いたい、くるしい、おとうさん、たすけて。
 そう言って泣いたことは数えきれず、その毎度をお父さんは助けてくれた。どうしようもない痛みも息苦しさもあったけれど、『最終的には助けてくれる』以上に私を救ってくれていた。ほら、落ち着きなさい、大丈夫、ここにいるから。膝に抱いて揺らして治療して、ずっと手を握ってくれていた。私は一秒たりとも孤独ではなかった。全身全霊で守ってくれる人がいることを、教わるでもなく知っていた。ひょろひょろで細いのにいつだって確かに私を抱き上げてくれた。誰より賢く、理屈っぽいけど毎回真剣で、どんな雑談にひそめた本音も拾い上げてくれたお父さん。自分の行いを誇り、恐れていたお父さん。
 いつも、どんな痛みも取り払ってくれたお父さん。

「――……」

 開いた視界で、見覚えのない人が揺れている。
 わかりますか、さん。これが見えますか。聞こえますか。血流は。正常です。これ何本かわかりますか。ぼやけて遠くから、徐々に耳に入ってくる声。
 白衣――病室。ベッド。咄嗟に伸ばした腕には点滴が繋がっていて、誰かがそれを抑えてくれた。

(いきてる)

 生きている。
 そう考えた瞬間、滲み出るような安堵と歓喜があった。

「……お、とう、さん」

 お父さん。お父さんが助けてくれた、今回もまた、助けてくれたんだ。
 よくわかんないけど生きてる、私はまだ生きてる。重い腕はそれでも伸びてくれた。私は、まだ、身体を、動かせる。
 お父さん、ゴリ兄、十兄。私の『三度目』はまだ終わっていない、まだここにいられる。先生。ジェノス。フブキさんキングさんタツマキさんミズキちゃん、みんなに、まだ会える。会いたくて会えなかった人たちに会いに行ける。起き上がろうとする両肩を、ベッドに押し戻される。大丈夫ですよ、すぐお父さん来ますからね。宥めるような声がようやくはっきり近くで聞こえる。見知らぬ女性が穏やかに微笑みかけてくれている。思わず取られた手を握り返し、滲む視界が瞬きでクリアになる。まるで力の入らない指先が震える。
 誰かが室内に入ってきて、促されて支えられながらそっちを向いて――

「…………」

 それが誰だか、一瞬わからなかった。
 筋骨隆々とした大柄な体躯。纏う炎の熱気が肌に触れ、幻覚でもなんでもないと知らしめる。思い浮かべていた父の姿が――細身の銀縁眼鏡の奥で、笑う瞳が、掻き消えたような気がした。

「轟さん、こちらへどうぞ」

 誰かが言う。轟さん。とどろきさん。それは誰だ。これは誰だ。二度目の。『二度目』の。起き上がった上半身が、誰かに支えられる。視界に、自分の身体で膨らんだ布団が映る。十代後半に相応しく成長した肉体。十二か十三ほどになってもまるで細く虚弱であったあの身体とは比べ物にならない、まともに筋肉をたたえた身体。『二度目』。

「――ん、で」

 喉が掠れて、声を出すのも痛い。

「なんで――なんでだよ……なんで『こっち』なんだよ!!」

 喉に力が入りすぎて吐き気さえした、けれど、吐くものも残っていないのがわかる。
 心臓が強く脈打つ、行動に反応して身体が正常に熱を持つ。いのちをたたえた肉体の反応、死に瀕していない肉体の反応だ、なんで!

「ちょ」
「先生、鎮静剤を」
「待って全部は入れないで半分程度で!」
「なんであんたなんだ!! なんで『私』なんだ!!」

 お父さんお父さんお父さん、ゴリ兄、十兄、最後まで一緒にいてくれた、大丈夫だと、何も心配することなんか無いと、泣き続けて熱い頬を、細く冷たい指が滑っていく感触。夜が明ける気配、鳥の鳴く声。

