思えば私は、この制服を着ているくせに危機感ってものがなかった。
 言い訳をさせていただくならば、私の抱く『危機感』は一般的なものとは少し違う自覚がある――この超人社会、個性社会で私は無個性だ。私が抱く警戒は攻撃的な『個性』を意識的に、あるいは無意識的に振るう人間に対して向けられるものであって、正直そこに対象の性格や所属は関係ない。正義を名乗ろうと悪を名乗ろうと、当人にとって理由があるのなら、超常の能力をふるわれる。見極めるべきは害意の有無。リソースを割くべきは逃亡、回避だ。その裏側の思考とか目的とか気にしてる余裕ないんですよこっちには、んなもん考えてるうちにやられてしまう。こちとら社会の異物である。自覚がある。
 ――だから――なんていうのは言い訳だけれど――結果として、善悪にあまり頓着がない。そういえば心操くんにも警戒心を持て的なことは言われてきた。逃げ足に自信があるから軽く流してきてしまったけれど。

 結果として、今。
 危うい場所に立っている。

(ものすごいスッキリしてしまった……なんかもう色んなことに対する執着とか意地とかが全然無い……)

 一時的に気が大きくなっているだけだろうとは思う。思うけれども、まあいいじゃん! みたいな気持ちである。自分のルーツと呼ぶにはあまりに酷いエゴが、ここまで自分に自信を持たせるものだとは知らなかった。この世界に普通に生まれた人は皆こうなのかな……すごいな……。自分の根拠と理由が明らかになることが、こんなに強く穏やかなものだとは。こんなに、何も怖くないような気分にさせられるものだとは。

(……先生)

 足の裏に、わずかな振動が伝わってきているような気がする。はるか遠くの地響きを感じ取っているような、そんなはずもないのに、どうしてか。
 真正面に立っている、相変わらず紳士的なばかりの人。たとえば今、この人が『じゃあ協力してもらおうか』と囁いたとしたら、私はたぶん二つ返事で頷くだろう。いいですよ、お礼もしなきゃいけないですからね、ご命令ください、何なりと。聞ける命令かどうかは聞いてから考えますわ! とか言いかねない。非常に危険。わかってる。落ち着け冷静になれと繰り返す自分と、アクセルを全力ベタ踏みしようとしている自分がいる。だって今、何だってできる。命の答えを手に入れた今、きっと何だって。

「――」

 そんな歌が、あったような気がする。
 この状況にふさわしい音楽が、詩が、かつてあったような気がする。いつかその曲をお守りのように胸に抱いて、歩いていた気がする。

「……実験のつもりで君に入れた個性は全部、弾かれたんだ」
「、え」

 沈み込みかけた思考を呼び起こすみたいに声をかけられて、顔を上げた。

「あまりにぽんぽん弾くものだから、面白くなってしまって色々試してみたのだけれど。どれも受け容れてくれなかったね」
「……」
「本当に、『無個性』が君の『個性』みたいだ」
「……はははは」

 長年使ってきた自己紹介がこんなところで活きると思わなかった、ていうかすごい怖いことされてた。笑うしかない。ぜんっぜん記憶にない。のは、たぶん幸運なことだ。ヴィラン連合の黒幕(おそらく多分)、人から個性を奪ったり与えたりできるひと。研究者、もしくは子供のような探求心や好奇心を持っていて、それを実行することに一滴の躊躇いも持たない。何をされたのだか知らないが本当に忘れていて良かったと思う、生きてることが奇跡に近そう。と感じているのは空気で伝わってしまったのか、『壊しはしないよ』と雑談みたいな調子で言われた。

「殺しはしないし、壊しもしない。君は大切な女の子だ」
「……? スカウト対象だからですか?」
「いいや。君が弔の大切な子だからだよ」

 すう、と吸った呼吸が、吐き出せずに留まる。
 弔の、大切な子。それは。……反射的に笑顔を作ったつもりだった。苦笑したつもりだった。なに仰ってるんですか、死柄木さんのあの態度は――ペットに対するようなもので――自分でもわかる、あまりにも白々しいお為ごかしだ。

