この女の子はいつも、笑うことで何かに区切りをつけようとする。

(もしかしたら、自覚は無いのかもしれない)

 慣れた様子も見せないほどスムーズにそれは行われているようだった。落胆、失望、何かをごまかすこと、照れ隠しをするように、目を逸らすみたいに、視点を切り替えるように、空気を和ませるように、誰かをやわらげるように。ある意味でとても理性的な本能が、彼女の中で笑みに変換されてきたのかもしれない。
 集めすぎた視線から心操くんを庇おうとした時、一頻り泣いた後、少しの痛みの気配を感じる瞬間。お母さん、と、呼ぶのは悪いからと、言ったとき。……自身が息絶えようとしていたその瞬間にさえ。この子は、笑っていた。

(今も)

 膝の上に置いた拳に、力を込めそうになって意識的に手を開く。
 おそらく、優しい子なのだろうと思う。
 誠実で真面目な子なのだろうと思う。自分の感情も誰かの感情も、微笑むことでやわらげて、空気をやわらかくして過ごしてきたのだろう。でも誤魔化してるってわけではなくて色々なところに目を向けられて、相手の努力や誠意や姿勢を見つけてくれる。認めてくれる。傍にいると心地よくて安心する。明るくて、物怖じしなくて、屈託がない。稀有な性質だと思っている。好ましく思っている。尊敬できる子だと思っている。
 なのに、どうしてか、そういうところが――彼女の誠実さが、間違いのない美点が、たまに悲しくてもどかしい。

「……もしかしたら、今は」

 気付いていないんだろう、多分。自分がどんな顔をしているのか、どんな声をしているのか。
 人を好きになったことがある、と言いながら、その気持ちだけは一度も過去形にできていないことも。

「――恋人がいたり、するのかもしれない……」

 自分が、どんな風に、笑っているのか。

「…………」
「勇気がなかったって言ったら、本当にそうなんだけどね」

 ああ、『切り替える』笑顔だ。
 気を遣われるべきは彼女の方だというのに、どうしてか力付けるみたいに肩を叩かれる。そんな顔しないでよ、と優しい声が続く。こっちの台詞だ。こっちの台詞だよ、そんな顔をして、そんな声をして。今でもずっと、好きだって言えなかったその人への――たぶん、『先生』への気持ちをずっと抱きながら。

「……だから、すごいなって思うよ。相手に好きだって言える人のこと」

 立てなくなるまで、走るくらいに?
 そう口にしそうになって唇を引き結ぶ。
 優しい子だ、誠実な子だ、目の前の相手をしっかり見て、その気持ちにきちんと向き合おうとしてくれる子だ。たとえ応えられないとしても。考えて考えて考えて、時間と体力を費やすことに躊躇がない。

ちゃんは」

 ベンチにぺたんと伏せていた手に、手を重ねる。身長はあまり変わらないはずなのに、そうすれば包み込んでしまえるような手だ。小さくて柔らかい女の子の、その気になればどうとでもしてしまえるような。その華奢さを、弱々しさを、自分では知らないみたいな思い切りの良さが不安になる。

「その告白に、応える気でいるの?」

 え、と小さな唇から音がこぼれるのを見る。驚いた様子で見開かれた大きな目がきらきらしていて、だけど、『先生』を思っている時のような熱情や愁いの気配はない。
 それをどうして、切ないように思うんだろう。
 完全に無警戒の様子で、首を小さく傾げたり視線を彷徨わせたりしながら返ってきた答えは『……無くはない、のかな』だった。表現があまりにもあまりだと感じたのか、慌てた様子で言い訳のように言葉を連ねる。いや、あのね、失礼ながら彼を恋愛対象として見たことが無くてね? フォローになっているのかいないのか解らないことを言っている、自覚はあるのだろう、言葉尻がどんどん小さくなっていく。
 無くはない。フェアだし正論だし誠実と言えば誠実な気もする、同じくらい無感情のような気もする。まるでちゃんの気持ちを、ちゃん自身が無視しているような、もしくは――わかっていないような。

