――が、まともでさえ、あってくれたら。
 いつ言われたのかわからない。私に向けた言葉ではなかったのかもしれない。けれどあれが、彼女の声で聴いた、最後の自分の名前だったように思う。

(ねえ、どうして、)

 無個性の娘。まともじゃない娘。偏った個性の双子。
 どうして。どうしてなの。どうすればよかったの。幼い焦凍を連れて母に引き渡して、その途端、自分が透明になったような気がよくしていた。母子像のような光景の中に、私はいない。それが誰にも責任のないことだなんて解っているのに、私は、

(氷も炎も持ってるのが焦凍であるように、何もないのが私なんだって、それだけのことを、どうして認めてくれないの)

 怯えて顔を合わせなくなった母。頑ななまでに私を視界に入れようとしない母。
 むせかえるほど甘い芳香、熟して熟して、腐っていく。言葉を尽くして、手を尽くして、そのすべてが届かない。私の想いはどうやったって彼女のことを満たさない。どこかで見かけた生ごみと、それにたかる虫の様子。自分の内側が同じように腐り落ちていく気がした。
 たぶん誰も悪くない。
 それを承知のうえで、私は彼女を許せない。

「……
「…………」

 肩をゆすられて、目を開ける。見覚えのない天井と、照明と、覗き込んでくる弟の顔――焦凍。

「……大丈夫か」
「…… なに」
「唸ってた」

 魘されてたとかじゃなくて唸ってたのか。起き上がって眺めた室内は既に明るく、夏の朝の気配がする。おはよう、と忘れていたような挨拶がかけられて、同じように返した声が掠れている。

(あー、結局泊まったんだった、そうだ…… ……待ち構えていたかのように夢に見たな……)

 エンデヴァーさんよりもお母さんを憎んでる。
 言葉にして初めて自覚したような気持ちだったのに。それも憎んでるって言ってもどうこうしたいわけじゃない、関わらなければそれでいい。結論は考えるまでもなく出ているのに、自覚して早々だからだろうか、吐き気を伴う息苦しさがある。
 ふっと息を吐いて首を振り、布団を畳み始めると、焦凍がまた『大丈夫か』と声をかけてきた。なにがだ。

「眠れなかったか」
「……いや、結構寝たよ。夢見が悪かっただけ」

 そうして布団を返しながら、昨晩さんざん眺めた顔をもう一度見る。既にそういうものとして見慣れてしまってはいるけれど、痛々しい跡の残る顔。幸いにして無事だった眼球、――本当に、幸いにして、だ。失明しなくてよかった。顔色悪い、と私を指摘する焦凍は、おそらく私とは対照的にすっきりした顔をしている。姉の衝撃発言に思うところは無いのだろうか。けっこうキレられるのを覚悟で言ったのだけれど。

(……焦凍は、許せなくならないの)

 私のことを。母のことを。
 母にはきっと責任のないことを恨んでいる私のことを。
 焦凍の顔に消えない火傷を残した母のことを。

?」
「……いや……結局泊まってごめん」
「嬉しかった」
「……」
「また来てくれ」
「それは遠慮したい」

 反射的に出た言葉を、焦凍が可笑しそうに笑った。本当に表情の増えた弟を、他人のような目で眺める。いい変化だ、とは思う。誰に対しても刺々しく、お姉ちゃんにさえあまり口を利かなかった中学時代までと全然違う。誰より父を憎んで、恨んで、だからこそだろうか、日毎によく似ていっていた。自らの憎悪に焼き尽くされそうになっていた焦凍を救ったのは、たぶん緑谷くんや友達や雄英の環境なのだろう。
 いつか焦凍を怒らせたくなった時にはエンデヴァー二世って呼ぼうと思ってたんだけど、このぶんじゃ出番はなさそうだ。

