二人掛けのソファーを借りて眠る日々は、床より多少マシなものの体中がギシギシ痛むことには変わりない――が、どんな状況にも慣れるものらしい。
 それなりに眠れるようになってきたし、起きたものの全身痛くて起き上がれないなんてこともなくなってきた。
 目が覚めれば大体の場合マグねえさんか黒霧さんに声をかけられ、多少の家事を手伝い、そうこうしているうちに顔見知りが増えてくる。たまにバーとして営業するのをウェイトレスの立場で手伝ったりもする。雄英の制服に驚かれたこともあったけれど、私よりも相手の方が納得するのが早かった。
 トガちゃんに呼ばれて髪を梳かれたり、死柄木さんに何故か膝に乗せられたり、他の人にちょっかいをかけられたりもする。
 これマジでカフェとか美容室にたまにいる看板犬の立場だな、と謎の納得を得つつ、日々を過ごす。
 座っていると隣にやってくる死柄木さんが、指の背で頬を撫でてくるのは完全に慣れてしまった。ただ、そうしている時の笑顔に――この子供っぽい癇癪持ちの男性の、笑い慣れていないような上機嫌の顔に、なにかが削られているような。もしくは重たい澱が心の底に沈んでいくような気はしている。

「……」
「、なんだよ」
「……いえ」

 ふと。本当に、ふと、なんとなく。いつも通り伸びてきた手に、自分から触れてみた。
 驚いて手を引っ込めた死柄木さんは、注意を払った形で――小指だけ掌におさめて――許す、といった様子で差し出してきた。受け取り触れた手は予想と違わずガッサガサで、ところどころささくれ立っていて痛そうだ。ハンドクリームをあげたい。そういえばリップクリームをあげたいと思っていた。あれはいつのタイミングだったっけ。死んだように冷たい掌底。乾いて固い皮膚と、対照的にグズグズなほどに柔らかい肉。しばらく指を確かめるように触れて、撫でて、押すようにして。そのうち返すと、しかめっ面を作り損ねたような顔で見下ろされていた。

「……なんだよ」
「いえ」

 ついさっきも、全く同じやりとりをした。なんてツッコミは入らず、ふいっと逸らされた顔にグラスが傾いた。あまりお酒を飲まない印象だった死柄木さんは、いつのまにか琥珀色を舐めるように嗜むようになっている。さんも何か飲まれますか。黒霧さんの声に、首を振るだけで答えとする。酒も、甘いものも、あまり欲しい気分ではなかった。

 記憶の上では遥か昔。おそらく実際の時間の中ではほんの数日前。死柄木さんに言ったことを覚えている。
 私がヴィラン連合と知っても通い続けたのは、おそらく彼への既視感のようなものだった。決して甘やかな気持ちではなく、ただ痛いような、もの寂しいような、哀れなような、羨ましいような――同じ病に伏している者同士のような、不健康な親近感で、目を離すことができずにいた。きっと私も死柄木さんも、同じところが欠けている。同じものに、餓えている。

 ぼんやりしていると、乾いてささくれ立った指の背がふたたび頬を滑っていった。たぶん撫でているつもりで、実際には少しずつ傷つけて。

(……かわいそうに)

 いつからこんなふうに思うようになったんだろうって、そんなのはわかりきっている。あっちで生きて死んでからだ。『三度目』を経てからだ。
 親近感の残滓のようなものを残しながらも、この人のことを以前のようには思えなくなっている。
 なんだか落ち着いて、覚えているよりずっと成長したように見える死柄木さんは――『今』の私の目には、以前よりもずっと幼く、寂しそうに映るようになっていた。この変化がいいことなのか、そうでないのかは判らない。

 おそらく、なんとなく、としか言えない勘だけれど、死柄木さんも私を以前の通りには見えていないだろう。病人は、互いの症状に敏感だ。
 私が死柄木さんに対して同情を色濃くしてしまったのに対して、死柄木さんはどんな印象を強くしたのだろうか。


「……はい」

 触れる指から、呼ばれるようになった名前から、妙に近くなった距離感から。なんとなく、想像がつかないこともない、ような気がする。
 想像もつかないままの方がいいように思う。

