「しかし、なんで私一人のとこに持って来られたのかな。丸くしといた方が色々面倒ないだろうに――あ、いや、今のなし。何も気になってない察してない知らない気付いてない。詳しい事情とか知らないし説明もしてくれなくていいからね。お互い生きて帰ることだけ考えて頑張ろうね」

 ぱたぱたと顔の前で手を振る、その手首の細さを自覚していないとでもいうのだろうか。女は少し離れたソファに腰掛け、その背もたれに頭を預けた。本人も無意識で取ったような行動だが、ふっと目を閉じた顔に少し隈が残っている。薄暗く、間接照明がいくつか点いただけの室内では判断もつかないが、その顔が青白いのは気のせいではないだろう。晒された首筋の細さから目を逸らしたい気分になりながらも、爆豪はその様子をじっと睨んでいた。真夏だというのに手の甲まで覆う長さのカーディガンを着た女。時折、肌寒そうに腕をさする――多分ほんとうに寒いのだろう。薄く開いては閉じる瞼が億劫そうで、どこも見ていないような横顔が誰かに似ている。

 ヒーローでもヴィランでもない。
 その自称を嘘だとは感じないが、そのまま真実として受け入れるほどおめでたくはなかった。
 爆豪は優れた個性を持って生まれ、幼い頃から優秀なヒーロー候補として生きてきた。が、周囲の環境までがそうだったわけではない。家族や幼馴染を除いた、世界を構成する大部分は、彼がモブだの没だのと呼ぶ種類の人間たちだ。『ヒーローでもヴィランでもない』奴なんて世の中にはありふれている。それらすべてを、視界に入れながらも無視してきた。どいつもこいつも大体同じだ。ヴィランに怯え、都合よくヒーローに縋り、キャアキャア言ったりブーイングしたり。無責任に右へ流れ左へ流れ。あいつら全員、舞台装置の一部でしかない。別にそれで構わない、すべてを一薙ぎできる波を起こせばいいだけだ。そして自分にはその力がある。
 それを踏まえて、ヴィランの巣窟でソファに頭を預けている女は、そいつらと同じ一員か?

「…………」

 数分前までばかみたいに笑っていた。軽やかに動いて、喋って、わざと騒がしく周囲の毒気を抜いて、というのはあの男だって承知のことだったのだろう。わかった上で女の無礼を許したのだろう。大目に見てやるよ、今回は。そう言っているような視線。舌打ちにも変換できないような屈辱が肺の裏あたりを焦がす感触がする。再び睨みつけた女は、気付いてもいないようで相変わらず瞼を薄く開閉させていた。スイッチの切れた人形のような態度に、腹立たしいと同時にぞっとする。不気味な女だ。爆豪は自身に生まれた感情にそういう形を当てはめた。不気味な女だ。だから警戒しているだけだ。決して――決して、恐ろしく感じているわけじゃない。
 しかし吸いつけられるように見つめ続けているのを、薄らと自覚はしていた。できることなら喋ってほしい、と感じていることも。

「……おい」

 うるさそうに瞼が下りる。

「シカトしてんじゃねえ」
「――」

 盛大にしかめられた後に、嫌々といった様子で顔を向けられる。なあに、と、視線と同じくらいに重い声が続く。それに硬直している神経のどこかが緩むのを感じる。これは、安堵だ。

「ヒーロー科くん度胸があるのはいいけどその喧嘩腰どうにかなんない……? 媚びろとは言わないけどせめて強弱つけなよ」
「そんなことどうだっていいんだよ」
「良くないよ。わりと瀬戸際だよ今」
「……」
「ああ、勘違いしないでね。私がどうこうじゃなくて、周囲への態度の話だよ――ここが『ヴィラン』のいるところだって、もっと理解しなって言ってるの」

 いつ死んだっておかしくないんだからさ。
 その一言だけで威力は充分だったが、かったるそうに身体を預けていたソファから何か思い立ったように足を下ろす。一度爆豪を振り返り――カウンターの奥から酒瓶をひとつ取り出して、ぶん、と無邪気に素振りした。

「漫画とかでよくこれ割って切り口を突き付けたりするよね」
「……脅してるつもりかよ」
「さあ。どうだろ」

 ぶん。風を切る音がする。
 野球のバットのように、テニスラケットのように、物自体の重量を遠心力に変えて振る。少し腰を落とした、ちょうど爆豪の頭の高さのフルスイング。

