――轟くんは……ちゃんを、どう思ってるの?
 人ひとり殺してきたような格好で、泣きすぎたせいか暗い目で、声は妙に静かで落ち着いていて。自分から聞いたくせに、答えも聞かず緩く首を横に振った。ごめん、変なこと言った。小さく付け加えられた言葉は、まるでこっちの返答を知っているかのようで。引き止めて、何か言いたかった――なにも言えなかった。

 ――あいつが……轟が、ああなのって、もしかしてお前らのせいなの?
 とても呑み込めない事態を前にしたような顔をしていた。それを聞いた瞬間、緑谷の台詞を思い出して―― その後の行動までよく似ていた。視線をそらして、いやいい、悪い。謝罪というよりは何かを諦めたような音。何かに見切りをつけた態度。もっと大事なもの、おそらくは自身を、見つめるための切り替え。

 ――『ヒーローのいる世界の子供』だとよ。
 吐き捨てる口調で口にされた言葉は、俺に向けてのものではなかった――そもそも俺は気付かれていなかった――が、向かい合っている切島へ告げるためのものでもなかったのだろう。そうだとしたらあいつの場合、あんなに素直な音をしていたはずがない。

 ヴィラン連合。警察。幼少期から続いていたという被害。
 知ってるはずだった相手の、知らないことばかりがぽろぽろ零れ落ちてくる。同じ速度で、自分の中へ降り積もっていくものがある。情けない恥ずかしい悔しい寂しい、それから、それから、とても人には言えないような、腹の底を焦がす衝動。体育祭前にのことを友達だと言った緑谷、と一緒に家の近くでじゃれ合っていた心操、あれらを目にした時と同じ、ともすれば自我を奪っていきそうな、憎悪にも近いほどの、憤り。

 ――ちゃんを、どう思ってるの?
 恨むような眼をしていた。責めるような声をしていた。すぐに我に返った様子で、恥じたように、悔やむように、謝罪を口にした。その様子をただただ眺めながら、唇を開きかけて――なにも出てこなくて、よかったと、今は思う。その問いの答えを真剣に考え続けた今ならだ。



 俺はきっと、のことを、自分のものだと思っている。
 が目覚めるまで繰り返し考えて考えて考えて、ようやく言葉にできた感情。
 俺のものだ。は俺のものだ。俺の姉ちゃんで、俺の片割れで、俺の家族で、俺の―― 俺の……

「焦凍?」

 ドアが開く音とともに、室内を見回したが意外そうに首を傾げた。何してるの、そんなところで。壁に背中を付けて座っている俺の隣にやってきて、同じように座った。
 そうして部屋の隅で二人並んで座り、見えるものは空っぽの部屋とトランクが一つきりだ。部屋を出る前、開けてそこからもタッパーをいくつか持って行った――隙間だらけの荷物。

「本当に、なんもねえんだな。不便じゃねえのか」
「最低限は持ってきたよ。それ以上は、……この機会に好きなものだけ揃えて自分の城を作るのもいいでしょ」

 自分の城。一人部屋。
 数日前、寮で自室を見せ合ったことを思い出す。ごちゃごちゃしてたりシンプルだったり、スケールを間違えていたり導線がまとまっていたり。それぞれ、らしかったというか、見れば持ち主が容易に結びつく部屋だった。
 じゃあ、ここは?

「お茶でいいよね、冷たいのしかなかったんだけど」

 ペットボトルを一本差し出してくる、その腕の白さばかりが目に付く。反射のようにそれを――ペットボトルではなく、手首を掴んで、その冷たさにびくっとした。同じように驚いたらしいがペットボトルを取り落として、いやに重い音が室内に響く。

「……なに、」
「…… いや…… 折れちまいそうだと、思って」

 実際に掴んでみると、見た以上に細い。余裕で回った指が余る。白くて細くて冷たくて、まるで知らないような感触がする。
 言い訳のように口にした感想は俺達の間柄を考えれば些か物騒なものだったが。

