会いたい一心でここまで来たけれど、会ったところでどうするんだろう。何をできるんだろう。
 そう思ってみたところで、じゃあ会うの諦めます、なんて結論を出せるわけでもない。ジェノスは奴らしくもなく遠慮して(なのだと思う、たぶん)パトロールと称して出て行った。ここに越してきてすっかり戸締りを忘れがちの先生は、相変わらず寝入りが深くて殺気でも向けない限り目覚めそうにない。

(……不法侵入だよなこれ……)

 つまり。私は先生の部屋に入り込み、先生が寝入っている様子を前にして、どうしていいかわからず正座している。
 なんだこれどういう状況だ。って先生が起きていたら言っただろうし当の私さえそう思っている。どういう状況だ。しかし先生、起きてくれてもいいんですよ。強すぎるからだろうか、けっこう無警戒に眠ってしまう人だ。物音とか気配には敏いはずなんだけどな。うろうろと落ち着かず彷徨う視線が、先生の寝顔でひたと止まる。

(……少し痩せ……いや、変わらないか……)

 部屋が案外きちんと整頓されているのも相変わらずだ、少し埃っぽいかもしれないが誤差の範囲内。んん、やっぱり私の死は先生に大した影響を与えなかったんだろうなと、ほっとしつつ少し寂しくもあるのは――恋した女の身勝手さだ。許してほしい。健やかな寝顔、落ち着いた寝息に、未だ若干信じられない気持ちで見つめ続ける。
 会いたかった。
 一目でいいから会いたかった。

(先生)

 呼びたかった、呼んでほしかった、その目に映りたかった。分不相応に幼い肉体で、恵まれながらも過酷な環境で、生き地獄のような想いの中で、この人の面影だけが轟を――あの命を支えていた。私の魂の、芯となっていた。

「……先生」

 起こしてしまうんじゃないだろうか。そういう怯えがなかったわけじゃない。
 会ったところで何を言えばいいんだ、何をできるっていうんだ、先生にはそもそも何も必要ないんじゃないのか。説明も弁解も告白も、なにひとつとして、私が一方的に差し出したいだけじゃないのか。その都合に先生を付き合わせるのは、我儘ってものじゃないのか。だけど。でも。
 ぴくりと震える瞼、重そうにゆっくり、向けられる首。何度か瞬きを経て私の姿を正確にとらえたはずの瞳は、その表情は、驚いた様子もなく。私もまた、意外なほど平静な気持ちでいた。

「―― 

 ……ああ。
 何度、その声を夢見ただろう。ぐ、と込み上げる熱くて激しいものをどうにか喉の奥に留めて、はい、と応えた声が震えている。。先生は確かめるように繰り返し、やがて眼を閉じ、布団の中へ籠るように首を引っ込めた。寒い時にするような仕草で、、と繰り返された名前がくぐもっている。

「はい、先生」
「夢だろ、どうせまた。しかも縮んでんじゃねーか」
「……」

 どうせ。また。と、言ったか、この人は。
 驚いて何も言い返せない私に、ほら、とでも言うように目だけがこちらを窺う。すっかり暗い室内で、だけど目が慣れているためなのか――お父さんが私に施したなにかの影響なのか。先生がひどいしかめっ面をしているのが、よくわかる。

「……先生」

 どうせ、って言うくらい、期待してくれたと思っていいですか。
 また、って言うくらい、夢に見てくれたと思っていいですか。
 あなたにとって私は透明じゃなかったって、信じても。

「……、泣くなよ、おい」

 布団をはねのけて、体を起こして。夢のくせに――そう言いながら、やや慌てた様子で伸びてくる手が優しい。不器用に頭を撫でられる感触が懐かしく、所在さえ確かでなかった感情が溢れ出す。この手が、好きだった、この拳に恋をした。
 どんな絶望も一撃で砕く拳。制服のように着ているヒーロースーツの、唯一交換頻度の激しかった手袋。拳を振りぬく、その一発で大体のことは終わってしまって、慣れた様子でありながら何度も拳に視線を落としていた。不満そうな、信じられないような、つまらないような、だけど捨てられないでいるような、横顔。常識的で、良識的であろうとする先生の、誰とも向き合っていない瞬間だけの――己の空虚を見つめている時だけの、顔。私もジェノスも、ひと呼吸を置いてしか声をかけられなかった。一瞬でも早くその時間を終わらせてあげたかった。同時に、奪ってはいけないような気もしていた。
 傍に、行きたかった。