「ただまあ、わかるでしょ。無個性の私だって今のきみを殴るくらいはわけないし」

 今度はグラスを持ち出した。蛇口の音も水の光もごく慣れた、生活に密着しているものなのに、ひとつひとつがいやに物騒だ。
 二人の間にテーブルは無かったので、そのグラスは床に置かれた。こつ、という音とともに、淡い光の影が花の形で木目に広がる。

「人間を溺死させるにはコップ一杯の水で足りるらしいよ。勿論、やり方もあるんだろうけど」

 その隣に、重たげな酒瓶が置かれる。やはり花のように広がる影が、奇妙な濃さで眼下に迫る。
 膝を折り、酒瓶やグラスと同じ位置から爆豪を見上げていた女は、やがて飽きたような溜息交じりに立ち上がった。

「あの人達だったら、こんなつまんないこと言う必要すら無いんだよ。折れないのも譲らないのもいいけどさ、タイミング見ないと犬死もいいとこじゃない?」
「…………『ヒーローでもヴィランでも』」
「うん?」
「『ヒーローでもヴィランでも』っつったろ……どういう意味だよ」
「…………」

 その顔に、そんなこと言ったっけ、と書いてある。口が開いて『そ』の形になったが、さすがに思い直したのか唇を閉じて酒瓶とグラスを元の場所へと持っていく。警戒なく歩いていく、その背中に体当たりだってきっと出来なくはない。出来なくは、ないが。

 ――タイミング見ないと。
 ――あの人達だったら、こんなつまんないこと言う必要すら無いんだよ。

(……クソが)

 わかっている。
 これは忠告だ。
 テメェにアドバイスされるいわれは無ぇんだよクソが! と怒鳴りたい気持ちは、図星を指された気まずさと反発から来ている。
 無個性だと言った女。ヒーローでもヴィランでもないと言った女。個性を使わず話術と態度で男を退け、庇い、心底億劫そうにしながら忠告までもしてくる女。どこまで上から目線なんだ。テメェなんかに。テメェなんぞに。無個性だっていうくせに。そんな細い腕をしているくせに。明らかに栄養が足りていないか偏っているやつれ方をしているくせに。
 ただ闇雲に『強い』ばかりが強さではないと、この半年でさんざん学んだはずなのに。

(――)

 どうして今。手を伸ばしてきた幼馴染を、思い出している。

「『その経験は有利だよ』だっけ」
「、」
「思い出した。弱いフリすんなって言ってたっけね、きみ」

 戻ってきた女が、思い出しながらといった様子で喋る。水は飲むことにしたらしい。くいと一旦傾けて下ろされたグラスが、その胸元を照らす。まるで彼女が小さな光を抱えているように見えた。

「……同じセリフを聞いたことがあるよ。言われたのは私じゃなかったし、もう、だいぶ、昔のことだけど」

 その声だけが、どろりと昏い。 

「どういう意味か――って言われてもなあ……。リングの外にいるオッサンの『お前は見込みがある!』みたいなウザ絡みと思ってくれていいよ」
「……そっちじゃねえ」
「『ヒーローでもヴィランでも』の方? それもそのままなんだけどな。ヒーローもヴィランも、必要条件あんまり変わらないでしょう。……なんて、そうだね。どっちに言っても怒られそうだ」

 自分を完全に第三者の場所に置いて、リングの中の両者を大差が無いと言い切る。雄英の制服に、本来であれば絶対的なヒーロー側の若きエリートを象徴する服に、見合わない態度。

「……強い個性と、柔軟性と、そこそこの協調性、運と努力と、信念、理想。それを実現するんだっていう気概?」
「ヴィラン共にそんなもんがあると思ってんのか」
「それこそどっちにも言えることじゃん。どんな業界にだって雑魚はいるだろうし大物もいるでしょう」

 言葉に詰まる。彼女の言うことは、爆豪も言葉にはしないまでも感じていたことだった。
 管轄じゃない、担当じゃない、向いていない。自分よりもっと相応しいものが来るまで待とう。そうやって人から、危機に瀕している命から目を逸らしてしまえる『ヒーロー』がいる。――彼からすれば、自分が出るまでもないだろう幕に、躊躇なく飛び込んでくる『ヒーロー』もいる。

「はっきり言って今の対立構成はヒーロー側に一日の長があるってだけの話じゃないかと思ってるよ。どんな組織も大きくなれば社会保障を考えるし一枚岩のままでなんかいられない。案外、ヒーロー側とヴィラン側のメンバーそっくり入れ替わっても社会としては大差ないんじゃないの」