 微かな違和感を覚えつつも、もだもだと言葉を連ねている様子が少し珍しくて微笑ましい。
 可能性として、無くはない。
 ずっと好きなままだとしても、『先生』には想いを伝えられなかったし今後会うこともない。たぶん、会えたところで伝えない。それならば。

「……ちゃんは――その人を、受け入れるのかもしれないね」

 自分で言って、傷付いたような思いがした。
 顔を上げた彼女が、意外そうに首を傾げる。そうして少し、考えた様子で、『……そう、だね』と呟いた。同意というよりは思慮の音をしている。

「正直言うとね、受け入れるだけなら簡単なんだ」
「え」
「少なくとも嫌いな相手じゃない。たぶん好きなほうだと思う。だけど、なんていうか…… 恋愛感情をごっそり落としてきちゃったような気がしてて」

 先生のところに。と、付け加えられなくても聞いた気がした。血を吐くように、引き絞るように、繰り返される『先生』の音をまだ覚えている。本人には伝えられなかった『好き』を、懺悔に似た単語を自分は聞いている。
 そういうのを無視して、受け入れるだけなら、できる。わりと簡単にできる。言い切った彼女は、きっと本当に簡単にそれをこなすだろう。相手に一切の違和感を与えず、疑いさえ抱かせず、持ち前の優しさと誠意をフルに発揮して問題なく恋人同士になるのだろう。もともと距離の近い子だし相手の望みを察することに長けている。友人付き合いの延長線上だとして、それを不満に思わせない程度には立ち回れるはずだ。

「私はきっと、同じ熱量は返せないから…… そんな応え方は、誰にとっても良くない気がするし、どう答えたらいいのか、迷う」

 相手を好きじゃないから、じゃなくて。
 同じ熱量が存在しないことが、いつか相手を傷つけるかもしれないから。

「……本当に、すごく、『先生』のことが好きだったんだね」

 考え込んでか俯きがちだった顔が、跳ねるように上を向いた。
 心から誰かを好きになったことがある人の発想だ。同じ熱量が存在しないことに、悲しんだ経験のある人の発想だ。大きな瞳が一瞬滲んで、だけどすぐに――とても形になっていないような笑みを作る。やだな、緑谷くんに言ったことあったんだっけ、……ああ、あの時か、あれは確かにバレるねえ。独り言なのか語りかけなのか曖昧な口調が、少しだけ震えている。

「……誰にも話してないつもりだったんだけどな……緑谷くんにはかっこわるいとこばっかり見られてるなあ」

 泣いてしまっていないのを確かめるように、目元を拭う。はっとしてベンチに押し付けたままだった片手を解放すると、可笑しかったようで笑われた。気が抜けながらもほっとして、そのタイミングで視線が合う。
 前も、こんなことがあったな。きっと同じことを考えているのだろう、ちゃんも苦笑している。……泣いた後だからだろうか、それとも何か、彼女が『先生』に抱くような何かが、あるのだろうか。この瞬間の彼女の眼が、とても特別な輝きを持っているように思えてしまう。
 だけどあの時、本当は振り返りたかったんだ。

「……かっこ悪くないよ。……かっこ悪くても、いいよ」
「え」

 念入りに擦られた目元が、もう涙の気配を残していない。
 今も、本当は。その目元を拭ってあげたかったんだ。
 伸ばす権利のない片手を、ごまかすようにぎゅっと握る。……もしかしたら、彼女に告白した誰かも、同じような気持ちなのかもしれない。
 君の涙を拭う権利が欲しい。
 彼女の気持ちを聞いたら、同じ熱量を返せないという彼女の悩みを聞いたら、その誰かの反応は想像がつく。『それでもいい』だ。『それでもいい』『今は自分を好きじゃなくてもいい』『傍に、いさせてほしい』――……

