結論から言うと布団は間に合いませんでした。

。言ってくれりゃ迎えに行ったのに」
「早く入れて、人に見つかる」
「べつに平気だろ、姉弟なんだし」

 人に聞いたけど夏休み中は敷地内にさえ居ればあんまり移動許可いらないらしいぞ、と言う焦凍を部屋の中に押し込みつつ自分も入る。
 焦凍との話し合いが思ったよりも長くなり、布団買いに行けなかった……と呟いたところ『俺のとこに予備がある』とキラキラの目で言われた。もちろんお断りしたが聞いてもらえなかった。共同スペースのソファで寝るのもな……さすがに同寮の子達に悪いしな……。おかげでC組集合記念パーティーをいまいち楽しみ切れずに終えてきた。

「泊まっていけばいいのに」
「いくら双子でも変に思われるでしょ」
「……」
「それはそれで、みたいな顔すんな」

 ついでに自分の布団を敷いている焦凍の頭を小突くと、はにかんだような拗ねたような微妙な顔をする。それがなんとなく居心地悪く、手を引っ込めた。――夏休み前のあれこれを思い浮かべる。意味の解らないくっつき方をしてきた焦凍にうんざりして割と酷いことを言った気がするけれど、あれは焦凍としてはカウント外なのだろうか。だいいち当時の焦凍がベッタリしてきたのだって、元はと言えば私の態度が――いいよ許してますよ大丈夫ですよ(だから解放してくれ)が悪かったわけで。勘違いを助長させる態度を取って、安心して接してたら途中でいきなりブチ切れられたわけで。私は私で言い分があるけれど、焦凍としたって理不尽だったんじゃないのか。

(って、聞いてもいいのかなあ……)

 そんなことも躊躇するほど、距離感が掴めていない。
 どうやら好かれているのもわかったし、後悔してくれていることも分かった。俺のもんやら何やらはどうあれ、向き合いたい気ではいる。――焦凍は少し前よりずっと穏やかに、冷静になったように見える。緑谷くん、ばかりではなく友達や、雄英のおかげだろうか。

「……じゃあ、一式お借りします。干して返す」
「別に一晩くらい問題ないだろ」
「新品でしょこれ」

 予備、とは言っていたけれど、新品の布団一式があったのだ。お泊まり会でも想定していたに違いない。見れば座布団も三枚ほど予備があり、部屋に招く準備をするような友人がいるのだとわかる。喜ばしいような腹立たしいような複雑さはあるけれど、総合して『よかった』と言える展開だ。
 部屋を出ようとして、ふと振り返って室内を眺めた。実家によく似た和室と、見知ったはずだったのに別人のように背の伸びた弟。関わらなくなっても話さなくなってもずっと同じ家で育ったはずなのに、この距離で見ると全く気付かなかった変化がある。

「ちょっと待ってくれ、やっぱり部屋まで送る」
「……」

 これがすべての友人に与えられる態度なのか、女の子にだけなのか、――私にだけなのか。
 無言のまま見つめていると、布団を持とうと手を伸ばしてきた焦凍が不思議そうに首を傾げた。

「焦凍」
「?」
「いちおう私は双子の姉で間違いのない血縁で無個性で、いろいろ確執はあると思うんだけど」
「……ああ」
「ああ言って、問答無用で振られるとは思わなかったの? それか、私がもうちょっと知恵の回る人間なら、もっと悪い展開もあるでしょう。そういうこと考えなかった?」

 実際は放置なので、お世辞にもいい展開とは言えないが。だけどもっと悪いことをしようと思えばできるし、多分まだ晴れていない疑惑――ヴィラン関係――のことを考えれば、囮目当てでもなければ告白するメリットは無い。ていうか血縁だ、何度も言うけど。

「……考えなくも、なかった」
「うん」

 そんなことをする奴じゃない、と断言できるほど、私達の溝は浅くない。互いに事情と言い分と、それなりの信用と、相互理解をする努力があったとして、あの告白は性急じゃないでしょうか。いくらなんでも。そもそも好かれることをした覚えがない。