「……先生」
「なんだよ、ていうか触れるんだな夢なのに」
「――そうです、夢です、先生」

 戸惑いながら私を見ていた顔に、落胆の色が浮かぶ。
 その表情が、戦闘を終えた瞬間の横顔によく似ていて、形容しがたい感情が胸を占めた。嬉しい、なんて、思っちゃいけない、情けない、恥ずかしい、申し訳ない、みっともない、悔しい、悲しい、熱い苦しい、――安堵してしまっている。
 終わらせたかったはずの先生の孤独が、自分によって少しだけ深く濃くなった。
 その実感に、癒される弟子で、申し訳ありません。

「、おい」
「……はい」
「なんだよ急に、頭上げろよ」

 先生の正面に座したまま、深く頭を下げた私に戸惑う声が降ってくる。
 強引に、弟子入りしたせいだろうか。この人は私達がかしこまった態度を取ることを、たまに苦手としているようだった。――それも、嬉しかったんだ。当時の自分の行動や感情を、今になって理解する。
 下げていた上半身に、ぐ、と力を込めて持ち上げる。顔を見合わせた先生はいくらかホッとした様子で息を吐き、……やっぱ小せえなあ、と確かめるように再び頭を撫でてきた。

「夢です。……夢で、すみません」
「変な奴だな、謝ることじゃねーだろ」
「…… はい」
「で、ほら、言うことあんじゃねーのか」
「え?」
「いつも言ってたろ」

 ……いつも、何か、言ったっけ。
 首を傾げつつ先生を見ると、先生も逆方向に首を傾げる。なんだこのひと可愛いな。じゃなくて言うこと、……言うこと?

「…………」

 会いたかったです。
 先生をずっと支えにしてきました。ずっと目標にしてきました。二度目の命では、それが重荷になっているんだろうとも思いつつ、絶対に手放すことができなかった。あなたやジェノスの存在は私の都合のいい妄想なんじゃないかって、思うこともあったけれど、それでも。どうしても、忘れたくなかった。先生。会いたくて、きっとどうしようもなく会いたくて、私はここに戻ってきたんです。先生。

「…… す き、です」
「…… え?」
「えっ ……あ、いや、違う、違わないんですけど、そうじゃなくて間違えました! いや好きですけど! 好きですけどね?! 好きですけど大好きですけどそんなことを言うつもりじゃなく!」

 なにそれ? と言うみたいな声に、途端に恥ずかしくなって言い訳がましい言葉を並べる。なんか! 間違えた! 告白シーンではなかった! ていうか確実に脈なしじゃんこの反応! 脈があるとは思ってなかったけどさあ! 両腕をぶんぶん振りながら大声で意味のないことばっかり叫んでいると、ぽん、と頭を押さえられて全部がぴたっと止まってしまう。私は目覚まし時計かなにかか。

「……あー……っと……せ、先生のこと、いつも考えてます……」

 これ告白と大して変わらないな……。
 ばたばた暴れていた両手がぎゅっと拳を握る。正しい言葉を、ふさわしい言葉を、できるだけ気持ちの伝わる言葉を。私から伝えられるのは、きっと今日が最後だから。

「あっジェノス、ジェノスもなんですけど、いつも私の支えで、結構つらかった時期もあったんですけど先生やジェノスのおかげで乗り越えられて、」
「そうじゃなくて」

 え。
 照れに熱くなっていた頬が、すっと落ち着いたのが自分でもわかる。下がっていた視線を先生に戻すと、……初めて見る表情をしていた。

「先生?」

 思わず、素の声が出る。
 悲しんでいるのだろうか。怒っているのだろうか。悔しいのだろうか、切ないのだろうか、遣る瀬無さばかりをかき集めたような声で、――ちがうだろ、ひでえな、と呟いた。