「はは。焦凍がその気になれば折れるよ」

 なんでもなさそうに笑う。本当に軽い調子で、少しの恐怖も含まずに、かといってそれは俺への信頼とかでもない。
 もしも、この腕を折ったら――もちろん絶対にそんなことはしないが――こいつは、笑うのかもしれない、と思うくらい自然に。いや、痛がるだろうが。泣くかもしれないが。そうじゃなくて、肉体に生じた痛みへの純粋な反応の話ではなくて。……折られたら、少し笑って、それから、俺を見返すのかもしれない、と、思う。見たこともないはずの眼差しが容易に思い描ける。自分を害した相手を冷静に見返して、見極めて、俺の真意を探って、それから。なにかを知って、消えていく。

「…………」

 空っぽの部屋、隙間だらけのトランク。
 物欲があまり無いんだと言っていた障子とは違い、これから揃えていくと言った。そこには過去の痕跡も、家族の匂いもまるでしない。こいつは、過去にも未来にも、たぶん未練があまりない。
 お前は俺の半分のはずなのに、たまにどうしようもなく透明に見える。誰よりお前を感じ取れるはずなのに、水や風みたいにすり抜けて行ってしまう気がする。

「折ったら、お前、逃げるんだろ」
「……? そりゃあね? いや逃げられないかもしれないけど…… そういう問題じゃないな?」

 あんまり物騒なこと言うなよ、未来のヒーロー。そう笑って腕を引こうとしたのを、逃がさないようにぎゅっと握る。は少し眉を寄せたけれど、振り払うようなことはなかった。怪訝な顔をしながらも、許容範囲が広いんだ、こいつは。それは別に優しいからとかじゃなく、許せるというだけ、気にならないというだけ、どうでもいいというだけだと、俺は知ってる。
 その『どうでもいい』が『やさしさ』にとてもよく似ているものだから、結構な人数を勘違いさせる。お前、爆豪に気にされてたよ、言わねえけど。

「ねえ焦凍、私に言いたいことがあったんじゃなかったの」
「……ある。聞きたいこともある、話したいこともたくさんある」
「……話そうよ。まとまらないなら後日でもいいけど」
「だめだ。今日じゃなきゃダメだ、一秒でも早くないと」
「……?」
「でないと、お前、」

 被せる形で言って、掴んだ手を放さないように握る。柔い肉が、指先を包むような感触がする。
 腕を折ろうが足を折ろうが、折らなかったとしたら、なおさらに。

「お前…… 俺のこと、忘れてくんだろ……」

 の部屋は、実家では、決して殺風景ではなかったはずだ。本が多かったはずだ。それから香水や瓶詰の花やアルバムや、――いつか揃いで与えられたぬいぐるみ。
 家に置いてきた荷物みたいに。いつか食べ終わる料理みたいに。昔はあんなにも放さずにいた手を、今は繋いでいる方が不自然だって言いたそうに力の入ったままの片腕。少しずつ、ひとつずつ、未練もなく手放していく。どんどん遠く、透明になってしまっていく。

「全部話したい――ぜんぶ、聞きたい、全部交換したい」
「焦凍」
「何も知らなかった、ずっと聞けなかった、怖くて痛くて見ないふりばっか続けて、やっと改めようとしても上手くできなくて、……」

 何年もお母さんの顔を見られなかったみたいに、のことを見られなかった。たまにチャンスがあっても声の一つも出てこなくて、そんなときに限っては無言で俺を見返していた。姉さんに向ける察しの良さや先回りや笑顔は俺には与えられず、ただじっと裁判官のような目をして。……逃げたのは一回二回どころじゃない。
 緑谷のおかげで何か枷が外れたような気がして、ようやくと、対話を、したつもりになっていた。
 ――無理に私に関わってこなくていい。困る。
 明確な嫌悪を初めてぶつけられた、その衝撃で、長いこと気付けなかった。自分一人だけで元に戻ったつもりでいた。説明をして、改めて、それだけで済むと思っていた。横にいてくれるが、持ち前の許容範囲の広さで受け入れてくれるが、どんな顔をしていたのか。どんな気持ちでいるのか、聞きもしなかった。