「明日、トモダチ連れてきてやるよ。退屈だろ」
「……」

 それは。なんか、嫌な予感がするな。
 黒霧さんに視線を向けると至極さりげなく目を逸らされたので、多分この予感は外れていない。
 
 この日々はきっと、穏やかと呼んでいいのだろう。ちょっと相応しくない呼び方かもしれないけれど、平和と呼んで差し支えない。
 少なくともこの場所に、理不尽な文句を投げてくる人はいない。傍にいなきゃいけないのに、視線を合わせられない相手もいない。何かの役割を求められることもなく――いや、それは無いか。私にとって苦労の大小があるだけで、求められてこなしている役割は相変わらず存在するか。でもまあ、前より、苦労は無い。来て数日こそビクビクしてはいたけれど、いきなり個性発揮でぶっ殺される感じもしない。こんなこと言ったら悪いんだけど、ナンバーツーヒーローの築いたご家庭に住むよりは気が楽だ。
 解放されて初めて負担に気付くってこともあるんだな、というのがこの監禁生活で学んだ一つである。

 とはいえ。とはいえ、なあ。なんか、なにかが腑に落ちないんだよなあ。

 死んだと思ってたもんだから。終わったと思っていたから、実は続きがあるんですよって――まだ道は続くんですよって広げられた世界を、どうしていいのか扱いに困っている。というのが、現状なのだろうと、思う。有り体に言ってしまうと、何をしていいのかわからない。

「はっっっなせやクソ野郎!!」

 だからって仕事をくれとは言っていない。
 椅子に括りつけられながらガタガタ跳ねるように抵抗している男の子、その視線から外れるようにそっと座る角度を変える。運搬役らしい――ここのところ出入りしていたのは知っているが、名前も定かではない――どなたかが楽しそうに椅子ごと彼を蹴り倒した。

「雄英、ヒーロー、いいよなあ。俺も昔なりたかったんだあヒーロー」
「なにをッ、」

 じゃきん。倒れた彼の眼前に、踏み込んだ靴の先から派手な音を立てて刃が飛び出る。
 騒がしかった彼が瞬時にぴたりと黙り、やはりひどく愉しそうな声が続いた。

「いいなあ、若くて、強くて、最強の気分だろうなあ。なあヒーロー。大義名分のもとに弱者を嬲るのは楽しいよなあ。知ってるよ、俺も」

 弾んでいるのにねっとりと地を這う声。まるで慈しむように彼へ伸ばされたその片手が、見る間に鋭く刃のようになる、

「……そのくらいにしといてあげてくださいよー!」

 意識して明るい声でソファから跳ね上がり、その背中に声をかけた。

「……キミ、なんだっけ。死柄木の、」
「トガちゃんのって言ってほしいとこですねー。ほらほらトガちゃんのカーデ借りてるんですよ似合います? じゃなくてその子、一応スカウト対象でしょう。ゲスト扱いしなきゃいけないんですよお」

 にこにこ笑って、無邪気そうに喋って、横たわった男の子に『ねー?』と首を傾げてみせる。見開かれた赤い瞳に、見覚えがある。体育祭一位、ヒーロー科でもトップの成績だというなんか物騒な個性の子だ。

「死柄木さん怒らせたら面倒ですよお? 遊ぶのは交渉決裂してからでいーじゃないですかあ、ちゃんと活躍の場くれますって多分!」
「……調子いーなあキミは」
「さーせーん! 私もあんまり死柄木さんとか黒霧さんのご機嫌損ねたくないんで~わかってくださいよお、どうか私を助けると思って! お願いします!」

 パチンと大袈裟に両手を合わせて頭を下げつつお願いしてみせる。名前も覚えていないヴィランさんの一人は仕方なさそうに、というよりむしろ興を削がれた様子で首をすくめた。ホント、調子いーよね、キミ。そんな言葉でどうにか場を譲ってくれる。
 ありがとーございますー! 去っていく背中に声をかけるが、返答はなかった。

「…………はー」

 ドアが閉まり、いなくなってたっぷり数秒、気配がないのを確認してから深く溜息を吐く。
 生き延びた……機嫌損ねたら私こそ殺されるとこだったんじゃねえの今の……。殺気ぶつけられるの久々すぎてメンタル削れた。あとあの態度作るのもすごい久々で妙に疲れた……。入り浸りすぎて麻痺してたけどやっぱりあんまり関わりたい人達じゃないよねヴィランを自称しちゃうような人って。

