「…… は、」

 雄英は、息苦しいか。
 咄嗟に否定しようとする自分が、『正直に』というハードルに阻まれる。学校は決して嫌な場所ではない。生徒達は血気盛んなのが多い印象は受けるものの弱者に優しい者が多い。冷やかしや陰口は完全には無くなってはいないが、中学以前と比べたら無いようなものだ。先生方も基本的には教えるのが上手いし常に冷静さをもって接してくれている――何度も世話になっていた、最近も病院まで来てくれるリカバリーガールのように。正しくて尊敬できる人達だ。
 だけど、だけど。

「――……」

 喉元に手を当てる。嘘は吐けない。
 雄英は息苦しいか? 彼らの傍は? 目を閉じて最初に思い浮かぶのは隣席の男の子だ。同級生たちのことは好きだ。誰も明るくて優しい。辛抱強くもある。心操くん。面倒ごとしか起こさない私と、それでも友達を続けようとしてくれている。本人よりも心配して怒ってくれる、それを一時押し留めようとする冷静さもある。変に不器用で、偽悪的なところがあって、思いやりに満ちている。
 雄英が悪いんじゃない、先生方も生徒みんなも、悪くなんかない。……誰かが悪いとすれば、それは私だ。彼らの正しさに勝手に灼かれているような気になっているだけだ。

「……私が……私の、責任なんです」

 首を掴む指先に、ぐっと力が入った。

「誰も悪くない、私が、――私だけが、軽薄で、矮小で。ヒーローのこともその周辺のことも、……愛せないのに、よりによって雄英に来たりしたから」
「……」
「皆のことをすごいと、好ましいと思うけど……私は、同じように、なれなくて。思えなくて。勝手に苦しくなってるんです」

 私はつまらない人間だから。そんなことはわかっている。
 将来の夢を訊ねられて、冗談でしか返せない人間だ。真剣に答えようとすれば沈黙でしか返せない。目標も、そのために積み重ねている努力も、とくに無い。そんな奴いくらだって居るでしょうなんて開き直りが更に良くない。――雄英でさえなければ、あまり考えずにいられたのかもしれない。
 別にヒーローを首題としていなくたってそうだ。何か志すもの、目指すもの、欲してやまないものがあれば違ったのかもしれないが。ぽつぽつと、まとまりのない断片のようなことをしばらく呟き、それも尽きたころ、無言のまま聞いてくれていた根津校長は頷いていた頭を左右に揺らした。

「なるほど、君は、欲しいものが欲しいんだね」
「……」

 そうかもしれない。やりたいことが欲しい、目標が欲しい、目指すものが欲しい――そうでないと、彼らの傍にいる権利なんて無いと思っている。
 ……だからかもしれない。だから、彼らと行けなかったのかもしれない。死柄木さん。トガちゃん。荼毘さん。黒霧さん。私には、情熱が、ない。たったひとつの想いだって、亡霊を繋ぎ止めているようなものだ。

「……すみません。自分が雄英にふさわしい人間でないことは、わかっているんです」
「何言ってるんだい、ちょっとレアケースなだけだよ。それも雄英ではの話で、世間一般としてはそうでもないだろう」

 椅子からサイドチェストに移動した根津校長と、先程より視線の高さが近くなる。

「夢なんかじゃなくもっと近くを見よう。口にするのに抵抗のない望みから」
「……つまり?」
「自分の小さな願いに耳を傾けてごらん。水が飲みたい、太陽の光を浴びたい、甘いものが欲しい、知らない土地に行きたい、友達と遊びたい、なんかからね。小さな願いをかなえていかないと、大きな願いも出てこないものだから」
「…………」

 水を飲みたい。
 光を、風を浴びたい。
 歌を、歌いたい。
 ぐ、と喉の奥に力を込める。

「……高い ところに、行きたいです」
「それは、どんな?」
「……吹きさらしみたいな……風の音しか聞こえないような、ところに」

 言いながら、思い描いているのは一抱えほどの惑星に住む少年の姿だった。薔薇と出会って、薔薇と別れる、たった一人の王子様。
 片腕の、おそらくは時計だろうものに視線を落とした根津校長が、顔を上げて笑う。『かなえよう』。

「時間制限ありだけどね。おいで」
「え、あ、あの」
「あとね、愛着を持つ方法を教えてあげよう。いい思い出、リラックスできる場所や瞬間を持つことさ。そしてそれらを意図的に作ることは可能なんだ」