「なんでここにいるんだ! なんで終わってないんだ! 終わったと――『こっち』は終わったと思ってたのに! なんでまだ、生きて、」

 どうして。
 別れを告げなきゃいけなかった人達、本当はもっとずっと一緒にいたかった人達、会うこともできなかった人達、すべての手を 放さなきゃいけなかった のに。
 つらいことを告白して、精いっぱいに助けようとしてくれたお父さん。
 傍にいると、ずっと守ると、大好きだった毛皮でずっと包んでくれていたゴリ兄。
 私の我儘をずっと聞いて、時には叱ったり甘やかしたりしながら、意思を尊重してくれた十兄。
 縋るような眼をして、でも絶対に口に出さなかったジェノス。
 夢を見るほど惜しんでくれた、最後までちゃんと好きだって言えなかった、夢だって言わなきゃまともに向き合うこともできなかった、先生。

 こんなもののために、あの場所を諦めたわけじゃないのに。

「なんで――私は、『ここ』にいるんだよ! 生きてるんだよ! 死ななきゃならなかったのに! 終わらなきゃならなかったのに! どうしてッ――」

 意味のない絶叫が喉を通っていく、地団駄に全身が暴れる。抜けて飛び散った点滴が倒れ、近付いてくる誰かを蹴飛ばし、もう、痛くもなんともない。床に着いた足は力が入らずへたり込んで、だけど伸びてきた腕を振り払うことはできた。膝をたてて立ち上がり、ろくに言うことをきかない足で前に進む。どうして、どうして。なんで、ここなんだ。なんで『こっち』ではまだ生きてんだ。終わったはずだろう! 終わったと思ったから、私は!
 だん! と耳元で音がした。反射的に向けた視界に、てのひらが広げられている。ガラスを叩いた手。誰かが、大きな口で叫んでいる。

「轟!」

 むらさきいろ。
 何度も何度も呼ばれた名前。

「―― しんそう くん」

 全身を強張らせていた力が、ふっと抜けるのがわかった。
 膝が折れて、その場にしゃがみ込む。轟、轟さん、さん、、誰かの声がする。轟。轟、。私の、『私』の、名前。
 ぼろぼろ崩れては落ちる視界で、心操くんがガラスをたたきながらなにか叫んでいる。けど、その言葉の、どれもが頭に入ってこない。轟、終わったと思ってた『二度目』、――個性社会、無個性、エンデヴァーの娘――あのひとの、いない世界。

「…………どうして……」

 誰かに両肩を支えられる。誰かに腕を取られ、なにか刺される。成す術もなく俯きながら、口から出たのはやっぱりそんな言葉だけだった。



 竜巻のようだった。嵐のような絶叫は空気を震わせ、壁や窓まで揺れたような気さえした。全身をびりびりと震わせる、深く明確な絶望に染まっていた両目が、ふとこっちを見たことで正気の色を取り戻し――その場に崩れ、取り押さえられる。
 すぐさま打たれた点滴の鎮静剤の効果か気絶するように寝入ってしまった女を前に、ガラスに手を触れたまま立ち尽くしていた。厳しく緊張した顔つきの看護婦達、医師、リカバリーガール――医療従事者だけは辛うじて頷き合い、以前よりも細くなってしまった気のする彼女をベッドへと戻す。その際、ベッド下の骨組みから伸びた黒いベルトが彼女の四肢を拘束した。

「ッおい、」
「……この子のためなんだよ」

 反射的に出したような轟弟の声は、壁を越えてまで聞こえたかどうかはわからないのに。深く俯いたリカバリーガールが、そんなことを言う。
 ベルトを四か所確認した看護婦の一人が、その場で声もなく泣き出した。

「……轟さん。の、お父さん。あとで、三号棟の診察室にお越しください」

 口を開いた医師がだらりと下がった片腕をもう片腕で、寒さを癒すみたいに撫でる、その手が隠しようもなく震えている。きっと自分も似たような顔色をしていることだろう。隣の奴も、その隣も。
 まともじゃない、と、その場にいる全員が理解していた。
 意味も解らないまま伝染する絶望。あの場で口を閉じていなかったら、絶叫を止めていなかったら、……彼女が意識を失うその瞬間まで、全身を呑み込むようだった感情の濁流。つらい、苦しい、悲しい、痛い。助けを求める腕を折られたような感覚。これはただ驚いただけじゃない。これはただ、同級生や姉や妹を、心配しただけじゃない。単純に同情とか共感をしたわけじゃない、もっと激しく強制的な、否応なしに巻き込まれるような……そういう能力のような。