「……大切な、って。そんな大げさな」

 だけどその言い方は、あまりにも……なんというか、色を含んでいる。まるで死柄木さんが私のことを好きみたいな、いや嫌われてはいないと思っているけれども、……恋愛対象ってことは、ないだろう。こう言ったら何だけど結構年上でしょう死柄木さんて。おそらく成人はしているはずだ、高校に入ったばっかりの女とかガキもいいところなのでは? ついでに言うなら無個性な上に立場だけは有名ヒーローの娘、つまり敵ポジション。恋愛対象としても、政略結婚的なものの対象としても、あまりいい選択とは思えない。

「鈍感なふりは良くないな」
「……いや……ちょっとくらいはそう思わないこともないですけど……でなきゃさすがにあの態度が説明できませんけど……でもそんな、まさか本当にそんな話なわけがないと思うじゃないですか」

 あの人に惚れられる理由がない。ここ数日で触れることは増えたけれど話すことは相変わらずゼロに近い、なんなら夜中に通ってきてた時期の方が気さくに喋っていた。態度だっておかしいというか、片想い相手にする態度じゃないだろう。近すぎる。もっとこうペットとか、妹的存在とかそういう。そういうのだったらまだわかる。十兄やゴリ兄もよく私を膝に乗せてくれたし。

「第一――そんな、まだるっこしいことしますか? 私これだけ滞在して、されたのって本当に勧誘だけですよ? 個性ぶち込むとか……が、無理だったとしても、薬漬けにするとか精神汚染系の個性にかけるとか、そのへん使わなくてもレイプからのマッチポンプとかやりようがあるじゃないですか……?」
「君は無個性の一般人を名乗る割に発想が物騒だね」
(ヴィランに言われた……)
「力ずくでは手に入らないものもあるんだよ」
(ものすごくマトモっぽいことを言われた上に諭された……ヴィランに……)

 ヴィランって悪党って意味と違うんか。あなたがた悪党を自称してるのと違いましたっけ。
 だってそれじゃあ、まるで私と、まともに恋愛する気があるみたいな、話に。
 そこまで思って口を噤む。もしかして、そうなのか。……いや、誘拐監禁の時点でマトモではない気付け! やってることが勧誘だけとはいえ誘拐からだいたい一週間って何をどう疑われても仕方のない期間! 少なくとも私の世間体を犠牲にはしている! あと普通は片想い相手を膝に乗せようとはしないはず! 考え直してみても最大級に好意的に解釈してみてもペット扱い!

「男の子はいつだってお姫様を救い出したいものだ」

 その台詞だけが、妙に重く。
 ――下がっていた視線を上げる。顔のない顔。見慣れたはずのそれに、ざわ、と肌が粟立つのを感じた。
 この人を前にすると、いつも思い浮かぶ単語がある。よく似た特徴と、それ以上に纏う空気が。この人の、人ならざる雰囲気が、いつも同じ神話を思い起こさせる。

「――あの子が初めて、他人のためになにかを願った。この私に」

 風が起きるはずもない丈夫なコンクリートの内側で、強風に煽られるのによく似た眩暈がした。
 弔のため。
 どんな場面だったかは思い出せないが、その口からそう聞いたことがある。弔のため。弔の成長のため。それは本当に、『死柄木さんのため』だろうか。

「……そういえば質問をされていたね。崩れ落ちた君を見てヒーローの卵はひどく焦っていたよ――その後のことは判らないな、私は君をここへ連れてきてしまったから」
「……」
「いい演出だった。君には、どちらにとっても守るべき対象でいてほしい」
「…… どういうことですか」

 頭が痛み始める。脳を揺さぶるような本能的な警報が、ちっとも暑くなんかないのに背中にじとりと汗を浮かせる。

「会えない時間が愛を育てる。その言葉は、一種の真実だ」

 たいせつな宝物をそっと開くような口調でいるのに、禍々しさが少しも薄れない。

「今の自分では手に入らないものを手に入れるために、あの子は強くなるだろう。今よりもっと、ずっと、速く。君を守り、閉じ込める檻を、壊せるようになるまでに」

 どちらにとっても、守るべき対象で。
 ヒーローからすればヴィランに狙われた少女に、ヴィランからすればヒーローに捕らわれている仲間かそれに属するものに。

「…………やっぱりマッチポンプじゃないですか……」

 ようやく出たのは苦情のような呆れのような台詞だった。そのためにこの人はわざわざ現役職業ヒーローの無個性娘なんてものを持ってきて、思い入れを持たせてからヒーロー側へ戻そうとしているのか。死柄木さんのためっていうかそれは戦争激化のためだな……? ヴィラン連合の云々って私あんまり真面目に考えてなかったけど、思ったより全面戦争なんだな? この人達マジで世間を獲りに行っていた? ……雄英襲撃、生徒を誘拐している現状を考えると私の認識が甘すぎた。反省すべき。雄英生徒とは名ばかりな無個性の一般人には関わりのない話だと思ってたんだよ。