 外で待ってるからね、着替えるといい。
 その声に励まされるようにベッドを降りる。筋肉の落ちた気のする両足は、しかし時間をかければ問題なく歩けるようにはなった。

 導かれたのは見慣れた雄英高校の校舎で、やあ休み中で助かったよ、なんて言いながら先導される。気を使われているのか偶然か、警備の人ともすれ違わない。
 ――ずいぶん久しぶりに見る気がする校舎は、やはりとんでもなく大きい。異形型の個性持ちや大柄な生徒や先生に配慮した結果か、ドア一つ取っても天井まで届くサイズだ。必然的にフロア全体の背が高く、このあたりでは建物では標高も一番だ。

「さて、この先の梯子を登ればてっぺんだよ。太陽光パネル並んでるから気を付けてね」
「校長先生…… その、」

 いいんでしょうか―― と、口にしそうになって唇を噛む。基本的には、いいはずがない。完全に業者用の出入り口、生徒の立ち入りは禁止だろう。そうでなくともヴィランの疑いのある女を、一人にするという選択。雄英高校はセキュリティは厳重だが、逆に言えばここを破られては大きな痛手だ。侵入を許してしまった前例もある、今は特にバッシングの最中でもある。……それらを承知の上で、一生徒の願いをかなえようとしている。いいのか、なんて確認するのは無意味だし侮辱だ。でも。
 黙ってしまった様子、その表情から根津は何を察したのか、やれやれと言いたげに首を振った。

「エンデヴァーの教育を、褒めるべきなのかな」
「……」
「だけどなんだかね――見習う気には、なれないよ」
「…………」
「さ、行っておいで。時間は有限だよ」
「…… はい、ありがとうございます」

 重い鉄の扉をくぐると、気圧の違いにぶわっと髪が舞い上がった。風らしきものを感じたのはその一瞬だけだ。真夏の太陽が容赦なく降り注ぐものの、予想していたほどは暑くない。掴んだ梯子は白い塗装のためか同様で、そっと安堵の息を吐いてそれを登り始める。
 かん、かん、と金属の鳴る音がする。他に何も届かない。誰の気配もしない、誰の声も聞こえない。ふと以前、誰かに病院が嫌いだと告げたことを思い出す。病院は嫌いだ、どうしてもあの人を連想してしまう。檻付きの病室で虚ろな顔の、真っ白い人。逃げるように目を逸らし続ける人。
 てっぺん、と呼べる場所には、何もなかった。
 そりゃそうだ。無数に並ぶ太陽光パネルが眩しくはないのを意外に感じながら、先端の方まで歩く。校門が遥か下方に見え、容易く乗り越えられそう、というか足を滑らせたらその勢いで飛び越えてしまいそうな段差に足を乗せ、また三十センチほど高さを稼ぐ。今まで少しも感じなかった風が、全身を撫でていったように思った。

「――」

 なんとなく、その場に座った。足の裏にはもう何もない。なにか間違ったら痛いと思う間もないだろう。死なないようにしなくちゃな、校長先生に悪いから。目を閉じて、息を吐いた。呼吸が通る。そのままじっとしていると、自分の鼓動が感じ取れた。全身に血を送るポンプが動いている。……生きている。
 目を開ける。空が青く澄んでいる。何度、こんな青を背景に、あの人が跳ぶのを見ただろうか。

「……先生」

 声に出して呼ぶ。先生。サイタマ先生。
 誰の声も聞こえない、誰の気配も感じられない、ここなら誰にも聞こえない。
 絶対に実らないけど、もう伝えることもできないけれど、わかってて言うくらいは。承知の上で言葉にして、音にするくらいは、許されるはずだろう。
 一番高いところで。空に少しでも近い場所で。環境はだいぶ違うはずなのに、空の色は変わらない。……そんな恋の歌が、いつかどこかに、あったはずだ。

「――……」

 恐れるように息を吸って、襤褸の端を引くようにそっと、喉に任せて音を出す。
 私の脳が覚えていなくても、舌が、喉が、胸が、憶えてくれている。この想いを、消化する、昇華する方法を、他に知らない。好きです、先生、あなたを好きです、あなたへの恋でできた命だ、そのためだけに紡いだ魂だ、それだけじゃもう駄目なんだって知ってるんです。先生。