「いつも……そんなこと、言わねえじゃん」
「……?」
「いつもみたいに、……俺のせいだって言えよ……」

 ……何を言われているのか、理解するまで、少し時間がかかった。
 いつもみたいに。俺のせいだって。何が? 何が先生のせい? 私が? 先生が見た夢の私が、先生のせいだって言った? ――私の、死が?
 ざわっ、と背中が粟立つのを感じた。咄嗟に叫びそうになって、強く歯を食いしばる。先生のせい? 私が死んだのが? 違う、絶対違う、私の油断だ慢心だ。ふざけるな、と思った。どうっと音がするほどの怒りが胸の内を駆け巡り、死に際の獣のように暴れ、やがて尻尾を落とす。突発的な怒りはすぐになりを潜めて、……引き絞られるような切なさが、腹の底に落ちてきた。
 先生。

「先生」

 俯いてしまった先生の、両頬を手で包む。そうして見た顔は泣いているようでも悲しんでいるようでもなく、ただひどく憔悴しているようだった。疲れたんだろう。ジェノスが、ここのところ帰ってくるのが遅いと言っていた。部屋にいないことが多いと言っていた。人知れず怪人を倒しているのはいつものことだろうなんて呑気に感じていた私に、あいつなりの厭味か、慰めだったのかもしれない。

「先生――これまでの全部も夢です。私も、夢ですけど、……私が夢に出るのは、今日が最後です」

 俺のせいだ。
 夢の私が言ったのだろう。お前のせいだ。先生のせいだ。私が死んだのは、お前のせいだ と。

「私は…… 『私』は。あなたの悪夢を、終わらせに来た。ほんとうのことを伝えに来たんです」

 すみません。ごめんなさい。
 あなたを好きだと思いながら、恋をしていると思いながら、ちっとも信じていなかったのかもしれない。大切に想ってくれているだろうと思った、悲しんでくれるだろうと思った。けれど、自分を責めるほどだなんて、こんなに憔悴するほどだなんて考えてもみなかった。

「…………」

 目に少し、生気を取り戻したような先生が、けれど無言のまま私を押し返す。両手が振り払われる。
 先生。追うような声に、やめろよ、と返ってきた。

「先生」
「やめろよ…… まだ、まだ居ろよ。どうってことねえから。恨み言もパンチもどうってことねえよ」
「……」
「そういうのって成仏するやつじゃねーか……成仏すんなよ、もうちょっと居ろよ、お前まだ、まだ何も」
「……」
「何も、できてないだろ……やるっつってたこと全部……」

 故郷を滅ぼした連中に復讐を。
 先生を傍で支える存在に。
 もっと強くなって、速くなって、先生が本気を出して戦えるくらい、強くなる。

 あなたの孤独を終わらせてみせます、先生。
 いつだったか大声で言い放った台詞。

「…………、」

 謝りたい。謝ってしまいたい。先生の言う通りだ。私は私の目標を、なにひとつ達成できずに死んだ。誰より傍にいたかった人を置き去りにして、ぎゃあぎゃあ言い合いながらも守ってやりたかった弟弟子を見守ることもできずに。
 ……死にたくなかった。死にたく、なかったなあ。悔しい。悲しい。寂しい。情けない。大事な人を悲しませて、好きな人を疲れさせて。誰を守るわけでもなく何かを成すわけでもなく、ただ犬死したに等しいのだ。私は結局。私は結局、『ヒーロー』なんて呼ばれるものにはなれなかった。

(それ、でも)

 ぐ、と膝の上で拳を作り、両肩に力を込める。
 それでも――それだからこそ。今、諦めちゃだめだろう。十兄が取り戻してくれた声、お父さんがくれた命、ゴリ兄が守ってくれた体。今まで得られなかったすべてのものが、今の私には揃っている。

 。ヒーロー、セイレーン。最後の仕事だ。一世一代の大博打だ。命と恋を糧に、贄に、為さなきゃいけないミッションが――助けなきゃいけない、助けたい、ひとが、ここにいる。
 三千世界でいちばん大切な人を、焦がれるほどに愛した人を、救えなくて何が女だ!

