要らないです、とその口は言った。強がりでも見栄でもなく、ある種の拒絶でもなく、ただ少し悲しげではあった。要らないです。虚しいだけだ、そんなもの。先生は少し首を傾げ、まるでかつて持っていた者のようなことを言うね、と囁いた。昔、そういうふうに言ったのがいたよ、とも。

「それを得たところで、私の欲しいものは永遠に手に入らない。私はこの渇きと付き合っていくしかない」
「不便ではないのかい、無個性は」
「不便ですとも。有個性と同じくらいにね」

 焦点が合っていない。身体の軸さえグラついている。慣れない種類の衝撃を受け続けたためだろう、自我まで揺らいでいるはずの女は、それでもその口が紡ぐ言葉だけ異様に鋭い。
 ――ふ、と、両瞼が重そうに降ろされる。けれど眠るのを必死に堪えているような様子で、何度もこじ開けられて、最終的には少し低い場所を見つめるように伏せられていた。

「欲しいものとは?」

 ぐらぐらと、正気を保っているかも定かでない様子の女に、それでも聞こえているものと確信している口調で声がかけられる。ほしい、もの。オウム返しに繰り返した声が、はっきりと発音されなくなってきている。

「力になれることがあるかもしれない。君の『欲しいもの』を教えてくれないか」
「――……」

 父にも母にも似なかったという暗い色の瞳が、揺れながら上を目指し、すぐに中断した。その唇がなにか動いたのを見たが、音にはならなかったようだ。おい、とその肩を掴もうとしたところ、黒霧が支える方が早かった。気絶したようです。淡々と言いながら、うずくまっていた身体を仰向けに転がす。

「だいぶ色々試させてもらったからね、疲れたのだろう。暫くそちらで休ませてあげなさい」
「……例のヒーロー殺しの一件から、部外者が増えておりますが」
「いいことだろう、顔を売っておくのは」

 つまり、こちら側に引きずり込む意思には変わりがないということだ。

「……なァ先生、なんでそんなにこいつに拘るんだよ」
「死柄木」
「エンデヴァーの子供ったって無個性の女だろ。使いどころなんてそんなに無ぇだろ」
「……そうだな……それを、自覚しているからだ」
「……?」
「断る際に言っただろう、彼女は」

 ――個性がない。才能がない。心が、理想が、信念が無い。
 ――私はヒーローになれない。同じ理由で、ヴィランにもなれません。
 自分には無いものばかりだと主張しているくせに、その表情が、両眼がやたらと強かった。

「最近、複数人に言われているのと同じ言葉なんじゃないかい?」

 ――お前には信念が無い。

 反射的に手近なものを壊そうとした、その腕が、触れる前に黒霧によって掴まれた。吠える声の中で、いやにはっきりと『回復系の個性持ちは居ません』と返ってくる。回復なんて、と思って視線を下ろし、――掴もうとしていたのが、転がされた女だったことに気付く。

「別に、壊したっていいだろうが……! 持ってきたもんをわざわざ返す方が面倒だろ! 殺したところで気付かれないッ」
「……そうですね」

 意外なほどあっさりと、腕が放される。黒霧はわずかに俯いた様子で、そうなんでしょうね、と繰り返しただけだった。

「未だ彼女の捜索願は出されていません。秘密裏にさえも。……死んだところで、本当に気付かれないのでしょうね」
「…………」

 別に。別に、そんなもの、珍しい話じゃない。『こっち側』では特にそうだ、この女はむしろ運のいい方だ。胸の内で渦を巻いたそんな顰蹙は、けれど、横たわった女を見ればじわじわと崩れていった。
 轟は、死柄木弔が見てきたようなものなど何も知らない。同じように、死柄木弔も轟の生きてきた場所のことなど何も知らないのだ。その一方で、どうしてか――同じものを抱いている、ような気がしている。きっと、お互いに。

 ――私がここにいる理由って、最終的には多分あなたへの、親近感みたいなものでして。
 薄く目を伏せていた顔。つらいものから目を逸らすように、俯きがちの顔が、決意を込めて前を見据えたこと。

 ――私にも、先生って呼びたい人がいたんです。
 泣きそうに、目元にぎゅっと力を込めた、笑顔。

 虚しいだけだ、そんなもの。吐き捨てるようだった声は、どんな想いから発せられたものだったのか。

「……これでいいんだろ、先生も」

 軽い舌打ちと、横たわった女を足蹴にする。それだって普段の死柄木から見ればとんでもない優しさだ。
 敢えて一言も発しなかった『先生』は、その顔のない顔で精一杯の笑みをかたどったようだった。