「始めたのは弔だ、彼の愛を疑うことはない」
(そういう意味じゃない……)

 ……死柄木さんが私を好きだなんだっていうのも、あながち冗談やこの人の思い込みではないような気がしてきた。実際はどうあれ、この人なら死柄木さん自身に『これは恋だ』と思わせる程度のことはできるに違いない。
 この人を先生と呼ぶ横顔を思い出し、これまでで最大級の同情を抱いた。どんな事情があって何がどうなったんだか知らないが、死柄木さんは運が悪い。いや、どうだろう、考えようによっては、結果によっては幸運なのかもしれない。『魅入られた』人間の行く末が破滅か幸福かは議論の余地がある。今そんなことはどうでもいい。

「……」

 繰り返し思い浮かべた名前を口にしかけたけれど、音にならず唇を小さく震わせただけだった。それを見止めたのか、不思議そうに首を傾げられる。死柄木さんの『先生』。どう呼んでいいのかわからなかった、……その呼び名を自分の中に持っていた。
 ――這い寄る混沌。闇に棲むもの。黒い男。
 顔と同じく無数の呼び名を持つ神は、いつだって陰惨な事件の舞台の裏にいる。

「以前にも、君は私をそう呼んだね」
「……」
「教えてもらえないかい」

 舌にも上らなかったはずの名前を感じ取ったのか、幼げに首を傾げた。
 何も言っていないのに、どうして呼んだと理解されたのだろう。なんて考えることが既に馬鹿々々しくなり始めている。……『以前に呼んだ』時のことを、説明されなくても思い出すことができた。なんか吐いたかどこか折ったか、とにかく満身創痍で四つん這いになっていた。願い事を教えてくれないか。優しげに、穏やかに紡がれる音。力になれるかもしれない。低く不思議と甘く薫る、脳を酔わせるような声。

「ニャルラトホテプ。……無貌ゆえに千の顔を持つ、悪意と好奇心に満ちた神の名です。……あなたは、よく似ていらっしゃる」

 特定の眷属を持たない神。その素晴らしい知力でもってして、人間に力を分け与えては破滅と絶望を巻き起こし、それを肴に酒を呷る。純粋無垢なまでの邪悪。
 決してその手を取ってはいけない。

「……ふ、は、ははっ、はっはっはっはっは」
「……」
「いやあ、失礼失礼、すばらしいね君は。臆病なのに度胸があって、小賢しいのに愚かで、弔には少し難しいかもしれないが、面白い」

 気分を害してもしょうがない発言だったとは思うけれど、むしろ喜んだ様子で初めて聞くような声で笑われる。この人の、うすら寒い企みを阻止する術があるだろうかと一瞬考え――無理、詰み。即座に諦めた。誰に何を告げたところで信じてもらえる立場ではない。あと死柄木さんに狙われている(意図はこのさい置いておく)のはどうやらガチ。気分が大きくなってたのが落ち着いてきた現状、べつにヴィラン側に居てもいいのでは? という気もしないでもないけど、本音を言うならどちら側にも居たくない。ヴィランもヒーローもお断りしたい。イザコザは余所でやっておくれ。

(ヒーロー側の云々はどうにかできるかもしれないな……あのキレ芸の子さえ黙っててくれればどうにか……)
「君さえよければヴィラン連合にいてくれてもいいんだが、今はまだ乗り気でなさそうだしねえ」
(心読むのやめてくんないかな……)
「弔を嫌いかい」
「…… 嫌いではないです」

 その聞き方はずるい。嫌いではないのだ、そもそも。
 嫌い、に、なれるわけがない。

「あなたのことも、絶対に」
「……」

 意外そうだ、と感じるのは、私の思い込みなのだろうか。感情を示す器官がほとんど無いので、態度や雰囲気で察するしかない。
 敢えて好き嫌いだけで物事を判断するならば、嫌いになれるはずがないのだ。正しいかどうかをさて置いていいのなら。自分の心だけに従っていいのなら。……そういう詩が、音楽が、物語が、かつてどこかにあったはずだった。