「、?」

 見つめすぎたのか、不思議そうに首を傾げられた。

「――焦凍は」

 自らの持つ力に傷付きながら、それを乗り越え、己のルーツに向き合うことを始める。物語なら伝説の悪い竜か主人公のポジションだ。いいことだと思う、まともに笑ってくれるようになってよかった、まともに喋ってくれるようになってよかった。傷付き続けてほしいわけじゃないんだ。ひとりぼっちでいてほしいわけでもないんだ。だけど、本当だろうか、と思ってしまう。そんなに、すぐに――じゃないのかもしれないけれど――忘れられるものなのだろうか。
 ――お前の左側が醜い。
 呪うようなあの声を、私でさえたまに思い出すのに。

「焦凍、は、さあ」
「?」

 その責任を、母に感じていないとしても。同じく責任がないと知っているはずの相手を――自分と全く同じ条件持ちの、双子の姉を。好きだなんて、言えるものなんだろうか。

「……私がお母さんを逆恨みしてることに、文句は無いの」
「…………」

 きょと、と意外そうに瞬いた焦凍が、少しの沈黙の後に『逆恨みなのか』と存外小さな声で言う。
 いや逆か正かはわかんないけど恨みは恨みでしょ。焦凍の大事な、たぶんヒーローを志す一番のきっかけ、今も多分守りたいものを、……害しはしないまでも嫌うっていうのは、多少なりとも引っかかるものじゃないのか。

「……『寛容が憎い。弱さが憎い』って、言ってたな」
「うん」
「……意外で、不思議には思った」
「うん」
「もうちょい聞きてえ」

 うん?
 畳に座ったままの私に、ごく自然に同じように座り込む。

「お前、あんまり重要なこと話さねえから」
「お前が言うな?」
「悪い。これからは話すようにする」
「……うん」
「だから、にも話してほしい。……昨日『私の視点でしかない』って言ってたけど、だからあんまり話してくんねえのかもしれねえけど、その『お前の視点』を知りたい」
「……」
「お前から見てどういう状況で、どんな動きで、どう思ったのか知りたい。そんで、……納得したい。お前の言い分に」
「…………」

 ――その言葉は、予想できていなかった。
 焦凍が、少し背中を丸めて顔を覗き込んでくる。高低差を埋めるようにして、『ぜんぶ知りたい』と囁くように言う。父によく似た左目が、見たことのない感情を宿している。

「――……」

 え。うそ。

「……焦凍」
「ん?」
「ほんとに私のこと好きなんだね」
「…… そう言ってる」
「そう、そうだね…… マジで……? マジじゃん……?」

 聞いてなかったわけじゃないけど、信じてなかったわけじゃないけど、受け流していたわけでもない、と思うけれど、……『受け止める』しかしていなかった、かもしれない。
 え、本気で。本気じゃん。好き……? とは……?

「――まあ、わかってくれてよかった」
「ごめん」
「別に」

 ふっと呆れたように息を吐いて、それでもどこか柔らかな微笑をたたえて向けられる顔に愕然とする。
 お前の全部になりたい。
 そんな風に表現される気持ちを、正直なところ、私は知らない。ただ漠然と受け止めていた『好き』が、急に重量を持ち始めている。

「……きれいだな、
「何ですか急に」
「なんで敬語。いや、言っても伝わんねえこともあるし、思ってるだけじゃもっと伝わんねえだろうし」
「それは本当、ごめんだけど、あと結構ひどい顔をしてると思うんだけど私」
「寝直した方がよさそうな顔はしてる。でも、きれいだ。……なんでか、好きだって言ったらもっと好きになった」

 いやいや嘘だろ、と反射的に思うも、自分でもわかっている。この『嘘だろ』は嘘だと思っているわけじゃなく、受け止められていないだけだ。
 わりと暗い問答――互いの両親について恨むだの嫌うだの――の話をした直後に、そんなのは何でもないみたいに、ごく自然にそんなことを言う。しあわせそうな、甘い雰囲気さえある。