「……いちばん傍にいる権利が欲しい」
「――」
「あ、いや! えっと、その、告白をしてきた相手が、僕だったら、そう思うんじゃないかなって、思って」

 好きになってくれなくてもいいよ。少なくとも、今は自分と同じような熱量は求めない。
 ただ、傍にいる権利を。他の誰かを牽制できる立場を。なにかあったときに助けに行ける立場を。
 あんまり人に頼ろうとしない彼女を、甘えさせられる人間になりたい。躊躇なく腕を伸ばして、抱きしめられる権利が欲しい。彼女の好意が恋じゃなくてもいい、もしも万が一、いつか誰かに恋をしたなら、そのときは振ってくれてもかまわないから。……きっと、振り向かせてみせるから。
 だけど彼女は、傷ついたような怒ったような、そうできなかったような顔をした。

「……ずいぶん献身的じゃない?」

 どうしてか少し、尖った唇で紡がれた声が低い。

「私はやだよ、そんなの。相手の『好き』に胡坐かいてるだけじゃん。ちゃんと見つめ合って、支え合って、同じ方向を向きたいよ」
「たぶん、できるよ。恋じゃなくても」

 ふいと逸らされていた顔が、とても素直に戻ってくる。その表情がちゃんらしくて少し笑う。轟くんとあまり似ていない大きな目はきょろきょろとよく動いて、いつも素直に感情を示している。

ちゃんは誠実で優しい人だ。相手の気持ちに敏感な人だ。だから、できるよ――恋じゃなくても、愛じゃなくても。ちゃんなりの気持ちで応えてくれる。ちゃんの精一杯を感じ取ることができれば、相手もあんまり不満に思わないでいられるんじゃないかな」
「……」

 受け入れるだけなら簡単、と言うけど、おそらくその器用さを持っている人はあまり多くない。受け入れただけの相手、に向ける誠意の大きさも。
 たとえばちゃんがクリスマスや何かのイベントごとにあまり興味が無かったとして、相手がイベント重視タイプだったら一緒に楽しむ努力をしてくれるだろう。逆も然りで、きっと言葉巧みに相手を乗せたり、無理そうなら大人しく退きつつ自分は友達同士で楽しんだりするに違いない。もしかしたらそれは、恋をするよりもずっと相手を大事にできることかもしれない。

「……そう。そっか。恋じゃなくても……」

 恋じゃなくても、いいんだ……。
 腑に落ちた様子で呟かれた言葉に、自分が言い出したことでもないのにハッとした。

「い、いやごめん! 相手が真剣に言ってるのにいい加減なことはできないっていうちゃんの気持ちはすごくよくわかるし! それがちゃんのいいとこだと思うし! 好きじゃなくてもいいから付き合ってとか言う男の方も一方的で狡いなとは思うっ……」
「あっは、なに焦ってんの緑谷くん。大丈夫だよ、鵜呑みにして即付き合ったりとかしないってば」

 ぱしぱし肩を叩かれつつ、向けられる笑顔が暗くなくてほっとする。何かを呑み込んだのでも、取り繕うものでも、切り替えようとする笑顔でもない。その感覚がすごく安心できる。この子が、憂いなく笑ってくれると、うれしい。

「でもなんか、違う視点が得られたよ。ありがとう」
「……どういたしまして」

 正直ちょっと不安だけど。
 基本的に慎重派だとは思ってるんだけど、変なところで思い切りがいい気がする。そういえばヴィラン連合に攫われた経緯とか理由とか、あっちで何があったのかとか、全然聞けていない。と思って横目で見るも、逆方向に首を傾げて見つめ返してくる顔を、曇らせたくない気がしてしまう。
 ――長い溜息の果てに、半ば存在を忘れていたようなスマホを取り出した。

ちゃん、トークアプリ入れてる? メールでもいいんだけど、なんか交換しよう」
「あ、するする! ていうかしてなかったんだっけ、意外」
「――僕も」

 アドレスを複数交換して、綺麗だけどそっけない印象のアイコンが表示される。らしいな、と思うのが半分、ちょっと寂しいような気がするのが半分だ。
 この写真なに? と聞くと、スマホ買ったばっかの頃に撮った空、と返ってきて納得した。そういう子だよなわかってる、わかってきた、……もうちょっと、何か欲しいような気がしている。

