たぶん座り心地はいいのだろうが、それを堪能する余裕はない。
なぜか助手席に座らされ、広いフロント越しの景色を眺める。仕事の一環なのだろう、轟家のものではなくてエンデヴァー事務所の車のようだ。とはいえ轟家の車がどんなものだったか、あまり覚えてはいないのだけれど。
それなりに広い車内のはずだが、それでも運転席と助手席の距離感だと炎の熱気が肌に触れる。たまに消えていることも見かけるので、おそらくは出し入れ可能。だけど意図して灯したままの『個性』の炎。……夏だからだろうか、エアコンのきいた車内であっても日光は遮れないからだろうか。その熱が、一層、鬱陶しい。
――がね、お父さんのこと、お父さんって呼ばなくなったの知ってるよ。
ちょうどそんな話をしていたから、少し意識してしまう。
……轟家の子供たちで一番『子供』の資格がなさそうな私が、彼をお父さんと呼び続けていたのは、別に意地でも愛情でも、ましてや嫌がらせでもない。彼が私の父親であることは確かなのでそう呼んでいただけだ。焦凍のように『クソ親父』でも良かったのだけれど、言葉を美しく使おうとした結果『お父さん』が一番ふさわしかっただけだ。前世の影響か周囲に女子より男子が多い影響か、ふとした瞬間に言葉遣いが荒くなる自覚はある。せめて意識できる範囲では意識しておこうと思っている。
そして今、私が彼をそう呼べない理由は、……単純に、そう思っていないだけなのだ。
(……お父さん)
その呼び名に繋がるのは、どうしても別の人だ。『三度目』の父親。思えばあの世界でも血は繋がっていなかった。だけどそれが何の問題だろう。私はあの人を心から父親としていたし、あの人も私を娘として扱った。全身全霊で守ろうとしてくれていた。ひとかけらの誇張もなく、私はお父さんのおかげで生きていた。
そっけなくて優しいコットンニットの肌触り。少し女性的で端正な顔立ちが、やわらかく微笑むさま。倫理を投げ捨てて好きなことだけやってきたという人。――お父さん、知らないでしょう、その『好きなことだけやってきた』が、どれだけ私を救ったか。心から望まれて生きた事実が、今この瞬間までも、どれだけ私を支えてくれているか。
(……伝えておけばよかった……もっと、言いたいことが、たくさんあった……)
いつも手遅れになってから思うことばかりだ。お父さん、十兄、ゴリ兄。精いっぱいをやったと信じているけれど、それでもまだ、まだ何かできたんじゃないかと――伝えるべきことがあったんじゃないかと、思うことはきっと消えない。視界が少し滲むのを感じて強く目を閉じる。
「病院で」
――隣から聞こえた声に、目を開ける。顔を向ける。運転をしているその人、今世での父親は、前だけを向いていた。これが、このひとの性質なのだろう。
「個性が、出たのかと」
「違いましたね」
なんとなく雲行きが怪しかったので被せるように言う。私も前を向いて、意図して彼を視界から外した。
私に個性を入れようとした、と、ヴィランの黒幕は言った。その全部が弾かれた、と。頑固なほどの『無個性』は、たぶん前世の死に際で私が願ったからだ。今も、願っているからだ。私は私の『無個性』を愛している。アイデンティティを見出している。
「違ってよかった」
「…… なに?」
意外だったのかもしれない。訝しむような声がした。信号青ですよ、と促し、車を前進させる。
……もしも私に『個性』があったらどうなっていたのだろうかと、今世では数えきれないほど考えたけれど。
どうなっていただろうか。その問いを、久方ぶりに思い浮かべる。個性があったら。生まれ持っていたら、四歳で発現していたら、ではない。先日までの入院で個性が発現していたら、だ。
このひとは喜んだのだろうか。母は正気にかえったのだろうか。私の顔をまともに見て、まともに接してくれたのだろうか。
「違って、よかったです」
どうでもいいわ。
申し訳ないが、あなたがたご夫婦を満足させるために『無個性』を手放すなんて冗談じゃない。
「個性が出たとたんにこれだったら、私はあなたを軽蔑しなければならなかった」
後部座席の荷物を見やる。運転席にエンデヴァー、助手席にヴィラン疑惑のある娘、サイドキックはおらず監視カメラの類も備え付けのドライブレコーダーしか見当たらない。監視かと尋ねたところ彼は是と答えたけれど、実際は半々ってところだろう。残る半分が確認なのか、親心なのか、別の何かなのかは知らないが。