「オイ」

 疲れたし削れたので振り返りたくないです。

「オイ、てめえ、クソ女」
「うわあこっちはこっちで関わりたくないタイプぅ……」

 そういやヒーロー科トップはヴィラン顔負け(強さだけでなく顔つき性格個性全部含めて)とか聞いたことあるわ、関わりたくない……。乱暴な人ちょっと苦手っていうか嫌いなんですよ私ィ……。聞かなかったことにして放置したいけどそういうわけにもいかない……いや、いけるのでは? できるのでは? ささっと無視して違う場所に行っちゃえばいいのでは? 私に許されてるスペースはこのカフェバーエリアとシャワーとトイレ、あとちょっと倉庫か物置くらいだけど、この空間に彼と二人でいるよりは物置で寝ていた方がいくらかマシなのでは?
 ていうか死柄木さん、トモダチ連れてきてやるよってまさかこの子のことじゃねえだろうな。嫌がらせか。

「聞けやゴラ!!!」
「個性使うなよ焦げるの自分だからね?!?!」

 背後でドンと爆発音がして咄嗟に振り返る。幸いそれほど規模は大きくなかったらしいのと、床がそこそこの耐火性能だったのでなんともなかった。若干焦げてるかもしれないけど暗いのでまあバレないバレない。
 床と彼の様子を確認し、憂鬱な気分のまま見下ろす。この状態で強く睨んでくる彼のことは、まあ、大したメンタルですねと言わざるを得ない。事実はどうあれ私が強個性のヴィランだったらどうする気なんだ。とりあえず視線を合わせてしまったので、ひと声かけて起こしてやる。

「怪我ない? 攫われたって誰か知ってる? 起こすよ、個性使わないでね」
「……んでテメェにンなこと教えなきゃならねーんだ」
「いやまあ言いたくないならいいけど」

 救出の可能性があるかどうかが知りたいだけだ。
 怪我をしていたとしても、この様子なら大したことは無さそうだ。大したことがあったとしても、この状況で素直に治療を受けるかどうかもわからない。まあいいか――と溜息を一つ吐いたところで、ふと思い出す。
 救出、来るのでは。
 そして私もついでみたいに助かるはずでは。

(……やっべ……忘れてた……)

 なんか日々が穏やかというかぼんやりしてるうちに過ぎてしまったものだから……。そういや未来を変えられるんじゃないかとか考えたわ。いや、でも、そもそも未来をよく知らない。記憶の限りで言うと、ゴタゴタあって彼とついでに私も助かって? 緑谷くんがいて? 『三度目』があって? 死んだと思ったら生きてて、目が覚めて、お父さんだと思ったらお父さんじゃなくてエンデヴァーさんで? その先は――目が覚めたら夏休み直前か直後ぐらいだったからなあ……。

「……おい」

 ちょっと考えただけだけど、回避はできないこともないだろう。たぶん。自分の助かった経緯マジで全然覚えてないけど、たとえばここで彼にヴィランの仲間入りを果たさせる、もしくはそう思い込ませられれば大分違う。ついでみたいに助かったはずなので、彼と距離をとるだけでもいい。けれど。
 そうしたところで、続いているのは足元の道が伸びていくだけのことだ。
 先程、死柄木の、と言った彼の、先の言葉はわからなかったが――似たような言葉が続くのだろう。ペット。犬。お荷物。オトモダチ。愛人。私の立場に相応しそうな、死柄木さんの足を引っ張りそうな呼び名が、なにか。

「おい、……聞けよ、おい」

 逃げて、記憶通りに行ったとして――先のことわかんないんだよなあ。『三度目』がもう一回あるかどうかも分からないし。あったとして、……多分同じ結末を辿るだろう。お父さんは全身全霊で私を助けようとしてくれた、お兄ちゃん達もだ。繰り返してもきっとそうだろう。そしてまた、彼らを悲しませる。それで目覚めて、……数日前に戻るぅ……? 無限ループって怖くね……? 戻らないかもしれないけどさあ。
 戻らなかったら。
 戻らなかったら――どうなるんだろう。多分あそこは病院だった。お医者さんと、看護婦さん達と、エンデヴァーさんがいた。心操くんもいた気がするけどこれは幻覚だったかもしれない。普通に考えると入院して、警察から事情聴取みたいなものがあって、退院して、――轟家に戻るのだろうか。