「緑谷くんは……オールマイトだよねこれ? なんかいつもと違う?」
「そう!! 銀時代のコスチュームで映像は多いんだけど立体化は全然してなくてでも一昨年コア層向けに限定数出たフィギュアが驚異の出来の悪さで中古市場に流れまくって結果としてクオリティの上がった再販が続き普通に手が届く程度に出回るようになっ」
「長い長い早い怖い」
「ご! ごめん! つい癖で」
「緑谷くんの、そういうところいいよね。大好きだーって感じのとこ」
「え」
「てらいがないっていうか意地張らないっていうか、好きなものに好きだって言うとこ。いいよね」
「……、」

 ぎゅ、と握ったスマホに視線を落とすも、ぜんぜん画面が目に入ってこない。
 ちゃんこそ。そうやって、いちいち人を褒めてくれるから、些細なところを拾い上げてちゃんと気付いてくれるから、そうやって誰かに好かれて。こうやって。

「……ありがと……」
「? いいえー」

 まるく切り取られた夕焼け空のアイコンが、綺麗で少し物足りない。そんな小さい枠の中でも、少しでも、主張してくれたらいいのに。君の『好き』を、見せて教えてくれたらいいのに。

「…… あの、さ。ちゃんとしては、その、……恋をする可能性っていうのは、もう無いの?」

 口にしてしまってから、ばかなことを聞いたと思う。『先生』。血を吐くような声も、特別な星を宿したような眼も、自分は見て聞いて知っているのに。肌で触れて、絶望にも似た絶対感を感じているのに。

「え、無くはないでしょ」
「…… え、あるの?」
「あるでしょ! なんでよ!」

 ただ、さらっと返された言葉は正直なところ意外だった。
 思わず疑う調子で聞き返してしまって、彼女こそ信じられない様子で聞き返してくる。

「そんな意外そうな顔しないでよ、人生に何があるかなんて解んないじゃん。明日運命の恋に落ちるかもしれないし、明後日どっかの角で食パンくわえた女子高生にぶつかるかもしれないし」
「後半は何か違うような」
「いいの! とにかく! 置いてきちゃったような情熱が、今後ずっと無いってことはないでしょ、多分だけど、……そうでなきゃ困るよ。生きてるんだから」

 その言葉を妙に重く感じたのは、どうしてか。つい凝視してしまったのを感じ取ったのだろう、笑ってベンチから立ち上がる。ぐい、と背中を伸ばして深呼吸したちゃんは、以前よりずっと――確かに、ここにいるように見えた。どこかで掻き消えそうな存在感だった彼女の足が、この地面にしっかり付いているような気がする。どうしてそんな風に思うのかはわからないけれど。

「……たぶん、つまんない切っ掛けだと思うんだ。私が、人を好きになるのは」

 だから、きっとあるよ。
 夜風に髪が揺れて、ようやく時間を思い出したように振り返る。寮の方向はまだ明るいけれど、人の気配はほとんど無い。そろそろ帰らなきゃね。思い出したような声。もったりと重い夏の夜を、小さな風が通り抜けて行っているのに、いまさら気付く。見つめすぎたのか、反応した様子で振り返った彼女が、やわらかく微笑んだ。

「ほら、緑谷くん、もう行こう。長々ごめんね、ありがと。おやすみ」
「う、うん…… 待って! 送るよ!」
「ここ学校の敷地内だよ?」
「いやでも、お、送りたい……!」

 立ち上がると、自分より低い位置にある頭がくすくす揺れる。すらっとして背の高そうな印象があるけれど、自分だって男子としては決して大きな方ではないけれど、知っていたはずの身長差をどうしてか意識してしまう。
 じゃあ、お願いしようかな。笑顔と同じく柔らかく大人びた調子で紡がれた許しの言葉に、ただ頷いて隣に立った。急激に、まだ帰りたくないと感じるけれど、――同じ敷地内にいる。同じ地面の上にいる。スマホを通して繋がれる。その幸福感で、追いやってしまえる。

「……あ、そういえばね、私と焦凍が双子なの内緒ねって話をしたじゃない。あれ、無しになった」
「え、……そうなんだ」
「仲直り的なことをしました、たぶんね」

 付け加えられた『たぶん』の意味は解らなかったけれど、照れ隠しのようなものだと――思う、ことに、しておく。



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2020.05.30