個性が出たとたんに寮まで送ろうなんて話になったら、私は今世での父親を軽蔑しながら生きなきゃいけない。今まで存在すら無視してたくせに個性がちょっと使えそうになったらそれかよ、と思わなきゃいけない。――かといって、個性が出たにも関わらず無視のままだったら、それはそれで自己肯定感を削られていたのかもしれない。考えるだけで億劫だ。そのあたりの揺らぎが発生しないでくれてよかった。
「個性なんて要りません。虚しいだけだ、今更。個性が発現して、あなたがたが変わっても、変わらなくても、軽蔑してしまっていたでしょう。……憎悪は、それを抱き続けている人間を一番大きく削っていきます。あなたがたを憎まずに済んで本当に良かった」
ずいぶん前から、雄英の敷地は見えてきていた。車が極端にスピードを落としていただけだ。
しばらくの沈黙があり、これ以上は待つ必要もなさそうなのでシートベルトを外す。途端、ピコンと警告音が鳴り始める。
「ここで大丈夫です。降りますね」
ドアを開け車を降り、後部座席からトランクと紙袋を下ろす。下手をするとトランクより重い紙袋に思わず苦笑していると、運転席を降りた人がそれを取り上げようとした。おそらく善意なのだろうが、手で制する。結構です。そんな義理はない。
「荷物は自分で運びます、送っていただいてありがとうございました」
「お前、は」
「……」
頭を下げ、立ち去るつもりだったのだけれど。
言葉に迷っているのか合わない視線のまま――ふとそれが、焦凍とダブって見えた――更に顔を逸らしてしまう。
「お前は俺を、恨んではいないのか」
「…………」
意外だな、というのが感想である。そういうこと気にする人だとは思わなかった。それとも最近になって何か変化があったのだろうか。ちょっとしたきっかけで人は変わる。同じくらい、人はなかなか変われないというのも事実である。
ていうか何て答えたらいいんだろう、恨んでるつもりはないけど自覚なくそういう部分はあるのかもしれないし、無かったとしてもお互いの定義が違う気がする。すり合わせを、する必要があるのかもしれないけれど、…………やだなあ……。恨んでませんよって言っておけばいいのかもしれないけど、それも嫌な予感がする。
「……それは、即答するには難しい質問です」
特技はお茶を濁すことです。
検討します善処します答えは全部イイエです、なんてつもりはないけれど保留ったら保留。トランクを転がして進む、それを呼び止められも追いかけられもしないのでひとまずはこれでいいだろう。ここを流したら、彼が同じ質問をする機会はそうそう訪れないだろう。承知の上で流されてくれるならそれでいいということだ。私もそれでいい。なんでもかんでも答えを出さなきゃいけないわけじゃない。
(にしても無駄に疲れた、厄日かな)
お姉ちゃんが連絡したってことは無いだろうけど、あまりにもタイミングが良すぎた。退院日は知ってただろうしもしかして待たれてたんだろうか怖い。いや偶然ってことにしておこう……それはそれで運が悪いけど偶然ってことにしておこう。
「――……」
ゴロゴロという車輪の音に紛れるほどの音量で、小さく歌う。
一度思いっきり歌ったからだろうか、少しずつ歌えるようになってきている気がする。ほとんど本能頼りに歌っているけれど、こっちの世界の音楽も聴きたい。神話なんかはダブっていることもあるようだし、もしかしたらここは前世とどこかで分岐した世界線なのかもしれない。同じ歌が、あったりするかな。似た歌はあるかもしれない。全く別の歌があるのは確実だ。そう思って、少し心が浮き立つのがわかる。セイレーンなんて名付けられて正直言って戸惑いしかなかったけれど、そしてあまり自覚はなかったけれど、歌うのが好きみたいだ。そういえばお父さんはずいぶん大げさに褒めてくれてたよなあ、ちょっと勉強してみようかな。――いや、前世みたいになっても困るな……。今世でも幼少期にやっちゃって若干トラウマなんだよねえ。でも今は特に、人に聴いてほしいとか誰かと一緒に歌いたいとかは無い……自分ひとりで楽しめればいいかな……
とりとめもなく口ずさむ歌が、気を楽にしてくれているのがわかる。何かあって更に怪しまれるのもよくないし、やっぱりちょっと隠していくか。夏休み中とはいえ全寮制が開始して、経緯が経緯なので生徒達にはできるだけ早く移動するよう話でもあったのだろう、少しずつ人の気配が増えていく。みんな居るかな、心配かけてごめんねって言おう、それからせっかくの寮生活開始だしパーティー的なことをしたいな。心操くんはもう居るのかな、……心操くんについてはちょっと考えないでおこう。
(さて、正真正銘、新生活だ……!)