「娘さんは……『個性』を発現した、可能性が、あります」

 もしくは、植え付けられた可能性が。とは、口にされていないのに、付け加えられたのがわかった。
 俯いて泣いていた――彼女の狂気に間近で触れた看護婦が、とうとうその場に崩れてしまう。それをもう一人が支え、背中を撫でながら、彼女自身もその目に涙をたたえている。理由も根拠もなく怒鳴って殴って当たり散らして、自分自身も壊れてしまいたい、そんな衝動が彼女たちを襲っている。
 ガラスに触れたままの手が、いつのまにか拳を握りしめていた。

(轟)

「――ほら、あんたたちは一旦解散だ。この子の病室を移すよ。エンデヴァー、あんたは控室へ。……あんたは、すまないね、判断を待っておくれ」

 最後の言葉は心操へ向かってのものだった。なにを答えていいのかもわからず、軽く頭を下げて了承の意だけ伝える。
 家族ではない。ヒーローでもない。ただの友達だ、他人だ――その立場の限界がここまでなのだと、わかっていた。

 押し出されるようにして病室を出る、その場のベンチに座った姉弟を置いてその場を離れる。轟弟がなにか言いたそうに視線を向けているのがわかったが、お互い挨拶も何もできるような状態ではない。

(轟)

 ――死ななきゃならなかったのに!
 ――終わらなきゃならなかったのに!
 ――なんで、なんでなんで! お父さん! お兄ちゃん! 先生! なんでいないの! なんで私は生きてるの!!

 絶叫の余韻が、渦を巻くような絶望が、まだ体内に響いている。
 後遺症が出るかもしれない、少しでも体調が悪くなったら言ってください。短く言って彼女を搬送していった医師たちの声を思い出す。後遺症。これがか? 立ち止まり、震える腕をぎゅっと抑える。恐ろしかった、本当に、まるで呑まれたような思いがした。わけもわからないまま暗いところに放り出されたような、自分の感情のはずなのになすすべもないほどの激情。――これが、轟の感情だとしたら。

(……あいつ、こんなもん抑え込んでたのか?)

 個性だとして――自分の感情に他人を巻き込む個性だとして。誰かを感応させる個性だとして。あの様子からして、一番それに呑まれて振り回されているのは轟自身だ。今まで抑え込んできたなにかが、個性によって表に出たのだとしたら。ずっと、これを抑え込んで、笑っていたのだとしたら。

「心操」

 声をかけられ、そう驚きもせずに振り返る。
 低く落ち着いた声の男が、先程さらに奥の病室へ搬送されていった同級生の弟が、そこに立っていた。

「少し、時間あるか」
「…………」

 返事の代わりに、軽く頷いて歩き出す。
 それ以上の言葉を交わさないまま二人並んで中庭のベンチへ座り、どちらともなく深い溜息を吐き出した。示し合わせたわけでもないのに互いにまっすぐ前を向いたまま、どちらも話始めようとしない。

「……」
「…………」

 解散だと言われた。帰れと言われた。けれど帰れるような気分ではなく、かといって病室に居座ることもできない。廊下で待つのは気が狂いそうだ。ふたりでいる意味なんてないけれど、とても一人でなんていられない。きっと同じような状態なのだろう。
 しばらく無言のまま時間が過ぎ、幾度目かの風が通り過ぎて行った際にようやく口を開いた。

「……なんか。なんか、知らねえか、アイツのこと」
「……なんかってなんだよ」
「いつから居なかったのかとか――多分、途中で家に帰ろうとしたところを捕まったかなんか……誘拐とかって、いつ知った」
「……?」

 なにいってんだこいつ。というのは言葉に出さずとも伝わったのだろう、互いに怪訝な顔を見合わせる。
 心操としても相手の話を促してやれるほど器用でも優しくもない、相手が口下手ならなおさらだ。

「……俺は、リカバリーガールが説明してくれた以上のこと知らねえよ。ヴィランに連れてかれた、爆豪と一緒に救出された、くらいで。ニュースでも轟のことは言ってなかったろ」
「ニュース? ……から聞いたんじゃなかったのか」
「なんで轟が俺に言うんだよ」
「……付き合ってんだろ、と」
「は?」
「……なあ、なんか聞いてねえのか。アイツ夜中に家を抜け出すこと多かったけど、お前と会ってたんじゃ」
「待て待て待て待てなんでそうなった、付き合ってねえ、夜中に家出るってなんだそれ誰か止めねえのかよ」
「……じゃあ、お前んとこ泊まりに行ってたんじゃなかったのか……」
「そうだとして止めろよ高校一年が! 普通に! 同級生の男んとこ泊まるわけねえだろ!!」