「これまでで今日が一番、のことが好きだ」
「…………」

 ……そういえば、こいつ、思ったことしか言わないんだった。口先だけでその場を乗り切ったり相手を納得させたり空気を読んだり、そういうのが、昔から本当に全然なくて。

「……、ばかだな」

 私が言えたのは、返事にもなっていないようなことだけだった。



「あれっ轟、出かけてたの?」
「……あーいや、早起きしたからちょっと走ってきてた」

 セーフ。たぶんセーフ。
 寮に戻った途端かけられた声に、何気ない顔を装って答える。わりと早い時間だというのに共同スペースには男子も女子も数人いて、各々朝食を取ったり雑談をしたりしていた。
 弟の部屋に泊まったなんて、それほど問題ではないだろうけれど大っぴらにしたいことでもない。ごにょごにょ言って部屋に戻ろうとしていると、あれ心操ー! という声がして、必要もないのに肩が跳ねる。

「心操制服? 講習の日だっけ?」
「ああ、一応」
「学科テストもあるもんなー」

 ……柱の陰に隠れたのを、友人に『何してんの』とつつかれた。
 いや、別に悪事は働いていない。やましいことは無い。ついでに言うと照れる必要もマジで無い。あのプロポーズは善意と同情と義務感で出来ている。……っていうのは最初からわかってたんですけれども……ていうか詳しい家庭事情を話したことは無いし、実際以上に轟家の事情が重く受け取られている気がする。ギスギスしているとはいえ親との仲が悪く、かつ各々が種類の違う自己中なだけの家庭なのでそんなに気にしなくてもいい。ドキュメンタリーになるような虐待とか受けていたわけではない。そのへん誤解されているのかもしれない、どっちにしろ心配させてる気がするし、少し説明した方がいいんじゃないだろうか……

「夏休み中なのに頑張るよね心操」
「……なんかあんの?」
「なんか特別メニュー? やってるらしいよ。転科するならタイミング的に学期変更の頃だろうし」

 一応こそこそ声で聞いたことだったが、彼女は気にする様子もなく答えてくれた。
 転科のタイミング。学期変更。ヒーロー科に。

「…………」

 柱の陰から、男子が数人かたまって喋っている様子を盗み見る。制服姿の心操くんと、体操着のクラスメイトと、私服のクラスメイト。各々予定があるのだろう、順に喋っては何か言い合っている。体操着の彼が心操くんの腕を掴み、筋肉がどうこう言うのが聞こえた。
 入学当時は私より体力がなかった心操くん。体育祭後、トレーニングも習慣も、たぶん食事にも気を配り始めているのは見ていて分かった。

「……」
「轟?」
「あ、いや、……頑張ってるんだなあって思って」

 邪魔しちゃいけないなあって思って。

「ねー。しかし眠そうだね轟、今日は寝直す感じ?」
「いや、今日こそ買い物に行かないと。油断しちゃって布団もカーテンもないから」
「え、じゃあ昨日どうしたの」
「…… どうにかした! じゃあね、またあとで!」

 やばい、口が滑るところだった。やっぱり大きな問題ではないだろうけれど、でも高校一年にもなって男女の双子がべったりしてるのも変でしょう、……してないけど! 一切してないけど!

 比較的近所のモールで生活用品を一通り揃え、これなら誰かに何かを借りる必要もなさそうだという段階まで持って行けたので一安心して寮に戻る。実家はあまり好きではなかったけれど、何も考えずに歩くと実家までの道を行こうとする足に気付いて少し笑った。……同じように、病室までもきっと迷いなく行けるんだろうなと思う。
 母は、どうしているのだろう。笑っているのだろうか。心配だった末の息子がまともに友人を得て、父の呪縛からも(完璧ではないまでも)逃れ始め、理想のヒーローを志して動き始めた。その事実を実感して、喜んでいるのだろうか。――そうだといい。別に、不幸になってほしいわけじゃない。たた正直、面白くないような気もするので、あまり考えないでおこう。

(ドーナツ買ってきちゃった。みんなで食べよ)