「!!!」
「厄日か」
この父子、出現するタイミングが似すぎている。
駆けてくる焦凍、その背後になぜか女の子も駆けてきていた。
「姉さんから連絡あった。荷物これか、運ぶ。他にないか」
「いや、ていうか、……友達?」
うしろ、と指さして初めて彼女の存在に気付いたらしい。じろう、と呟いた。じろう? 次郎? ……名前?
彼女はどうしてかビクッと立ち尽くして、視線を彷徨わせつつ『いや』『べつに』ともごもご言っていた。えっこれ、もしかして、告白か何かでは? 私の存在にショックを受けてしまっているのでは? 見知らぬ女子に駆け寄り親しげに名前を呼ぶ片想い相手というシチュエーションになってしまっているのでは?
おい誤解されてんぞ、と焦凍にアイコンタクトを送ってみるも、照れたように微笑み返される。ちっげえよ! 反応が違えよ! 彼女に向けろその笑顔は!!
「えっと、……はじめまして、轟っていいます」
「! え、轟……?」
「そう、弟がいつもお世話になってます! ヒーロー科の人だよね?」
焦凍が私のこと隠してるかもとか知るか。恋する乙女が第一だ。
彼女はその白い頬にぽっと赤をのぼらせて、そっか、と小さく呟いたようだった。轟、さん。そっか。そう囁くような声に、安堵が滲み出ている。
「あ、あの、ウチ――じゃなくて私、は、耳郎響香っていうんだけど、轟――くんとは、その」
「同じクラスなんでしょ? 体育祭で見たし他でも見たし知ってるよ。かっこよかった」
「っ」
照れ屋さんなのか、ぽぽ、と頬が赤くなる様子が可愛らしい。
ヒーロー科の女子みんな可愛いなと思ってたけど本当に可愛いな……。
「……で、なんか用か、耳郎」
おいてめえこの雰囲気で何をほざいている。思わず脇に肘打ちを入れたが、焦凍は『お』と体の芯を一瞬ぶらせただけで特にダメージは通らなかった。むしろちょっと嬉しそうに見下ろしてくる。なんなんだ。
「いや、べつに! なんでも! ……じゃあ、ね、轟さん。またね」
「うん」
やっぱり何か言おうとしていたのだろうけれど、ちらっと視線だけ寄越して去っていく。クールそうな外見に反して可愛い子だった。響香ちゃんかぁ。耳郎さん、の方がいいのかな。微笑ましく彼女の背中を見送っていると、手にしていた荷物が勝手にゴロゴロと転がっていく。
「ちょっ、と、いいよ別に、自分で持てる」
「やらせてくれ」
「……寮ってクラス毎なんでしょ? 他のクラスの生徒が入っていいかわからないし、」
「一応許可もらってある」
(いらんことしやがって……)
「荷物これだけなのか?」
「……うん、ありがとう……」
やっぱり厄日だったらしい。
私より慣れている様子で、できたばかりの寮が立ち並ぶ中を歩いていく。このあたりが自転車とか置くスペースで、あっちに行くと自販機が近い。校舎はあの道から行くと早い。時折ある敷地図を示して見せながら歩く、その隣を頷きながら一緒に行く。
がさがさ、紙袋が音を立てるのを聞きながら、こんなふうに並んで歩くのはいつぶりだろうと―― 夏休み前に焦凍がやたらベッタリしてきた時期以来だな、と気付いて感傷に浸る間もなく終わった。器用なんだか不器用なんだか、知らないうちに両極端な男に育っていたものだと思う。私はそんな一気に振り切れるタイプでないので申し訳ないけど戸惑うし疲れる。
(嫌いでは、ないんだけどな……)
嫌いではない、多分。思い入れもある。ただまあ、体育祭以前までは焦凍のことをなんとなく解っているつもりでいた。何か言っても言わなくても、態度と顔から現状を読み取ることができていた。それらは全部、ただの思い込みだったんじゃないかと気付いてからは、何一つとしてわからない。こいつが今、どうして私に関わってくるのか。大事なものを包むみたいに触れようとしてくるのか。
「、手貸せ。段差あるから」
「……ありがとう」
名前を呼ぶその声の柔らかさも。表情筋が仕事をするようになったのか、それとも感情が仕事をするようになったのだろうか、豊かに笑うようになったその顔も。それらが、自分へ向けられることの不可解さも。わからないままだ。
冷静になって考えよう。