「それでも、私の生は終わってしまったんです、先生」

 ひどく静かな声が出た。
 背けられていた顔が、ゆっくりとこっちを向く。それに、できるかぎり穏やかに微笑む。
 未練はないか? あるに決まってる。 悔しくはないか? 悔しいに決まってる。それでも私はもうすべての手段を失ってしまっていて、……別に、それでも構わない。構わないって、思わなきゃいけない。ボーナスステージを、父がくれた時間を、悔やみ嘆くことになんか使えない。
 私は、あなたの悪夢を終わらせに来たんです、先生。

「……死にたくなかったです。もっと生きていたかった、やりたいこと全部やりたかった、……燃えさしじゃない命で、ちゃんと生きて成長する身体で、あなたに好きだって言いたかった。言えばよかった。全部なくしてから気付いたんです、ばかみたいでしょう」

「でも、次はそんなこと絶対しない」

 浮かんだ涙をぐいと拭う。次が、あるかどうかなんて解らないけれど、今はそんなこと言わなくたっていい。

「次?」
「が、あるんですよ、実は。内緒なんですけど、死人の間だけの秘密なんで」

 口角を上げてみせる。いきなり理解できない事柄を投げかけられて変な顔をしている先生の、心細そうにも見える様子に、笑う。

「次に賭けるっていうか、……次しかないんです、私には。でも先生は違うでしょう」
「……俺?」
「私は何もできませんでした、けど。先生は、どうですか。なりたかったものに、なれましたか?」
「…………」

 聞いたことがある。ヒーローになりたかったのだと。なったのだと。
 悪役を一撃でぶっ飛ばすヒーローに、最強のヒーローに。

「…………なったよ。なったはずなんだ」

 長い長い沈黙を挟んで、悲しいほど普段通りの声で言う。
 圧倒的な強さとそれ故の疎外感。他の誰にも辿り着けない高みにいるからこその孤独。

「なった、はずなのに、……毎日つまんなくて……それなのに……弟子一人、満足に守れなかったんだよ……」
「今後の課題ですね!!」
「……お前なあ」
「間違いじゃないでしょう! まあ守る云々はちょっと違うかもしれませんが、そこはジェノスと相談してください」

 やたら強く言い切った私に、やや脱力した様子で呆れた視線が向けられる。
 ああ、なんかこれ懐かしいな。よくそういう顔をされた。調子のいいことばっかり言う私に、そうやって呆れて、たまにちょっと怒って、それから。

「……しょうがねえ奴だなあ、ほんっとに」

 そうやって、笑ってくれる顔がいちばん好きだった。

「……こんなこと言ったら怒るかもなんですけど、私はわりと満足してるんですよ。目標未達は悔しいですけど、幸せな人生だったので」
「幸せ?」
「……ひどいことも多かったですけど、悲しくて悔しいことも多かったですけど、……傍に置いてくれて、ありがとうございました」

 決してスムーズな人生ではなかった。そのくせノリと勢いで達成したような弟子入りだった。

「先生のおかげで出会えた人が沢山いました。成長できたと思いますし、そのおかげで守れた子もいました」

 いつかの自分のような孤児を、拾い上げて然るべき施設に預けることができた。
 瓦礫に挟まれて動けない子供を、母親に渡してやることができた。
 乱暴されそうになっている女の子を躊躇なく助けてあげられた。それをきっかけに仲良くなった子もいた。……ひとつひとつは些細で取るに足りないかもしれない出来事を、それでも自分ができることは、嬉しかった。
 ジェノスと一緒にいられた。
 先生の傍にいられた。
 当時の歌声をゾンビマンさんは覚えてくれていて、『今』に繋げてくれた。

「『……私、ほんとうに幸せに生きたんですよ、先生』」

 喉が、首の肉ととても馴染んでいるのを感じる。声帯の震えが心地よく胸に響く。
 ああ、嘘なんか一つもない。私は幸せだった。全部ひっくるめて幸せだった。今も。

「『だから―― 先生も、自分の夢を取り戻してください。前に進んでください。最強のヒーロー、それから最高のヒーローになるのだと、信じています』」
「………… 
「『いかにもすぎて、あんまり言いたくないんですけどね。……いつでも、傍にいますよ、先生の心の傍にずっと。だから夢はこれでお終いです。悪夢はもう来ませんよ、先生』」
「――……」

 ふ と、その体から力が抜けたのがわかる。
 ほんのすこし笑って、寂しそうでもあって、だけどなにか、すっきりと憑き物が落ちたような脱力がある。おやすみなさい、と囁くと、両肩からがくんと力が抜けて布団へ突っ伏した。


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2019.01.04