「……」
「ごめん、謝る、でも、……たのむ、見捨てないでくれ。まだ行かないでくれ。もう、なんも言わずに、消えたり しないでくれ」
「…………」

 そうしてようやく、視線が合う。見上げる瞳が戸惑ったようにゆらめく。
 家族の誰にも似ていない色が、寂しかったし羨ましかった。俺もそんな色だったらよかったのに。俺とお前だけが似ていてくれたらよかったのに。きれいで冷たくて優しい、俺の半身。



 掴んだ手を組み替えて、肩を寄せる。そうやって壁際に追い詰めた身体が、やっぱり思っていたよりずっと小さい。
 女子、ということ以上に、無個性だからなのか、ヒーロー科の女子が他とは少し違うのだろうか。華奢で頼りない気配、触ると見た目以上に細い肩。ろくな抵抗がないのを幸いに抱きすくめる。。呼んだ声が耳に触れたのか、小さな体がびくっと跳ねた――少し力を込めれば抑え込める程度の力しかないのが肌に伝わってくる。

「焦凍、」

 引き離そうとする腕がやっぱり弱い。抵抗にもなってない。腰のあたりに回した両腕に力を込めると、ぐえ、と苦しそうな声がしたので少し緩めた。双子の片割れ、半身でありながら、違う性別。女の子の肉体。

「ちょっと焦凍、離して」
「……昔、クソ親父にぶっ飛ばされたこと覚えてるか」
「え? 焦凍が? ありすぎて覚えてないけど」
「違う。お前が」

 肩に触れてくぐもった声で言う。諦めたらしく力を抜いたが、ああまあ一回あったね、と特に苦労した様子もなく答えた。少し笑ったのは、くすぐったかったのだろうか。

「あのとき、怖かった」
「?」
「お前が、死んじまうかと思った」
「…… わかるよ。私も、死ぬかと思った」
「いや、お前は多分わかってねえ」
「え」
「本当に、……本当に、怖かったんだ」

 それまで頼り切っていた姉だった。いつも溌溂として活発で人見知りしなくて、どこへ行くにも俺の手を引いてくれていた。個性が発覚する前までは、親父にも周囲にも、俺よりの方が目をかけられていたと思う。
 そして個性と無個性が発覚――俺だけが引きずられていく訓練に、泣いて愚図ったこともあるし八つ当たりをしたこともある。なんで僕が、なんでお姉ちゃんは違うのに、こわい、やだ、個性なんかいらない。ただ受け入れて慰めてくれていた姉は、あのとき本当はどんな顔をしていたのか。

「お前の身体が、跳ね返って 落ちて」

 板張りの床へ叩きつけられる音を覚えている。
 ボールがバウンドするように跳ね上がる肉体。お母さんの悲鳴――なんてことを、あなた、なんてことを! は女の子なんですよ!
 おねえちゃん、と呼んだ声が、吐いたばかりで焼けた喉ではうまく音になったかどうかもわからない。ただ、繰り返し呼んだはずだ。お姉ちゃん。お姉ちゃん。そう呼べばはいつだって振り返ってくれた。どうしたの焦凍、大丈夫だよ、お姉ちゃんが助けてあげる。傍にいるよ。お母さんのところに行こうね。お兄ちゃん達に会いたいの? いいよ、内緒ね。意識してもいなかったが、双子の姉は、自分だけのヒーローだった。女の子でも、個性が無くとも。
 だけど、倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない身体。髪に隠れた白い頬がみるみるうちに赤く腫れていく。
 自分が今まで縋って頼ってきた姉が、自分と全く同い年の女の子だったと、気付いた瞬間のこと。