轟として生きることを受け入れる、ということは、当然ながら轟を取り巻く環境を見つめなおすということでもある。受け入れ、あるいは拒否して、私は私の世界を構築していかなければならない。これまで無視もしくは受け流してきたことをひとつずつ拾い上げ、見つめ、引き続き無視や受け流すのでもいいからとりあえず一回は認識しなければならない。
ハードモードかよ。
「……本当に、何もねえな」
けっきょく寮まで、ついでに部屋まで焦凍を通して荷物を床に置いてもらう。郵送してもらった段ボール類が部屋にあると思っていたのだろう、ベッドさえ存在しない部屋に少し戸惑っているようだった。
「これから買いに行こうと思って。一から揃えるのも楽しそうでしょ?」
ある程度の家具は揃えてくれるとのことでカタログが送られていたけれど、実際に見て選びたかったので結局なにも頼まなかった。ここで買っておけば私物になるので卒業後に持って行けるな、という欲が働いたのもある。がらんどうの部屋の中に決して大きくはないトランクと、山盛りのタッパーがのぞいている紙袋。私の荷物は、本当にそれだけだ。
「……、これ、中身は」
「下着とかなので男子は開けないでくださーい」
軽い口調で、しっかり拒否して部屋の端に置く。端正な顔が少し寂しげに皺を寄せた。母によく似た、冷たげで整った顔は、表情だけ幼いままだ。その事実に、思うところがないわけでもない、が。
「さて、私はこれ冷蔵庫に入れたら出かけるから。焦凍もここまででいいよ、ありがとうね」
とん、と肩を押して、帰れと言外に告げる。そうしながら――私はなにがしたいんだろうなと思った。
私は何がしたいんだろうな。歩み寄ろうとしてくれている弟を追い出そうとして、何か言いたそうな顔に気付かないふりをして。やたらと構ってくる態度を、いつ終わるのかと観察している。いつ諦めるだろうかと眺めている。まるでそれを待ちわびているみたいに。仲良くしたくない、っていわけでは、ないはずなのに。
この子を、拒絶したいわけではないはずなのに。
「――、」
ぐ、と引き結ばれた唇が見える。出て行け、と云われているのはわかってるはずだ。
紙袋を持ち上げ、焦凍を通り過ぎ――部屋を出て、戻ってきたときにはきっと焦凍はいなくなっているだろう。そう思ったけれど、ドアに手をかけるより先に背後でドスンと音がした。
「…… 焦凍?」
「…………」
「なに、どうした、……何してんの」
その場に座り込んだ焦凍を、膝立ちになって覗き込む。まさか体調を崩したとかいうわけじゃないだろう。案の定、しっかり正気を保った顔で見つめ返してきた焦凍が、私の空いている片手を掴んだ。
「焦凍?」
「……ちゃんと……ちゃんと、話したい。あの日のこと、お前と、全部」
(どの日だろう……)
ヴィラン連合のことか、キレ芸の子との云々だろうか、……まさか死柄木さん関係の色々が知られてるってこともないだろう。
「お前が、いなくなった日のこと」
「……謝ったこと?」
学校をサボった結果、ヴィラン連合に誘拐された日だ。喧嘩、と言っていいかどうかわからないことをした。
誰の、何に対するアピールなんだよ。いまさら私に関わって何がしたいんだよ。これまでの態度と全然見合ってないんだよ。そんなようなことを言った覚えがある。辛そうに目を細めた焦凍が、ひとつ頷く。。重ねるように呼ぶ名前が、まるで縋るような音をしている。
「……そもそもお前が謝るようなことじゃねえんだ」
(じゃあなんだろう……)
「お前の、不満を、……俺に言おうとしたこと、言いたかったこと、たぶんもっと、ちゃんと、あるんだろ」
「…………」
――無理に関わってこなくていい。
――困る。
痛む頭で、気持ち悪さに耐えながらそう言った。あのとき本当は、何を感じて何を不満に思っていたんだろう。こいつは包み隠すってことができないタイプだ。この弟が本心から、そうしていることはきっと知っていた。だからこそ気持ち悪かった。 どうして? 考えなくもなかった疑問。考えないようにしていた疑問。
「お前が、本当は、何を言いたかったのか、聞きたい」
「……聞いてどうすんの。少なくとも気分のいい話じゃないと思うけど」
「気分いいことじゃなくたっていい。聞いて、……ちゃんと理解して、説明とか言い訳とかして、謝りたい。お前と、ちゃんと、話し合いたい」
「…………」
まっすぐに前を見据える瞳。
腕を掴む手は、私より体温が高いのか、意外なほど熱い。