 息が切れ、止まった舌が怠く疲れて口の中に横たわるまで続き、それから、少しだけ泣いた。
 離れていったか、飲み込んだのか。少し前までとは違った状況にあるのが解る。涙の跡が乾くまで更に少しだけそこで時間を過ごして、……そういえば時間制限ありだって言われてたのに指定されなかったな、と気付いたのは、梯子を下りている最中だ。
 ひとりぼっちの時間を過ごして、ようやくわかることがある。一段一段、降りていく。重い扉を開くとまた一瞬だけの突風があり、まさかそこにずっといたわけではないだろうけれど、校長先生が立っていた。

「やあ、おかえり」
「……ただいま戻りました。ありがとうございます」
「いや。僕にできることがあってよかった。……すまないけど、病院へ戻ろうか。まだ入院中なんだろう」
「はい」

 そうして相変わらず人の気配のない廊下を歩く。心なしか足が軽い。肉体的には、たぶん入院の必要は無いのだろう。日差しのたっぷり入る廊下が綺麗で、非現実的で、泣いた後だからか視界が真新しい。

「次にやりたいことは思いついたかい?」
「……心操くんに、謝りたいです。喧嘩したままなので」

 自然とそんなことを口にしていた。
 人の気配がなく静まり返った廊下、保健室、洗脳の個性。怒りを隠そうともしない声に、解っていて返事をした日を連想していた。彼は怒ってくれていた――悲しんでくれていた。

「完全に私が悪いんです。だけど、……どう考えたって私の言ってることの方が正論だから、……そう、思っていたから、ずっと謝ることができなくて」
「今はできるのかい?」
「……。今でも、私が悪いけど、私の言ったことは間違っていないと思ってます。けど」

 でも。
 その先をどう言っていいのか解らない。『時間制限』は未だ来てはいないのか、根津が先を促す気配はない。自分で、先を紡がなくちゃいけない。
 ――心操くんこそ、私に構ってる暇じゃないでしょう。ヒーローになるんでしょう。エンデヴァーの娘ったってほとんど認識されてない、むしろ汚点な無個性の娘と付き合ったってメリットなんか無い。こんなモブザコに時間を取られてる場合じゃないんだ。夢を叶えたいんだったら、目標があるんだったら。
 ひどいことを言った自覚はある。怒らせた意味も解る。言ってること自体は間違ってないだろうと今も思う。だけど、あれは、『彼のために』言ったことでは、ないのだろう。

「……どのみち高校の間だけの付き合いだと思ってたんです。だけど心操くん、思ったよりずっと面倒見がよくて、付き合いがよくて」

 長くて三年、短くて一年と少し。心操くんがヒーロー科に移籍するのと同時に途絶える縁だと。それからはお互い別々の道を行って、たまにテレビか何かで彼の活躍を見守れたらいいと、……自分の都合の話だ。気遣っているつもりで、怖かっただけだ。
 今も怖い。いつか私が彼の足を引っ張ることが怖い。私が愛した、絶対に手放すことのできない『無個性』が、彼を害する日が来るのかもしれない。

「私に――『私』に、そんなふうに接する人がいるなんて、思ったことがなくて」

 親や家族があれだ。赤の他人に対し、それ以上は望めないだろうと思っていた。実際、中学以前の友人達とは一人も連絡を取っていない。皆そうなんだろうと思っていた。それでいいと思っていた。内心どう思われていようと実害が無ければ別にいい。その場だけ平和に楽しく過ごせれば、他は望むべきじゃない。
 でも、今、謝りたい。謝って――まだ続けたい、終わらせたくない。できればこの三年間を過ぎた先でも。

「……何度も、助けてくれたんです、手を伸ばしてくれたんです、それを…… 私からも、手を伸ばしたい」

 応援させてくれ。愚痴を聞くぐらいできる。少し休んでまた頑張るための場所になりたい、その立場を許してほしい。移籍した時に、ヒーローになった時に、夢を叶えた時に、おめでとうって言わせてくれ。

「将来、ヒーローになるだろう子と、ずっと友達でいられる方法ってありますか、ね。……無個性の私が、ヒーローの友達でいても、足手まといにならない方法は」
「……。そうか。君は、優しい子なんだね」

 その言葉に首を振る。どう考えても『優しさ』由来の感情ではない。受けた恩を返したいようなものだ。彼を助ける一部になりたいだけだ。それで、互いが互いに支えになれれば一番いい。