「でも、――そうなっても、ぜんぶ受け入れたい」
「………… なんで?」
「え」
「なんでよ」

 目が据わっているかもしれない。肝臓のあたりがじりじりと熱い。
 好きだとして、それが心底からの想いとして、なんだそれは。

「好きな人になら何されても嬉しいなんて現象が現実には存在しないことはわかってるよね? 極端なこと言うけど夫婦間であっても強姦罪は適用される。デートDVって言葉知ってるか? 自分は被害者にはならないとでも思ってる? あんたがどんなに強くて丈夫でも心を折られることはあるんだよ、あんなもん技術だ。優秀なヒーロー候補が一人減ることが今どんだけ被害かは私よりわかってるはずだよなあ? 好きにはちゃんと理由があって、好きだから好きだなんてのは言語化をやめた思考停止の怠け者の台詞だ。そんな何も確定しないうちから好きだとか言って、なんでも受け入れたいとか、やめろよ。ちゃんと相手のこと見て、自分のこと見て、 ――なに」
「……いや」

 ショックを受けたというより、腹が立ったというより、なんだかぽかんとした様子の視線に言葉を止める。何か決めあぐねて少し首をひねった焦凍が、が怒ってんの珍しいな、と独り言のように呟いた。

「怒っ……」
「いまの、何がを怒らせたんだろうって、思って」
「べつに、怒って、は……」

 ……いるのかもしれない。チリチリと焼けつくような苛つきが、存在を自覚した途端に霧散していく。
 怒った? 焦凍の言葉に? どれに?
 ……ぜんぶ受け入れたい?
 ひどいことを、されても?

「…………っ」
「えっ」

 じわ、と滲んだ視界に、焦凍が肩を跳ねさせたのが見える。それから慌てた様子で腰を探って、服にポケットがないのに今気付いたような顔をして、慌てて机の方に走って戻ってくる。

「やめろよ……」
「なにがだ、布団いったん置いて――ああいい、俺がする、顔上げてくれ」

 頬を滑り落ちていく熱が、押し当てられたハンカチに吸われていく。力加減が下手でぐいぐい押される。私も泣くのが下手だけど、焦凍も慰めるのが下手だ。お互い逆の方が得意だ。得意だった、十年前は。泣く焦凍を慰めてばかりいたのに。
 その過去を、大事に思わないわけじゃない、けれど。

「なんでも受け入れるなんて間違ってるよ……被害を受けるのは結果的に自分一人だけじゃないだろうが……」

 好きだ愛してる何をされてもいい、その果てに、その果てにできたのが、私達だろうが。
 お母さん。真っ白い部屋で顔をそむけたきりのお母さん。あの人の口から私の名前が消えて何年だろう。あの人の視界から私が消えてどれくらいなのだろう。
 愛か恐怖か知らないが、夫のすることを何でも許したお母さん。結果、自分や自分を大事に思う人たちを、踏みにじってきたお母さん。



 お母さんとよく似た顔が間近に迫っている。不安そうだ。自分の方が困っているような顔をしている。泣かないでくれ。小さく小さく、囁く声まで震えている。
 私は、あのご夫婦のことを何も知らない。
 すべては私の憶測でしかない。
 だけどこの弟は、家族で誰よりもあの母に似ている。

「焦凍」
「?」
「私は、たぶん、エンデヴァーさんよりお母さんを憎んでる」
「……」

 頬を叩くように移動して押しつけてを繰り返していたハンカチが、ぴたりと止まった。その腕を、内側からぐいと押して離させる。

「あの人の寛容が憎い」

 仕方がなかったなんてわかってるよ、まさに私が言ったことだけど心を折られるようなこともあったんだろう。親戚関係がどうなってるかなんて知らないけど入院して約十年、ほぼ顔を合わせていない現状を見れば頼れる状況でもなかったんだろう、わかってるよ。
 だけど、でも、どうしてだろう。お姉ちゃんに代わってお見舞いに行っていた時期には特に考えてもいなかったのに。エンデヴァーさんや焦凍に、お前らがフォローしてればこんなことにはならなかったって、思っていたのに。今になって。今になって。