 同じカテゴリに属しながらも、明確に存在する三角形。そのてっぺんに、憧れた人がいる。その下に、無数の同じ呼び名。

「ねえヒーロー科くん、私は無個性のクソザコだからわかんないよ。ヒーローとヴィランの、本当の、本質的に、違いって何よ」

 知らずのうちに、視線が落ちていた。あれだけ睨むように見据えていた女が視線から外れ、今はもう足先しか見えない。行儀悪くソファの腕に腰掛けてぶらぶら揺れていた足が、飽きたようにそれを収める。

「――なんだ。もっと盲目なのかと思った」

 カツ、と硬質な音がした。おそらくグラスが置かれたのだろう。
 やめろ。それ以上、その先を、言うな。そう思ったものの口は開かず、見たくないはずなのに顔を上げてしまう。

「わかってんじゃん、きみ」

 見上げた女は、ひどく静かな目をしていた。

「――ッ、」
「泣くなよ」
「ッ誰が泣いてるってェ?!」
「そうだね泣いてないね。泣けた方が楽だろうにね」

 ふっと柔らかくなった響きが、微笑んでいるようで、憐れんでいるようで。普段であれば間違いなく怒りを露わにするところだったが――おそらく、そうするべきだったが――眉間に入った力が、すっと抜けてしまったのが自覚できた。

「……わかってても、ヒーローになりたいんだね」

 微笑んでいるようで。
 憐れんでいるようで。
 羨んでいるようで。
 今度こそ言葉を失ってしまった爆豪に、笑顔が向けられる。今まで見たどんなものとも違う種類の笑みだ。

「俺は」
「うん?」

 なにか言うべきだと思っていた。なにも言えないような気がしていた。それでも違うと、同じだなんて言わせないと、腹の奥で燻る想いがある。ヒーロー。オールマイト。誰もが憧れて歓声を上げる、このヒーロー社会の象徴。途方もない輝きの先、霞むような遥か高み。あそこに行きたい。あんなふうになりたい。いつだって余裕の笑顔でヴィランを蹴散らす最強のヒーロー。

「俺は、オールマイトが、勝つ姿に憧れた」
「……」
「だから成るんだ…… 俺が成るんだ! 文句あるか!!」
「…………」

 消えていた笑みが、女の口元に浮かぶ。その眼が、ひどく大人びて――いっそ老いているように見える。同い年のはずの相手に、どうしてそんな印象を抱くのかわからない。きみは、ヒーローのいる世界の子供なんだね。やはりまるでリングの外、他人事のような台詞を吐いて、女は離れたソファへ倒れ込んだ。その姿は影に隠れてしまって、腕置きからはみ出る足だけが白く浮かび上がっている。

「悪かないよ。文句なんかないよ。がんばれ」
「……ナメとんのか」
「んなわけねえじゃん。羨ましいよ」

 むくりと起き上がった頭、首から上だけがソファの背の向こうに見える。室内が暗いのもあり、女が首を向けないのもあり、その表情は窺えない。

「情熱だ」

 選んだ単語に対して、その声がひどく冷えている。
 振り返りもしない顔が、何を視界に映しているのかはわからない。ただ、視線の先にあるであろうカウンターではないような気がした。
 ヒーローのいる世界の子供。
 情熱。
 それらが、自分には無いものを呼んでいるような響き方をする。

「緑谷くんとか、しょ…… ヒーロー科の人とか、心操くんとかが強い理由が少しわかった気がするよ。ヒーローの存在を信じているんだね」
「……信じるも何も、居るだろうが」
「……そうだね。その通りだ」

 一瞬、なにか失敗でもしたかのように顔が逸らされる。
 その顔はやはり見えもしないが、笑っているような気がした。優しくも穏やかでもない、ただただ諦めたような、皮肉げな顔で。

「違いっていうのは、それをわかる人間にとってしか重要じゃないんだって聞いたことがあるよ」
「……何が言いてぇ」
「きみこそ本当は何が聞きたいのさ」

 疲れた、とでも言いたげな様子でどさりと音がする。おそらくソファに倒れ込んだのだろう。はみでた白い足が上下して、弛緩したように動かなくなった。

「……テメェは、ほんと、何なんだよ」

 溜息をこぼすように落ちた声は、語り掛けるようなものではなかったが。意外なことに、返答はあった。

「無個性の一般人だよ」

 白い足は億劫そうにじっとしたままだ。

「だからどこにも行けないの」

 その言葉は、柔らかい音をしているくせに妙にスカスカと軽く、泡のように消えそうだった。



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2019.03.14