一家の最高権力者たる父親に、誰より相手にされていなかった無個性の娘。それでも彼女は、一度たりとも父親を拒絶したことが無かった。
 双子の弟や兄達が父親をまともに呼ぶことがなくなっても、話しかけることこそ無くなったとしても、彼女から父親への呼び名は変わらず『お父さん』であり続けた。母に対しては『お母さん』、上の姉や兄達に対しては『お姉ちゃん』『お兄ちゃん』と続いていた。実際の環境から考えれば奇跡のような確率で、内心はどうあれ彼女はまともに接し続けたのだ。それこそ、彼女だけを見れば背景には仲睦まじく平凡な家庭があるのだろうと勘違いさせるくらいに。双子の弟は、多少の反抗期なのだろうと思わせるくらいに。

「……」

 ヴィラン連合に攫われていたという彼女が入院し、目を覚まし、騒ぎを起こしてから数日。
 厳重な警戒下で目覚めた彼女は落ち着いており、四肢を拘束するベルトや特殊なマスクも比較的早い段階で外された。尤もそれはヒーローや特殊個性持ちの職員を傍に控えて行われたことだったが。ともかく彼女は警戒対象から外れ、度重なる検査の末に『無個性』の肩書を二重にして、再び家族代表、父親の前へと差し出された。
 轟さん、もうすぐお父さん来ますからね。そう声をかけられた彼女は、それまでのずっとぼんやりしていた表情を少し動かし、……期待のような不安のような、せつなげな顔をしたものの――相まみえた父親を前に、深く深く俯いて目を伏せた。一度大きく膨らんで、ゆっくりとしぼんでいった胸や肩が、音にはならなかった大きな深呼吸――おそらくは溜息――の存在を示している。

「…………」
「…………」

 瞬きと呼ぶには長い暗闇の中で何を思ったのか。下を向いていた首と眼球を覆っていた瞼が、覚悟を決めたような重さでゆっくりと上げられる。その瞳に映る失望の色は隠れてもいなかったが、彼女はまっすぐに父親を捉え――再び深く頭を垂れた。今度はきちんと背筋を伸ばして。

「助けていただいて、ありがとうございました。お手数をおかけして申し訳ございません」
「…………」
「一通り検査させていただきましたが、さんの容態に異変は無いようです。あと数日、こちらは通常の検査入院になりますが、退院後もしばらくは安静にしてください」

 空気を読んだのか読まなかったのか、担当になった医者がにこやかに後を告げる。はというと、まるで退屈したような表情で窓の外に視線を投げていた。実際に退屈しているのかもしれない。この状況に。
 そしてそれを父親の背後から見守る家族が三名。揃って口を閉ざしている。

「では、お父様にはもう少しお話が―― さん、安静にしていてくださいね」
「はい。ありがとうございます」

 彼女に与えられた、少しばかり特殊な病室から場所を変えようというのだろう。父親を連れて出て行く担当医に先程より少し軽い会釈をして、二人が去ってから軽い溜息と共にベッドへ背中を預ける。未だ起き上がることができない――わけではないが、あまりいい顔をされない――身体には、この対面は負担だったのかもしれない。元より白い顔が、記憶よりずっと青褪めている。退屈しきりといった、自分のいる状況にまるで興味の無さそうな両眼がゆったりと窓枠から室内を巡り、三人の姿を初めて捉えたかのように、そこで止まった。
 何か言いかけて開いた唇が、ぎこちなくも象られた笑みに掻き消される一瞬があった。

「――ただいま。心配かけて、ごめんなさい」
「……、」

 ようやく硬直の解けたような冬美がベッドへ近付いて、堪えきれずに妹を抱きしめる。お姉ちゃん、苦しいよ、そう言いながらも笑って姉の背に手を回す。

「痛いとことか、ないか」
「うん、大丈夫。来てくれたんだね夏兄」

 膝を折って視線を合わせる夏にも、同じく穏やかな微笑が向けられた。ありがとう、ごめんね。謝ることじゃないだろ。そんな会話を経て、家族の誰とも違う髪が撫でられる。兄とも姉とも、もっと言えば父とも母とも、双子の片割れとすら似ていない娘。
 醜い左側も息苦しい右側も持たないお前のことを羨ましかったって、言ったことがあっただろうか。身動きもできず立ち尽くしていた双子の弟は、ふと自分へ向けられた視線に怯えるように身を引いたが、それ以上のなにかを行動に移すより先に彼女が口を開いていた。『焦凍』。その声で、呼ばれる。

「…………
「焦凍」

 もう一回、呼んでくれ。そう思ったのを聞き取ったように繰り返される名前。
 歩み寄る焦凍の気配に気を使ってか冬美が離れ、零れる涙を雑に拭った。その肩を叩く夏の様子を横目に眺めながら、が焦凍に淡い苦笑を向ける。

「焦凍、……あの時はごめん」
「……いい、もう、どうでも」

 それが相応しい言葉でないことはわかっていた。謝罪するべきは自分の方であってではない。謝らなくちゃいけないことがある、伝えなくちゃいけないこともたくさんある。が眠ってしまって初めて知ったこと、これまでずっと知らずに、知ろうともせずに過ごしてきたこと、垣間見えた激しくて暗いもの、ぜんぶ、ぜんぶ、――だけど、今は、

「どうでもいい、……なんでも、いいんだ、お前が、帰ってきてくれれば」
「…………」

 その言葉に、何も答えは無かったが。両手を取って俯いた焦凍に、曖昧な笑みを返す。
 兄弟達はそうやって、この騒動にひとまずの区切りをつけた。
 も起きたばっかで疲れてんだろ、あんまり長居するのも止そうぜ。明日また来るからね、。兄や姉の声に引きずられていく片割れに、今度こそ微笑んで手を振る。無理しなくていいからね、またね、おやすみなさい。そうして家族の対面は穏やかに幕を閉じた。