 百円セールやってたのでつい。一人一個で全部違う味を、取り合ってわあわあしたい。ジャンケンとかになるかな。
 寮生活は、まだまともに始めてもいないけれど楽しみだし楽しい。家族じゃないけど、他人同士の気遣いと友人同士の気安さがある。そこまで本気で欲しいわけじゃない期間限定商品を、わざと大げさに奪い合って笑うような賑やかさがある。

(甘いのダメな子いなかったよね確か。夕飯は、……お姉ちゃんが持たせてくれた料理ぜんぜん終わらないんだよな。誰かに手伝ってもらわないと……こういう意味でも寮生活めちゃくちゃ便利……)
「おかえり」
「前言撤回」
「なんて?」
「いや……ただいま……」

 寮に入った途端、心操くんがそこにいた。
 なにそれ、と大きな袋を見止められて、ドーナツだよーみんなで分けようねーと我ながら薄っぺらい笑顔で言う。少し不愉快そうにした心操くんが、それでも半分持って共同スペースまで一緒に運んでくれる。親切。優しい。寮生活マジ不便。

「ところで轟、昨日どこで寝たの」
「ッッッ」
「……袋グシャっつったけど平気かそれ」
「大丈夫、こっちの袋はたしか、……中にクリーム入ってる系……」
「だめじゃん」
「いや大丈夫、私は信じるよドーナツ生地を。あと袋の丈夫さを」
「……まーいいや、このへん涼しそうだし置いとこう」

 貸して、と手を差し出され、何の疑いもなく袋を預ける。途端ぎゅっと握りこまれた指先に、意識せず肩が跳ねた。

「で、昨日どこにいたの」
「……なんの話ですかね」
「部屋いなかったろ」

 だめだこれごまかせないやつだ。いや別に悪いことはしてないんだけど。どう説明したものか視線を逸らしていると、握られていた指先がするっと放される。

「カマかけただけだよ」
「………… しれっとしやがって!! 私ばっか動じている!!」
「しれっと嘘つこうとしたろ」
「何の話ですかねー」

 子供っぽいのを承知で目を逸らす。本気で毎回しれっと爆弾落としたり罠にかけたりで私ばかりが動じている。例の発言だってこっちは病院の枕を五回ほど殴ってるんですよ。看護婦さんに見つかって不審な目で見られつつ叱られたわ。

「俺が、言ったこと」

 何かを切り替えるような声だった。
 タイミングよく人の気配のない共同スペース、夕暮れの光の射す室内で、心操くんはこっちを見ない。ドーナツの袋が空調の風にあたってガサガサ言うのがやけにうるさい。

「別に気にしなくていいとは言わないけど、あんまり気にすんなよ」
「……」
「まあ困ってる轟を見るのは楽しいんだけど」
「おい」
「はは」

 誰かの足音が聞こえる。寮の外から、戻ってくる気配がする。
 心操くんは振り返って、少し笑って、それが――知らない人のように見える。

「変わりたくなくて、した話なんだからさ」
「…… うん……」
「ん」

 ガサ、と袋が鳴る。誰かが帰ってきて、ここには寄らずにそのままエレベーターに行ったのがわかる。心操くんはそちらの方を少し見て、そういうこと、とだけ言い残して彼の部屋に向かっていったようだった。
 変わりたくなくて。
 変わりたくなくて、か。

(……うーん?)

 なんか違和感っていうか、結婚ってどう足掻いても変化な気がするけど、変わりたくなくて? か?
 ――轟のこと、『轟さん』にしとくの、やなんだよ。 そう言ってくれた心操くんは、実際のところ病室でなにを見たのだろう。なにを、変えたくなくてそんなことを言ったんだろう。
 ガサ、とまた、今度は持ったままの荷物の袋が音を立てる。そうだ部屋をどうにかしないといけないんだった。夕飯の時間まで部屋を片付け、速達でお願いした荷物を受け取らなきゃいけない。



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2020.05.15