 思わず声を荒げたがその内容にはっとして唇を引き結ぶ。周囲を窺うと、若干視線を集めたもののそれはすぐに散っていった。

「……あいつ、そんな、なんつーか非常識な奴じゃないだろ……泊まりにって、連絡とかあったわけじゃねえんだろ?」
「……」
「おい?」
「…… 玄関先に、鞄が放り出してあって。スマホも入ってて、財布だけなくて、『出かけてきます』ってメモが入ってて。それが――アイツのこと、怒らせた日で」
「…………」

 それは、多分、あの日だ。
 夏休み開始の少し前。やたら早い時間に通学路にいた、心底うんざりした様子で双子の弟を睨んでいた日。あの日から学校に来なくなって、多少気にかかってはいたものの個人的に気まずかったのもあり若干安心さえしていた。どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

「……その日から、帰ってなかったのか」

 返事はなかった。けれど唇を噛んで俯くその顔が、言葉よりずっと饒舌に示していた。
 その横顔に、彼の姉を連想する。彼の父親を連想する。あんなに心配そうに視線を彷徨わせていたのに、見舞い期間中はただの一度も顔を合せなかった姉であろう女性。厳しい顔つきでまっすぐに病室の中だけを見ていた、轟が目覚めても一言も発しなかった父親。
 同い年の彼氏の家に泊まっている、と思い込んでいるのは置いておくとして、夏休みが始まっても心操の家には連絡のひとつも無かった。
 この状況に、奇妙な、歪みのようなものを感じる。

「…………なあ、お前、っていうかお前ら、なんなの」

 責めるつもりで言ったわけじゃない。その言葉はただ、心情が零れ落ちたに等しい。

「おかしくねえ? 轟がそんな奴じゃないって、無断で何日も人んち行ったりするわけねえって―― 思ったり、しなかったわけ? 弟なんだろ? 双子なんだろ? なあ、お前んちのさ、お姉さんとかさ、父親エンデヴァーだろ? ヒーローなんだろ? 体育祭の感じ見るにけっこう子煩悩じゃん、なんで――」

 なんで、あいつ。
 生きてることに、あそこまで絶望してたわけ?

「…………」

 生々しく流れ込んできた感情を思い返し、口をつぐむ。
 死ななきゃならなかった。終わらなきゃならなかった。なんで私なんだ。終わったと思ってたのに。
 何日も前からヴィランに捕らわれて、もしかしたら個性を植え付けられたかもしれない『無個性』。無個性が私の個性的なところだからね。個性ガチャはハズレだけどレアっちゃレアじゃん。不謹慎なジョークばっかり言って笑っていた女。好きなヒーロー? やっぱエンデヴァーかなあ。あまりにも慣れた口調で嘘を吐く。

「……なあ」

 お父さん。そう呼んでいたという話を聞いて、それでもきっと父親を、家族を求めているのだろうと思った。基本的に姉の話しかしないけれど、体育祭を終えてから急にべったりするようになった弟にイラついている様子はあったけれど、それでも長いこと完全には拒絶できずにいたから。あんなによく笑って周囲を笑わせて、明るくて賑やかなのが好きで屈託がなくて、あんな人間は、心底大事にされてないと育たないだろうと思った、けど。
 ぜんぶ間違いだったのかもしれないと、こんなタイミングになってから思う。
 あまりにも安らかに眠る顔。
 自分自身に対してあまり興味がないような、世界のすべてが本当はどうでもいいような、ひどく冷めた一部分。
 自身の環境にすら執着を抱かない。なにもかもを、諦めたようなことを言う。

「あいつが……轟が、ああなのって、もしかしてお前らのせいなの?」

 言葉の意味がわからないような顔を向けられて、やはり返事よりも明確に状況を察知する。轟が『ああ』なの、の、その『ああいう状態』さえ知らないのだ、この双子の弟は。
 心操が言い知れぬ絶望に絶句しているその頃、はるか離れた病室で彼女に特殊なマスクが着けられていた。



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2019.01.13