「そうだね、一つずつクリアしていこう」
「……できますかね」
「まとめてるから大問題に見えるだけさ! 分解していけばなんということもない。たとえばスポーツ選手がトレーニーや管理栄養士と親しくしていても不自然ではないだろう? プロヒーローの傍にいて不自然でない立場を手に入れよう。そう考えると君の悩みはむしろ強みになる」
「……いいんですか、そんな不純な動機で」
「いいに決まってるじゃないか。僕だってケージの中にいたころはこうして高校生の悩みを聞くようになるなんて思わなかったさ」

 歩き出した校長先生につられて校舎を出て、車の中に戻される。後部座席は壁で区切られていて、運転席の様子は見えない。その間にも、根津はむしろ楽しそうな様子で言葉を次いだ。

「だけど今、君に助言をしてやれる知識や立場があってよかったと思うよ」
「……」
「始めてから大事になることなんて幾らでもあるさ! 君と心操くんだって、始めから親友だったわけじゃないだろう?」
「……はい」

 親友、というと、若干の語弊があるような気はするけれど、強くは否定しない。のは、たぶん『面倒だから』ってわけでは、ない。
 ……ちゃんと『友達』をやる。前にも思ったはずのことが、以前よりずっと重く、覚悟を伴って迫ってくる。軽んじすぎていたのかもしれない。自分と、彼を。
 心操くんの傍にいられる自分になれたら、恥ずかしくないと思えたら、ずっと持っていた疚しさのようなものは薄まってくれるだろうか。自分を、認めてやれるだろうか。差し出される気遣いを、素直に受け取って、喜ぶことができるだろうか。

「何よりもまず自分が認めてやらなくちゃならない」
「……」
「ひとに褒められて、それを素直に受け取れないのは自分が認めていないからさ。頑張った、と胸を張って言うには実際に頑張らなくちゃいけない。結果を出そう、轟さん」
「……はい」

 素直に、そう返すことができた。なんとなく、根津校長は『ヒーローの未来を担う一人』ではなく『教育者』として話してくれているように思った。
 ヒーローもヴィランも面倒くさい、愛せない、彼らの言い分を聞いてみても違和感を抱いてしまって仕方がない。それを解き明かしてもらったような気がした。
 必要なのは圧倒的な救済ではなく、絶望でもなく。まともな大人が持っている、優しさやロジックだったのかもしれない。

「しかし君の決意は美しいけれど、相手のいることだ。心操くんと話してみてもいいんじゃないかな。もしかしたら彼は彼で考えがあるかもしれないし、二人の意思疎通がかなって初めて見えるものもあるよ」
「……はい」
「あと雄英高校はセキュリティそれなりに堅牢だしヒーローとの関わりも多いし就職先として検討してもいいと思うよ!」
(監視要請されてんのかな)
「なくはないね!」
(心を読まれた)
「君相手にはそういうごまかしをしない方がいい気がしてね! 裏はあるけど表もある。表でも裏でも一枚のコインなのさ。君はおそらくそういことを自然に受け入れられる子だ」

 意外と稀有な性質だよ、大切にしてほしいね。
 するすると滑るように走る車が、病院の前につけられる。礼を述べて車を降りると、続いて降りようとした校長先生は軽く首を傾げたのち笑顔で『僕はここで失礼しようかな』と言った。

「じゃあね若人! 考えておいておくれ!」
「……あの、ありがとうございました。本当に」
「どういたしまして。また一人になりたくなったら提供するよ」

 その言葉に顔を上げるのと同時、また滑るように車が去っていく。
 ――なんか、色々、バレてんだなあ。ふっと吐いた溜息に、笑みの色が混ざっている。ひとりで高いところに立って、自分の意思で降りてきて。そうして初めて、わかるものもある。受け入れられるものもある。

(……『轟』のこれから、か)

 覚悟を決めて向き合わなきゃならない。それこそ、もう一回、生まれるような気持ちで。

(死ぬ準備はできてたけど、生きる準備はしたことなかったな、そういえば)

 少し笑って、病室に戻るべく振り返る。おそらく半分くらいは時間稼ぎであろう検査入院だ。警察、ヒーロー達、学校側、轟家、その他諸々が『轟』の行方を決めかねているであろう現状に、もう少し付き合ってやらなくちゃならない。その間に、自分も少し考えよう。……まずは、ヒーローと友達でいても不自然ではない未来についてだ。



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2020.04.07