「あの人の弱さが憎い」

 口に出した途端、憎悪が膨れ上がったようだった。
 お母さん、どうしてあなただったの、どうして私達だったの。どうして守ってくれなかったの。どうして夫だけを選び続けたの。
 ……どうして一度も私を見てくれなかったの。
 どうして、私の、無個性を、許してはくれなかったの。

「……
「……ごめん」

 服の袖で涙を拭う。
 言う気じゃなかった。少なくとも轟家の面々には、一生言うつもりじゃなかった。憎んでいる自覚は無かったけれど、苦々しくは感じていた、それを、口に出すことなんて生涯無いと思っていた。

「、なんで、謝るんだ」
「言う気じゃなかった。……最低でも、あんたには」

 深呼吸を交えて言う。軽いはずの布団がいやに重い。差し出すも、収納袋の紐を握った拳は焦凍の胸元にぶつかったきりだ。焦凍はそれを受け取ろうとはしない。押すと、戸惑ったように手が添えられた。

「布団、返す。寝れる気しないわ」
「……持ってってくれ、横になるだけでも休息は取れる」
「返しに来たくねえっつってんだよ察しろ」

 焦凍を傷つけた言葉が、自分のことも少しだけ切り裂いていく。
 ――まともに姉弟ができるような気がしてたよ、何か障害があっても、面倒があっても、一緒に乗り越えようとしていける気がしていたよ、ついさっきまで。ほんの数分前まで。私がひどいことを言う直前まで。

「……、」
「……ごめん。……じゃあね」
、」

 今度こそ室内にも焦凍にも背を向けてドアノブを握る、それに力を入れるより先に名前を呼ばれた。

「……」

 手を、止めてはいけなかったのに。

「……今のお前を一人にしたくねえ。けど、俺じゃだめなのか」
「……今、私と居たくないのは焦凍でしょ」

 今度こそ出て行くはずだったドアが、浮いた瞬間ドア枠に押し戻される。ダアンと派手な音がしたので誰かが不審に思ったかもしれない、と焦る間もなく、振り向かされて背中にドアをぶつけられた。

「いっ、……なに、」
「俺はそんなこと言ってねえ」

 間近に迫る両目が、あまりに明確に怒っていて言葉を失う。

「お前の言うとおり、俺は気を利かせるとか察するとかできてねえ。から、言ってくれ。今、俺といるのがしんどいなら、……我慢する」

 なんでそんなに。なんでそこまで。
 目を逸らすこともできない距離で意図せず見つめ合う。きれいな両目は左右の色が違う。未だ残る火傷に、手を伸ばしかけて抑えた。焦凍といるのが、しんどいなら。……しんどい、かもしれない。自分の現状を鑑みて思う。悪い相手じゃないのは知っている、少なからず思い入れのある大事な存在だ、そういう表面的なことばかりではなく。焦凍を前にすると、どうしても――自分が惨めになる時がある。母と似て父と似た焦凍。緑谷くんの声だけ届いた焦凍。押し付けたわけじゃなく、奪われたわけでもなく、最初からその両方が焦凍の力なんだと、いくら言っても聞いてはくれなかった焦凍。
 でも。

「……」

 壁ドンの姿勢になっている肩を押して、腕の檻を解く。そのまま焦凍を通り過ぎて和室の中心付近に戻り、その場に座った。


「もう遅いから、焦凍は寝なよ」
「俺も寝れる気がしねえ」
「……横になりな」
も、なるなら」
「……」
「……」

 条件みたいなことを言いながら、そんな目をするなよ。
 自然と大きな溜息が出る。ちょうど焦凍が自分用に敷いていた布団が隣だったので、その場に雑に転がる。慌てた様子で上掛けがかけられ、隣に袋入りだった布団が広げられた。

「あの、顔、見えないほうがいいか?」
「……いいよ、大丈夫。そんなに気を使うなよ」
「……使いたいんだ。使えるところは使いたい。俺は気ィきかねえから、できることはやっときたい」
「……そう」