「君が自分から何かを欲しがったのは、個性を与えてやってほしいと言い出したのは、彼女が初めてだ、弔」
「……別に、気が向いただけで」
「その直感を大事にしなさい。君が必要とする限り、君のために彼女を仕立て上げよう。私も、黒霧も」

 自分のために、仕立て上げられる、女。
 その言葉は死柄木の心のどこか一部分を、そうとは気付かれない強さで掴んだ。死柄木さん。屈託なく呼ばれる名前、向けられる笑顔。酒が好きで、蒔いた薬には手を出さなくて、だけど恐れもせずに何度もやってきた女。礼節を守りつつも図々しくて遠慮のない、たまにひどく昏い目をする女。あれが、自分のために仕立てられる。自分のためだけの女になる。
 それは確かに。悪く、ない。

「――……聞いたからな」

 譲歩のような形を取ったその言葉の意味を、正しく汲み取れるものだけがこの場に揃っている。部屋を一歩でも出れば通じない常識が満ちた部屋で、は未だ気を失っている。


 そのまま一日、二日、三日。
 餓死を心配した誰か――主にマグネだった――によって時折起こされ世話をされつつ、『だいぶ色々試した』結果か、はっきりと意識を取り戻すことはなかった。誰かが、壊れちまったんじゃねえのか、と囁いたが当の死柄木はむしろ上機嫌そうであったので特に注視されることもない。
 ただ真っ直ぐに異を唱えたのは、新入りとなった二人だった。

ちゃん! ちゃんじゃないですかあ! どうしたんですかちゃん、運命ですね?! ヴィランだったなんて知りませんでしたあトガを待っててくれたんですねえ会いたかったですう~」
「やめろ破綻JK。……おいおい、誘拐ヤク漬けもやってるなんて聞いてないぜヴィラン連合さんよ。なんだあれ、どう見てもマトモじゃないだろ」

 壁にもたれてうつらうつらとしているを眺めていた死柄木が、明確な舌打ちをするも両者は気にした様子もない。相変わらず抱き着こうとするトガを背後から抑えている荼毘の目が、異様に厳しいように見えた。

「彼女は少し特別なんですよ」
「ここでの特別扱いってのはああいうのを言うのか」
「無個性でしてね。どんな個性が合うか、探っているうちに疲れてしまったようで」

 そのやりとりにすっかり背を向け、の髪をいじって遊んでいた死柄木の間近に、暴発めいた火花が散る。ここ数日間ずっと球体にされ、戻され、強制的に眠らされ、を繰り返しているはその音にも気付いた様子が無い。ただ濁った意識をゆらめかせている。

「――無個性を、なんで置いてる」
「おいおい差別主義者か? 俺達は覚悟さえありゃ誰だって受け入れるんだよ」
「その状態の人間に覚悟があるとは思えねーな。俺がつまみ出す」
「ハァ? 触んな、こいつは俺のなんだよ」
「……へぇ」

 ぴり、と張り詰めた空気に黒霧が顔を上げた。こういう場所のこういう連中だ、荒っぽいのは多少仕方が無いにしても時と場所は選んでもらわなければならない。死柄木の前には彼女がいる。回復系の個性持ちがいない現状で、彼女の傍での争いごとは避けてもらいたい。
 さてどう宥めるか、最悪の場合は場所だけでも変えてもらう必要がある。死柄木、とまずは声をかけようとしたところ、一触即発の隙を縫うようにしてトガが彼女に飛びついていった。

「お久しぶりですちゃん! ぜんぜん会えないから心配したんですよぉ!!」
「おい触んな!」
「やー!!」
「ぅ、」

 飛びついてしがみついてガンガン揺らして、壁に数度打ち付けられた頭がぐらりと揺らめく。一瞬漏れた声に、誰もが口を閉じてその状況に目を向けた。ここ数日、ぼんやりしているか伏せられるばかりだったその顔が、目覚めの眩しさに抵抗するのと似た様子でしかめられる。
 そうして何度か瞬きを繰り返し、未だ寝ぼけたような様子で、ぐるっと周囲を見回した。確実に意思のある瞳だ。

「……トガちゃん? なんで……」
ちゃんヴィランさんだったんですか?」
「え? 何言って、」

 そうして上がった視界に、死柄木と黒霧、荼毘を映して、見る間に表情が凍る。愉快な気分で口角を上げた死柄木に、彼女はトガと自らの姿と室内を何度も視線をやり、やがて絞り出すように『――日付を…… 今日の日付をうかがってもいいですか』と口にした。
 そうして日付を確認した途端、両手で顔を覆う。『マジかよ』『うそだろ』とぶつぶつ呟いていたが、それはすぐにトガによって遮られた。