「……」
力を入れるのをこらえているように、指先がたまに引きつる手を離させる。紙袋を片手に立ち上がると、、と追うような声がした。
「寮の冷蔵庫借りて、これ入れてくる。ついでに何か飲むもの貰ってくる」
「! ……」
ぱっと顔色を明るくしてこくこく頷く焦凍に小さく笑って、部屋を出る。ああいうところは、あまり変わらないみたいだ。それとも戻ったのかな、――緑谷くんのおかげで。
そういえば緑谷くんはもう寮に入ってるのかな、助けてもらってから会ってないしお礼くらい言いたいなあ。一応あのキレ芸の子と、あと緑谷くんの他にも誰かいたような気がするんだけど。……そのメンバーだとヒーロー科なのかな。ぼんやり思いながら寮の中を歩く。
焦凍と話、か。溜息しか出ない。
(厄日だなマジで……ハードモードだな……)
「あー轟! 遅かったじゃーん! 何それ?」
「お姉ちゃんが食料持たせてくれたー」
「量すごくない? 轟んち仲良くていいよねー」
リビング、と呼んでよさそうな場所に入った途端、クラスメイトが声を上げる。誰かの言葉に、苦笑を返す。体育祭、焦凍の活躍に叫んでみせたエンデヴァーと、私が家族の話をするときはだいたい姉のことばかり話している。客観的に見れば、双子はちょっと距離があるものの高校生にもなった男女のきょうだいならそんなもんだよね、という認識なのだろう。冷蔵庫にタッパーを詰めていると女子の一人が寄ってきた。
「ねーねー今から買い物行くんだけど轟もどう?」
「買い物って?」
「服とー家具とーなんか生活用品?」
「ああー」
私も足りていない部分だ。今日中に済ませなければ、カーテンもない部屋で寝ることになってしまう。ていうか今思い出したけど布団すら無い。
ここで『じゃあ行こうかな』と言うこともできる。たぶん焦凍はおとなしく部屋で待っているだろうが一晩中ではないだろう。さすがにこの状況ですっぽかせば、これ以降くっついてくることは無いと思う。そうやって縁を切るのも不可能ではない。
「……いや」
でも。
「今日はだめなんだ。また今度」
――気分いいことじゃなくたっていい。
言い切った弟の顔を、久しぶりに正面から見た気がした。まっすぐに相手を見ることをやめていたのは、きっと焦凍だけではないのだ。私だって、きっと、ずっと。あの子の声を聞かずにいた。
「なんかあんの?」
「……厄払い的な」
「なにそれ」
厄日を厄日じゃなくするために、今も部屋で待っている存在を厄から弟に戻すために。
痛いだろうが、苦しいだろうが、恥ずかしいだろうが。結論は出ないかもしれない、前進のつもりで待っているのは後退かもしれない。すりあわせの作業は、互いのどうしようもない差異だけを明らかにして終わるのかもしれない。それでも、もう無視してはいられないのだろう。
「正直言ってちょっと気は重いんだけどね、やらなきゃならない課題があって」
「あ、夏休み前しばらく学校サボってたもんね!」
「サボってたわけではない!!」
誘拐されたの知られてないのはいいけどこれはこれで弊害だな!
強めに言い返すも彼女はからっと笑って、『授業はサボってたじゃん』と返ってきた。たしかにサボってたな、寝オチはサボりに含まれます……。
「新学期は真面目に来てよね、みんな結構マジで心配してたんだから」
「それは……反省してます」
「ならいいけど!」
そう言って笑うから、退学しようとしていたことにちょっとした罪悪感を覚える。
心配、してくれたんだろう。実際に。心操くんも――彼女達も。笑い返すと、聞いていたらしい数人も『じゃーねー轟!』『課題がんばってねー私達は買い物と映画行くけど!』と椅子を立った。ぐぬう。
「轟!」
「?」
「夜パーティーしようね! C組全員揃ったパーティー!」
「…… うん!」
手を振る。彼女達も手を振って、騒がしく寮を出て行く。
外に出てなおきゃあきゃあ笑いあっている様子を窓から眺め、なんだか勇気をもらったような気分で深呼吸をひとつした。いい結果でも、悪い結果でも、今夜はきっと楽しくなる。その確信が、部屋に戻る背中を押してくれている。
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2020.04.28
2020.04.28