 やりすぎると負担になるぞ、と思ったけれど、それを言えるほど私も気遣い上手ではない。
 泊まる気は本当に無かったのに、結果としてお泊まり会だ。たぶん空気はよろしくないが。

(…… 『気分いい話じゃなくてもいい』『俺といるのがしんどいなら我慢する』、か……)

 いつまでも姉の気持ちでいたけれど、冷静に考えて双子だ。前世でもお世辞にも精神年齢が高い方でもなかったし、外見や環境に引っ張られるものだ。……焦凍は私より、ずっと成長している。自分が恥ずかしくなるくらい。

「……」

 隣でごそごそもぞもぞやっている様子は、昔の泣き虫焦凍と変わらないのに。
 小さく笑う――ふっと、気持ちがほどけるのを感じる。

「焦凍、落ち着いて」
「……落ち着いてる」
「うそつけや」
「……」
「…… 手、繋ごうか」
「! うん」

 お互いの布団の間に手を置いて、繋ぐというより重ねていると言った方が近そうだ。
 自分以外の体温はどうしてこんなに温かく感じるのだろう。ようやく動きの止まった焦凍が、今度は猫のようにじっと見つめてくる。お前の視線、まっすぐすぎて居心地悪いんだよなあ。自分が、まっすぐな人間ではないから。その居心地の悪さを、少しの『しんどい』を、私も、少しだけ。耐えよう。焦凍が覚悟を決めてくれたみたいに。

「――正直、俺にはお母さんを憎む気持ちがわかんねえ。クソ親父を憎まない気持ちも」

 闇の底に落とすように、焦凍が言った。
 直接被害を受けてるのにねと、これは心の中だけで言う。その火傷を焦凍が自分でどう思っているのかは知らない。けどまあ本当にひとかけらも、恨んではいないのだろう。
 私が、エンデヴァーさんを憎んではいないように?

「……接点が無きゃ憎みようがないからなあ」

 それはほとんど独り言だった。独り言であってもこの距離で、この部屋で、夜の底では確かに響いた。

「……私はね、例のビンタ――焦凍の覚えてる、ぶっ飛ばされた一件? 以降、エンデヴァーさんとはまともに接してなくて。憎むほど、近い存在じゃなかったんだよ……同じ家に住んでる焦凍の先生みたいな感じで」
「……」
「不満げ」

 少し笑う。
 おそらく傷付くことはあったけれど、それ以上に近しい存在ではなかったのだ。この世界の父親は、私に対して興味が無い。
 ……一旦満たされる経験をしたからだろうか、それをあまり悪いこととは思わない、というか、私としてもあまり興味が無いのだ。少なくとも今は。無くなってしまった。そういうこともあるよね、くらいに思っている。それでも父親は父親だ。定義によるけれど、生物学上でも戸籍の上でも父親である。お父さん、では、なくなっていても。
 雨風凌げて飢えることもなく、この年齢まで不自由せずに生きてこられた。まともな教育を受けた。ひとまずそれだけで、彼は役目を果たしたって言えるんじゃないかと思っている。

「でも、お母さんとは接点もあった」
「……なんか、あったのか」
「なにもないよ」

 何もない。なにも、なかったからだ。

「あの人の目に私は映っていないから」
「…… ?」
「すごく、怯えるんだ、私を見ると。多少落ち着いてからは無視になった」
「――」

 何故だか起き上がった焦凍を、腕を引いて布団の中に戻す。寝なさい。

「……」
「寝ろって」
「そん……だって、お前」
「あのさ、わかってると思うけど、私の話は私の視点でしかないわけ。お母さんにだってエンデヴァーさんにだって言い分はあるだろうし、あっちから話されればまた印象も違うでしょう」
「……」

 わかんねえって顔をしている。主観の話は私が言うまでもないと思うんだが。どういう視点があったところで無視は無視だし私は拒否られて生きてきたわけだが。
 納得いかない様子で、それでもその頭が枕に戻ったのでまあいい。何をしようとしたんだか知らないが、どうせ今この瞬間は眠る以上に必要なことなんかない。