「……なあ、」

 思わず、自分の喉に手を当てる。
 考えただけで息苦しい。そんな事象が、ほんとうにあった。

「ッ呼んでんだろうが!!」

 ドタン! と椅子ごと派手に転がった振動が響いて、咄嗟に顔を上げた。
 先程起こしてあげたばかりの男の子が、再び床に倒れている。

「……何やってんのきみ」
「テメエが! 話を! 聞かねえからだろうが!!」
「お手本のようなおまいう……」

 お前が言うな。略しておまいう。このスラングももう古いか、使ってたのって私が…… あれ、いつだっけか。
 再度起こしてやりつつ、大したメンタルではあるけどもしかしてこれ虚勢なのかな、とも思う。

「スパイって訳でもなさそうじゃねーか。……何モンだテメェ」
「…………」

 それって、どっち側からどっち側のスパイとして考えたのかな。
 おそらく雄英の制服から色々予想しているのだろう彼に、どう答えたものかわからず、曖昧に首を傾げる。話を聞いても聞かなくても大差ないっぽいな。

「ヒーロー科くん、お名前聞いてもよろしい?」
「質問に答えろや」
「ハァ」

 やはりお手本のようなおまいう。
 何者か。何者か、ねえ。リアルでそんな質問する人いるんだな。漫画の中だけの台詞だと思ってたわ。探偵さ、みたいな。その漫画ってどっちの世界での話だっけ?

「どっちだ」
「……どっちとは」
「しらばっくれんな。ヒーロー側か、ヴィラン側か」
「……」

 赤い瞳が射貫くような強さで睨みつけてくる。
 何者か、の次は、どっち側、ね。

「……ヒーローじゃなけりゃヴィランである、っていうのはちょっと極論だと思わない?」

 威圧を保っていた鬼のような形相が、おそらく意図していなかった答えにだろう、変に力が抜けて歪む。

「ヴィランじゃなけりゃヒーローだって話でもないでしょう」
「…………」

 戸惑った顔は、年相応に見えた。

「……どっちでもねえ奴が、なんでこんな場所に居んだよ」
「立場的にはきみと同じだと思うよ。帰してって言っても帰してもらえないの」
「……手錠も足枷も無くか」
「無個性だからね。縛るまでもないんでしょ」

 私としては言い慣れた台詞だった。それに伴う反応――優しい人は謝罪の言葉を口にして、そうでない人は嘲りの色を見せる。ヴィラン連合の方々は皆さんそれぞれ事情持ちが多いのだろう、納得する人が多かった――にも慣れていた。
 だけど、彼は。一瞬、傷ついたような顔をしたかと思ったら、強く唇を引き結んで目だけで睨み上げてきた。

「……? どうかした?」
「うるせぇ」
「なんだそれ」

 珍しい反応に思わず首を傾げるも、彼はやはり睨むような眼をしたまま黙り込んでしまう。無個性っつってこんな警戒みたいな反応されたの初めてだ。嫌な思い出でもあるんだろうか。無個性……ヒーロー科つながりで緑谷くん? でも入試の時には個性出てたって言ってたしな、それ以外で誰か……? 実はそれほどのレアリティではないとはいえ都市部、しかもこの年代ではやっぱり珍しいはずだ。何かあっただろうか、彼に。ヒーロー科トップの実力者に、こんな反応をさせるような――……

「トラウマでもあんの」
「あぁ?!」

 濁点ついてたな今の。

「無個性って言ってそんな警戒されても困るんだけど。何ができるわけでもないのに」
「……テメェらはいっつもそうだ」

 もう隠すつもりでもないらしい凶悪な目つきが、低く憎悪を含んで重い声が、やや肌寒いほどの室内に響く。

「ムコセーです、何もできません、障害になる存在じゃないですってカオしながらヒトを出し抜きやがる」
「…………」
「弱ええフリして何企んでやがる」
「…… っふ」

 警戒。なるほど。警戒な。どうやらマジでどこかの誰かが、無個性が、彼を出し抜いたらしい。それも結構、致命的な感じで。

「なに笑ってやがる」
「ふふ、いやあ、そんな反応されたの初めてだなと思って。ヒーロー科くん、その誰かに感謝した方がいいね」
「あ?」
「その経験は今後有利に働くよ、きみがヒーローでもヴィランでもね」

 優しい言葉と笑顔を向けたつもりだったのに、彼は警戒の表情を崩さないままわずかに顔色を悪くしたようだった。心外なんですけど。



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2019.02.24