
 頭から血を流している人にその持ち方は、と思ったけれど他にどうしようもないし、置いてったら連れてかれんだよコイツも!! と聞くより先に怒鳴り声が響く。周囲の人たちに助けを求め、救急車を呼んでもらいながら、切島くんに支えられている顔は見たことがないほど白い。

、ちゃん、……ちゃん!!」

 薄く開かれる瞼。いつも笑顔だったから気付かなかった、顔色が悪く無表情でいると、轟くんと少し似ている。
 ゆるり、視線を巡らせて、――春のように微笑んだ顔に、心臓が引き絞られる。
 なに泣いてるの。信じられないほど優しい声で、慰めるように手を伸ばす。なんでこんな時に、なんでそんな状態で、ひとを気遣ったりするんだ。何があったんだ、本当はどんなことが、どうしてヴィランに捕まったりして。どうして未だに、補修もない夏休みに、制服姿で。疑問が何一つ口から出てこない。みどりやくん。そうやって柔らかく呼んでくれる声が好きだ。

「大丈夫、すぐに助けが来るから! 救急車を呼んだし、ヒーローだってすぐにッ……!」
「ヒーロー、は、居るじゃん、ここに」

 冷えて氷のような指先が、本当に注意を向けていないと気付けないくらいに弱々しく握り返される。

「……、」
「ありが とう、じゅうぶん、しあわせ、うれしい」

 どうしてそんなに、本当に幸せそうに笑うんだ。

「ねえ、……と、つ、おねが、 るん、だけど」
「……うん!!」

 なんだってかなえてみせる、どんな無茶だって通してみせる。あの日笑ってくれた女の子、過去の自分を、無個性の木偶を認めてくれた女の子。今も何もできない自分達を、ヒーローと呼んでくれる女の子。助けるよ、死なせないよ、守るよ、今後なにがあったって誰が襲って来たって。だけど乾いて割れた唇は、やはり少し笑うような息を漏らして――そっと、呟く。

「…… だきしめて」

 不思議に、却って幻聴を疑うくらいにはっきり聞こえた。

「……引子 さんが、ちいさいころ、 緑谷くんに、したみたいに、……今だけ……」
「――」

 そのとき、濁流のように全身を呑み込んだ感情を、どう表現していいのかわからない。
 小さい頃。小さい頃、お母さんがそうしたみたいな抱擁を。震える腕が、ぐっと彼女の背中を支える。頭を支えていた切島くんは少し距離を取り、深く俯いているようだった。
 できるだけ負担がないように、優しく出来ているように、リビングで写真立てをじつと眺めていた彼女を、あのとき本当はそうできていたらよかったのに、今になってこんな場面で掻き抱く。両腕に初めて抱いた女の子は、信じられないくらい細くて軽い。比喩でなく力加減を間違えればすぐに折れてしまいそうで、気を使いたい、痛がらせたくない、腕に入る力を彼女に向けないだけの加減が精いっぱいで、上手くできたかどうか全然わからない。だらんと下がる白い両腕の、指先だけぴくりと動いたのが見えて――すぐに、弛緩したようだった。
 あの日、針かなにか尖ったものを飲んだような顔をしていたきみに、本当は気付いていたはずだったんだ。なにか、言えたはずだったんだ。本当はもっと、ずっと、早く、長く。きみを助けられたはずだったんだ。だけど時間は巻き戻らず、記憶の中の彼女は笑わない。あの視線の中にあったものが切望だと、どうして気付けなかったんだろう。

「…………ちゃん……ちゃんッ……」
「…………」

 切島くんが、傍でじっと立っている。遠くに聞こえるシャッター音から庇うように周囲を窺いながら、彼もまた、悔しいのだろうか、肩に触れた手が強張っていた。
 遠くに救急車の音と、飯田くんの声が聞こえてきていた。



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2019.12.17