「あの日から、お前とうまく喋れなくなった」
「……」

 掻き抱いていた身体を離すと、がほっと安堵したように息をつくのがちょっと気に入らない。両手をすくいあげると、そこに入る力はずいぶん弱くなっていた。それでも無くなりはしない。
 小さくて白くて柔らかい。ヒーローじゃない女の手、守るべきものの手。守りたいものの、手。

「焦凍?」
「……ずっと、言わなきゃなんなかったんだ」
「?」

 頼り切っていてごめん。甘え続けてごめん。俺の我儘で傷つけたことが沢山あった、お互いにどうしようもないことの責任を押し付けようとしたことが沢山あった。個性を、奪ってしまったような気がしていたし、押し付けられたように思う日もあった。どちらにしろ、生産的ではなかった。それら全ては言葉にするまでもなく伝わっていると思うし、伝わってないとしたら多分そっちのほうがいい。どの言葉も、が望んでいないことだけは確実だ。

「……今までずっと、助けてくれてありがとう、お姉ちゃん。お姉ちゃんが、俺のヒーローだった」
「――」

 あのころの俺から、あのころのお姉ちゃんへの感謝。
 ずっと熱の下がらない、ほとんど意識の戻らないの隣で、ぐちゃぐちゃに泣きながら言えなかった言葉。恐ろしさと罪悪感だけに潰されて、選べなかった気持ち。
 見開かれた瞳が、受け入れ難そうに彷徨って、……少しの間を経て、花のように微笑む。
 ようやく心からの笑みを見られたと思った。ようやく、なにかが、正しく伝わった感触がする。

「……いいんだよ。ありがとう、焦凍。怖がらせてごめんね。私は焦凍のお姉ちゃんだから、焦凍のことを守りたかったんだ」
「……うん、でも、もういいんだ」
「うん」

 もう守られるばっかりの弟じゃないから。もうお前に甘えるばっかりの男でもないから。
 近すぎる距離を、今も認識はしているだろうがそこまでは警戒している様子がない。俺達は成長して、双子のまま男と女になった。ヒーロー候補と、一般人候補になった。

「これからは、俺がを守りたい」

 切なげだった微笑に、ゆるゆると苦みのようなものが混ざっていく。過程で、いくつかの言葉――『守ってもらわなくてもいいよ』『そんな必要は無いよ』『私のことなんか気にしないで』――『必要ない』――が、声になる前に押しつぶされていったのがわかる。たぶんこれがの寛容で優しさだ。その冷たさに裏打ちされた優しさを、今はまだ抱いていてくれ。そうして、逃げ場を、失ってくれ。
 ぎゅっと掴んだ両手に力を込める、そのほんの少しの力加減が白い肌に跡を残す。この皮膚に跡を残すのは、きっと思う以上に簡単だ。
 痛みがあったのだろう、一瞬意識を取られて顔を上げたの、探るような目までいとおしい。

 俺のものだ、と叫ぶ声がする。そんなのは違うんだってわかっている。
 いくら双子だって俺は俺で、だ。それを理解しようとする俺と、どうしても納得できない俺がいる。
 、どこにも行くな。誰も見るな。ふたりで――ずっとふたりだけで―― そうやって喚く声を優先したとして。たぶんは、腕を折ろうが足を折ろうが逃げるのをやめない。そうして築かれる関係はきっと親父とお母さんに似ている。

「――しょうと」

 何かふさぐように、俺の名前を呼ぶ。世界で一番お前の声が好きで、俺の名前を呼ぶ形が一番好きだ。

「好きだ」
「……」
「好きだ、。俺のもんになってくれ」

 ぜんぶ伝える、開示する。腹も脳もぜんぶ開いて見せる。そうしなきゃ、きっとを引き留められない。
 両手の中にある手が、咄嗟に引かれる感触がした。反射は意識にかなわない。一瞬ぐっと力が入っただけで、依然として俺の手の中にいる。



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2020.05.10