ちゃんずっとここに居たんですかあ? 探したんですよお」
「ごめんねトガちゃん……死柄木さん達のせいで……」
「オイさらっと人に押し付けんな」
「いや正真正銘あなたがたのせいっすよ……誘拐じゃないですかこれ……」

 きゅうきゅう抱き締めてくる無邪気そうな(あくまでも、そう、である)腕を受け入れつつ、じとりと死柄木、それから黒霧を睨む。
 記憶は大丈夫ですか。やわらかく声をかけられ、それどころでもないだろうに逡巡し、たぶん、とだけ答えた。

「私どうしたんでしたっけ……死柄木さんの『先生』にお会いして……? 実験に付き合ってくれって話があって……?」
「椅子をどうぞ。身体でどこか妙な感じのするところはありますか」
「関節がギシギシします」
「座るのも寝るのも床でしたからね、今日からは改善すると思いますよ」

 自分の状態を多少は覚えているのだろうか、苦い笑みが返ってくる。弱っちいくせに、無個性のくせに、度胸だけはあるのか少しの恐れも見せない女。誘拐ですよと言いながら、その手を借りて立ち上がることを厭わない。

「……可能ならおいとま、というか退出したいんですが」
「気が変わることを願っております」
「…………何度も申し上げるようですけど、私を引き込んだところでメリットは無いでしょう……」

 そっちの気を変えてくれ、と言いたいようだがそれは無理だ。死柄木弔は、自分が捨てる以外の選択肢では何一つ手放すつもりはない。それが、自分のためにあるものだとすれば尚更に。

「どちらにせよ夏休みでしょう。バカンスと思ってくだされば」
「……」

 曖昧な笑みで完全に口を閉ざしてしまった女は、確実に賢い。反論も屁理屈も繰り出せる舌を持ちながら、それを奮う場所も抑える場所もわきまえている。
 だから欲しがられているのだとは気付きもせずに。

「ヴィランじゃなくて人質さんだったんですか」
「……トガちゃんは、どうしてここに?」
「ステ様になりたいので!」
「すてさま」
「ステインのことだと」
「え、ヒーロー殺しさんにファンが? 世も末すぎでは?」
「ッハ」
「……で、結局そいつはここにいるわけか」

 結果として丸く収まりつつあった、かもしれない空気に、ひやりとした声が落ちる。
 荼毘をその目に映したは少しばかり驚いたようだったが、少しの沈黙の末に『あなたは』と口にしただけだった。

「荼毘でいい」
「……だびさん」

 荼毘に付す。
 一瞬、ひどく悲し気に目を伏せたが、それに言及される前に前を向く。

です、よろしくお願いします。……無個性の一般人です」
「お前その自己紹介飽きねえの」
「他に言い様ないでしょう」

 無個性の。一般人。それを譲る気はないとでも言いたげな執拗さで繰り返される単語。しつこさだったら死柄木だって負けてはいないのだ、途中で嫌になることや飽きることが多いだけで。『先生』に認められたのなら、余計に。

「精々言ってろ」
「……黒霧さん、何かお手伝いすることないですか。私にできる範囲で」
「そうですねえ、数日後に雄英へご挨拶の予定がありまして」
「私に! 無個性の一般人に! できる範囲で! 私が聞いたり知ったりしてもいい範囲で! お願いします!」
「冗談ですよ。昼食にしましょうか、さんはしばらくまともに食事をされていませんから」

 トガに助けられながら立ち上がり、ほんとに全身ギシギシする、と心底疲れた様子で言う。ドアが開き、あらあちゃん起きられたのよかったわねえ~! という声と共に押し潰す勢いで抱えられ、およそ女子らしくはない悲鳴が上がった。

「あだだだだ痛い! いったいマグねえさん痛い! 全身が! ギシギシで!」
「あら、やっぱりソファ買うべきねぇ。ベッドになるやつ」
ちゃんお泊まりなんですか? 今日からトガと一緒に寝ましょ?」
「ちょ、お願、離して、今ちょっと無理……」

 突如として賑やかさを増した女性陣(一部除く)に、普段だったら不機嫌になりそうな死柄木は興味無さそうに顔を背けているものの耳を澄ませているのがわかる。荼毘も静かに視線を向けているだけだ。
 死柄木が、そしてオールフォーワンが望むのならと彼女を受け入れた黒霧だったが、こんな副産物があるのなら彼女にはぜひとも長く居てもらいたい。せめて胃袋を掴むのを目標として、なにかリクエストはありますかと声をかけた。



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2019.01.23