 轟家の末娘は、父親を拒絶したことは無い。
 躊躇なくお父さんと呼び、好きなヒーローを尋ねられればエンデヴァーの名を出し、年頃の娘らしい不満を零すことはあったものの児童虐待紛いの状況を口外はしていない。自分から声をかけることこそ無かったが、必要に応じてかけられた言葉を無視することもなかった。きっと夏休み前までの彼女だったとしても、この状況になって最初にすることは同じだっただろう。礼を示して、感謝と謝罪。していること、自体は、変わってはいないのだ。

「……、元気そうでよかったな。なんか騒ぎになったっていうのは結局なんともなかったんだろ?」
「お医者さん経由で聞いたけど、あの子も覚えてないみたい。……誘拐されてた時のことは、わからないけど……」
「まだ聞ける状況でもないしなあ」
「でも、よかった、……ほんとに、よかった」

 家路についた轟家の子供たちは口々に安堵と喜びの言葉を交わしながら――誰もが同じことを心に残していたが、それを言葉にすることはなかった。

 表面上、滞りなく状況は進んだ。
 目覚めた彼女は穏やかであり、目立った怪我や後遺症も見られない。脳波にも肉体にも異変は無く、ちょうど夏休みも終わりが近い。この状態なら問題なく学校に通えるね。医者が笑顔で言い、彼女は少しだけ苦く笑った。通う学校があればですけど、とは口にはされなかった。入院生活といえどテレビも新聞も制限はない。そしてニュースはオールマイト引退の一色だ。雄英高校へのバッシングも色濃い現状、ヴィランに攫われていた生徒の面倒を見る余裕などあるのだろうか。将来への投資であればまだしも、そういった意味では財産になりえない無個性である。第一そんな不祥事を起こした娘をエンデヴァーが放置するかというと、……放置するかもしれないな……実際これまでも失敗作で不良品だけど放置されてきたもんな……。答えにならない答えに迷い、しばらく保留とした。ひとまずは退院、先のことはそれから考えよう。そもそも学校のことだ、自分一人で答えが出るとも思えない。
 だから、この状況は、想定内と言えば想定内ではあるのだ。
 病室にやってきたネズミ一匹――スーツを着こなす雄英高校のトップを前に、首を傾げるのもそこそこに頭を下げた。

「やあ、こんにちは。元気そうだね」
「お越しくださるとは思いませんでした。こんな格好で失礼します」
「しっかり者だねえ君は。楽にしておくれ」

 ――確かこの人(と言っていいのだろうか)も重要人物のはずだ。一人で来ているはずがないよね。病室の外の気配に気を配ってみるものの、自分ではどうにも察知ができない。そんな態度に気付いているのか、根津は再び『楽にしておくれ』と繰り返した。

「早速本題に入ってしまうけれど、君の意志を確認したくて来たんだ。轟さん、君はまだ雄英に通う気があるかな?」
「……、」
「これはただのお見舞いであって記録も取っていないからね、気を遣わず話してくれていいよ」

 考えていたことだ。
 いつか来ると思っていた日だ。
 覚悟はしていたことだ。
 そう自分へ繰り返し、瞼の裏に映る数人――友人達、根気強く世話を焼いてくれた教師、好きだった場所を意識の外に追いやる。大事な場所はまた出来る、尊敬できる人もまだ居る、……彼らとは、彼とは、遠からず離れなきゃいけないと思っていた。いい機会だろう、むしろ。拳を強く握り、背筋を伸ばす。せめて、凛としていろ。

「……今の私の状況が、雄英として望ましいものではないとわかっています。ご迷惑をおかけしてしまうと思いますし、できれば他校へ転校する手続きを……」
「ちなみにこれは先日から始まったことなんだけど、雄英は全寮制になってね」
「と思ったんですけど私まだまだ雄英で学びたいことが沢山ありましてご迷惑かもしれませんが精進してまいりますのでどうか在籍を許していただけませんでしょうか」
「楽しい子だね君」

 いや前フリでしょ今の。絶対にそういうことになるってわかってたでしょ。
 私まだランチラッシュのお昼ごはん食べたい。全寮制って何それ家に帰らなくていいってことですよね最高じゃないですか。
 ネズミというより猫を思わせる身のこなしでベッド脇の椅子へやってきた根津は、その黒々とした瞳をへ向ける。は、今度は背筋を正さなかった。折り目正しい態度を取ることも重要だが、今は多少のリラックスを求められている。賢い子だね。囁かれる声が、どうしてか寂しげだ。

「――言い遅れたけど、このフロア全体は人払いをお願いしているよ。僕を除いて、誰にも聞かれる心配はしなくていい」
「……」

 この小さなネズミの身体で、生徒一人一人のことなど知りうるはずもない多忙な立場で。その台詞は、精いっぱいにを知り、気遣っていなければ出てこないものだ。少し笑って告げた感謝の言葉が柔らかく、自分でもわかるほど――感情そのままの音をしている。

「……できるだけ正直に、正確に、お話しすることをお約束いたします」
「ありがとう。僕もできるだけ開示すると約束しよう」

 その約束は、自分の不利に働くものかもしれないが。
 ――どちらにせよ、一度は決意した退学だ。転校の形が望ましいが、諦めはついている。再度諦めるにもそれほどの努力は必要ないだろう。

「……雄英は、息苦しいかい?」

 けれどその質問は、想像していたどんなものとも違っていた。



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2020.04.05