「……私も、今の今まで、気付かなかったよ。あの人を憎悪している」

 重なった手に視線を落として言う。
 お母さん、どうしてなの。責める声が私の中にずっとある。どうしてだろう。以前はそんなことなかったのに。ただ名前の解らない、不満に似た悪いものがあって、それが一気に形どられたような気がする。言葉に、することによって、憎悪の輪郭をつくったように思う。本当にどうしてだろう、未だ父親に望むのはあのレベルなのに、母親に対して産むこと以上に何を望んでいたというのだろう。不公平ってもんじゃないかと、自分でも思うのに。
 憎みたくはなかったな。恨みたくもなかったな。自分の抱く汚い感情の、――その責任さえ、あの細く壊れそうな女性にあるような気がしてしまう。
 下にあった焦凍の手が、私の手をぎゅっと握った。

「?」
「……いや」

 目だけで問いかけたことに、きちんと答えが返ってくる。

「お前が、しんどそうだ」
「…………」

 抱いている人間こそを、消耗させる。
 昼間エンデヴァーさんに言ったばかりのことだ。半日前のことなのに、えらく時間が経ったような気がする。仰向けの姿勢だったのを、焦凍の方に転がった。

「私はもう、疲れちゃってさあ」
「……うん」
「逃げるつもりなんだよ。本当はずっと前から、そのつもりだったんだ。高校を卒業したら私は消える」

 今度は布団を跳ね飛ばして起きた焦凍を再度転がし、飛んだ布団を焦凍の上に投げ返した。

「寝ろっつってんだろ」

 ばし、と羽毛布団を叩いて自分も布団に戻る。そろそろ手は繋がなくていいかと思ったけれど、『手』と当然のように催促された。投げ出すと、さっきと同じように下から包まれる。

「……困る」
「知ってる」

 あと本当に困るのはお姉ちゃんだ、とは思うけど、まあ人数減ったし大丈夫だろう。あの家に今は実質お姉ちゃん一人、たまにエンデヴァーさんだ。あの二人ならどうとでもなる。いよいよ家事ができなくなったら外注すればいい、というかあのサイズの家を外注なしで保つっていうのが今考えると割と無理。社会人でしょお姉ちゃん。
 向かい合う顔を一瞬だけ見て、目を閉じる。瞼の淵がじわりと熱を帯びる。

「お姉ちゃんとは話してきた。夏兄とは話してないけど、まあ大丈夫でしょ。エンデヴァーさんは知らない。……お母さんのことも、知らない」
「……」
「轟家に関わらないことが、私にできる精いっぱいの思いやりで譲歩だし、私のためにもいいことなんだ。と、思う」
「……困る」
「知ってるっつの」

 泣きそうな声すんな。

「いやだ」
「そう」
「頼む」
「……」

「…………」

 答えずにいると、、と繰り返し名前が呼ばれた。そんな声で呼んだって、私はもう自分を削っていくのは嫌なんだ。
 ――ぎし、と、おそらく張られたばかりの畳がやわく沈む。閉じた目を開けると、焦凍の顔の代わりに腕が見えた。その気配に天井の方に顔を向ける。焦凍が、囲う形で私の上に乗り上げている。
 脅してるつもりか。そんな切羽詰まった顔で。

「……関わったら、私はきっといつか誰かを害するよ」

 引っぱたいて蹴っ飛ばして部屋を出て行くのは簡単だ。というか多分、これまでずっとそういうことをしてきたのだ。声にも出さずに諦めて、見限った気になって、それで、やっていけると思っていた。実際にできるのかもしれないけれど。
 そういうことを続けた結果が、心操くんの善意と同情と義務感によるプロポーズだ。優しい人達を気負わせて、普通の人達を遠ざける。そんなこと続けてちゃだめだろう、――最初のハードルがこの家庭っていうのは、少し難易度高そうだけど。やれることだけは、やってみてもいいのだ。気持ちと事情は伝えなきゃいけない。言葉は正しく使わなきゃいけない。
 これだけ必死に追いかけてきた弟には、私がひどいことを言ってもひどい態度を取っても受け流そうとしても、抗って声をかけることをやめなかった弟にくらいは、同じだけの努力を示すべきだろう。