「……心に 思い浮かんだ歌があった時に、口ずさめるような環境で生きていきたいと願っていました」

 そういえば私は、そんなふうに思うことが多かった。腐ってもセイレーンの名を冠していたためだろうか、それとも、だからセイレーンと名付けられたのだろうか。当時はあまり自覚が無かったけれど、機嫌がいいと鼻歌を歌ってしまうタイプだった。人目が無ければ普通に歌っていたと思う。恋に友情に悲劇に戦いに平和に、沈黙にさえ、相応しい旋律と詩があった。その名残だろうか。今の人生でも、こんな状況にふさわしい歌があったはずだ、と、思うことが多く――大体の場合、空気は極寒だったので『そんな歌があったな』止まりだった。実際に口ずさむことはなかった。口ずさめるような環境で生きたいなあとぼんやり願ったりした。

 けれど今。
 思い浮かんだはずの一節が、喉を通って出てこない。

「歌だけじゃないです――物語の一部や、その一言だけで結末まで思い出せるような台詞、あらすじまで言えちゃうような人物の名前……」

 いつか支えてくれていた音楽が詩が物語が人物が。受け取った、芽生えたはずの感情が。必死に掴んでいるつもりなのに、ぼろぼろに風化して崩れていく。原型すらも思い出せなくなっていく。愛したはずのものを、憎んだはずのものを、自覚も無いまま失っていく。その恐ろしさを、誰も知らない。

「……死柄木さんを嫌えるはずがないんです」

 かつての私とよく似た人。違うものに支えられた方の私。

「あなたのことだって、嫌えるはずが、憎めるはずがない。そうするには、私はあまりにも受け取りすぎた」

 先生。足を止めて振り返ってくれた先生。私を信じて、行ってくれた先生。軽く笑って手を振った。赤いマントの翻る背中。最後までずっと見つめていた背中。あの一瞬を、今この命につながる一瞬を、私は、この人によって取り戻したのだ。それがどんな意図であれ。

 私に前世の記憶が無かったら。私が先生への恋で出来ていなかったら。私が本当にただの無個性で、何の支えも裏もない状態で轟家に生まれていたら――そうして、この場にいたとしたら。恋だろうがペット扱いだろうが、もうちょっと酷いものだったとしても、その手を拒むことはなかっただろう。そもそもトガちゃんの時点で離れられたか危うい。そうしたら私はきっと、ただの『轟』はきっと死柄木さんに救われていただろう。もしかしたら今のタイミングより早く知り合って、惹かれていたかもしれない。
 だけど私は、あの日に殺した恋心で出来ている。

「まあ、さすがに女の子の心までは手に入れてあげられないからね。弔自身に頑張ってもらうしかないんだが」
(どの口が言うのか……)

 たとえ人心だろうが出来ないことなんか無さそうですけど、どの口が。しかし言われてみればそれ系の個性持ちはいなかったのだろうか、――いたところで今は出番でないと判断を下されただけだな戦争激化的に! 考えるのやめよ!!

「――あの子供が繰り返し聞いていたことを、私も少し疑問に思うよ」
「あの子供?」

 死柄木さんのことではなさそうだ。ふと遠くを確認するように首を上げ、こちらへおいでと手招かれる。特に拒否する理由も(ついでに意味も)なさそうだったので、数歩近寄る。

「君は何なんだ、と」
「……」

 無個性の一般人ですよ。
 と、いうようなことを聞かれているわけでは、多分ない。

「……思い出させていただいたので、お礼に申し上げるんですけど」
「?」
「恋する乙女の亡霊です」

 だから、やすやすとお姫様にはなれないんですよ。死んだ恋に、縛られているので。
 たぶん誰に話しても意味のわからないであろう言葉だ。この人がいくら邪神じみていても解るわけがない。ただ私の一連の行動、涙、見せたはずの絶望と目覚めた様子などから何かを繋げたのか。どういう理解に至ったのか。相変わらずウイスキーによく似たやたらといい声で、『なるほど』と囁くように言った。

「それも弔によさそうだ」
「………… やめてくださいねこんな寒い台詞を人にバラすのは」
「男の子はね、呪いだって解いてあげたいものなんだよ」
「やめてくださいよ!!」

 朗らかに笑っていた人が、ふと顔を上げて『そろそろか』と囁く。嫌な予感に身を引きかけたが、抵抗する間もなくその胸に抱かれていた。



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2020.03.21