「それは夏兄かもしれないし、お姉ちゃんかもしれないし、お母さんかもしれない。夏兄やお姉ちゃんや焦凍の子供かもしれない。暴力っていうのはどうしても弱いものに向いていく」
「……」
「そんでスッキリすんならまだしも、たぶん私はご丁寧に後悔する。なんであんなことしたんだって自分を責める」
「……」
「焦凍は私を苦しめたいの?」

 何か言おうと開いた唇が、ぐっと閉じられる。『いやだ』と『尊重したい』がせめぎ合っているのがわかる。
 浮いていた左肩を落とし、仰向けになって手を伸ばすと、びくっと震えた――が、構わずその左側に触れた。滑らかな頬に一部、ひきつったような皮膚。医療の発展に期待したいところではあるけれど、多分そうそう治らないし、焦凍に治すつもりがあるのかどうかもわからない。ただ本人に自覚があるかどうかは置き去りにして、それは確かに傷なのだ。焦凍にも、おそらく、母にも。

「ごめん。意地悪言ったね」
「……」

 ゆるく首を振りながら、伸ばした手を取られる。強く握りしめられる。いやだ、と、掠れた声がした。いやだ、一緒にいたい、お前を、守るって、決めたのに。まあ、そうだよなあ。手を引くと、焦凍の上半身もついてきた。

「焦凍」

 顔を寄せると、涙をたたえた目が間近に迫る。。掠れた声が、触れそうなほど近くにある。左手と左足をそっと檻の外に伸ばし――重心の下がった焦凍を、ひっくり返す形で隣の布団へ転がした。

「寝ろ」
「………………」

 恨みがましい顔してんじゃねえ。
 さっさっと上掛けを直して寝転がり直すと、手、と不満げな声がする。お前そんなになっても手を繋ぎたいのかよ、別にいいけど。……別に、いいんだ。
 横になって見つめ合う。好きだなんだは未だによくわからないので、それはそれとして受け入れつつ、出来る範囲で接している。それが本当は残酷なことなのかもしれないと、少し思う、けれど、……そこまでは気を使わなくていいだろう。触れるのが嫌じゃない、その程度で。今は。

「……轟家を出るのは確定だけど、消えようって思ってたけど、でも、不確定要素が増えた」

 そもそも就職次第だ、というのはちょっと置いておくとして。校長先生に言ってもらえたことも伏せておくとして。

「不確定要素」

 オウム返しに言った焦凍に、重なった手を上下させる。ぱふ、と布団が音を立てる。

「……正直、未だに納得いってないんだけど。何がどうしてそういう結論になったかは解らないんだけど、焦凍は私のことが好きなんでしょ」
「……ああ」
「じゃ、まあ、頑張ってくれ」
「……?」
「どっちにしろ今すぐって話じゃない。少なくとも高校は卒業するわけだ。三年間で、私の気を変えてくれ。そのつもりがあるなら」
「……、」

 精いっぱいの思いやりと譲歩。決して穏やかでなかった実家に対して、決して近しくはなかった双子の弟に対して。
 ……それにしてもなんか偉そうというかツンデレ風味になってしまった。そんなつもりじゃないんだけどな。言い方の問題かな。ちょっと恥ずかしいな、なんて考えていると、差し出したままの手が両手で握られた。

、好きだ」
「……うん」
「好きだ、すごく」
「……寝なさいって」
「キスしたい」
「調子に乗るな」

 両手から逃れて焦凍の額を叩く。いい音がした。
 つけっぱなしだった電気をいい加減に消して、私ももう寝よう。寝られる、気がする。あとそろそろ手は繋がなくてもいいだろう。

「手」
「閉店です」
「……手の甲」
「だめ」



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2020.05.12