ひとは鏡、という表現がある。
 誰かを優しいと思うならば、それはあなたが優しいからだ。誰かのどこかを気に入らないと思うなら、それはあなたと似た部分だから。
 どこで聞いたり読んだりした話だったかは忘れたが。その説が本当なら、彼があまりにも無条件に他人を信じるように見えてしまうのは、彼が同じように信頼を向けられている人だから、なのだろうか。

(……すっかり朝寝坊の癖がついちゃったなあ)

 寝ぼけ半分で出た共同スペースには、誰もいない。時計を見上げると朝でも昼でもない中途半端な時間帯で、そりゃ食事してる子も登校前にダラダラ喋ってる子もいないわ、と少し思う。各々勉強したり講義を受けたり自室で自由に過ごしているのだろう。心操くんもそうだけれど、ヒーロー科への移籍を目指して特訓している子も多い。みんな前向きで努力家でえらいな…… 私はこの時間まで惰眠を貪っていました……。
 部屋でじっとしている気にもなれず、眠るにも飽きたので軽く身支度を整えて寮を出る。自販機に寄って、図書室にでも行こうか。たぶん開いているだろう。そうして歩き始めるとすぐに、そこかしこで人の気配がした。誰かが走っていたり、誰かが笑っていたりする。夏休み中というより、長い休み時間の途中のようで不思議な感覚だ。どこかで爆発音と、わあわあ盛り上がるような声がした。ヒーロー科かな、サポート科かも。サポート科にできた友人――のつもりでいるのは自分だけかもしれないが――は、きっと突然の寮生活にも戸惑うことなく研究三昧だろう。あまりにも容易に思い描けて、少し笑う。羨ましいな、彼女のことも、……緑谷くんのことも。
 つい先日、切実さを感じるほど一生懸命に言葉を紡いでくれた男の子を思う。

 ――ちゃんは誠実で優しい人だ。相手の気持ちに敏感な人だ。
 そういうふうに言われたことは、多分、ない。お前ほんと鈍いよなとかデリカシーが無いとかならまあ結構言われる。

 ――だから、できるよ。恋じゃなくても、愛じゃなくても。ちゃんなりの気持ちで応えてくれる。
 緑谷くんにそう言われると、本当にそんな気がしてくる。彼が信じて言い切るのだから、きっとそうだと思ってしまう。

 ……私こそ、随分、なんていうか……盲目というか、緑谷くんに弱い部分があるよなあ。理想を形にしたような男の子だからだろうか。彼のように――彼に、なれたらよかったのにと、思ったことがいつまでも燻ぶっているのだろうか。言葉にしようとすると、なんとなく、としか言えないような気持ちなのだけれど。
 なんとなく、彼のことは信じられるし信じたい。なんとなく、緑谷くんの力になりたいし、あの気の抜ける顔で笑っていてほしい。なんとなく―― 彼がそうだと言ってくれるなら、それを、本当のことにしたい。
 君が信じてくれるなら、それを裏切らないでいたい。

(つっても、誠意、……誠意とは?)

 誠意、で検索をかけてみたけれど多分そういうことじゃない。まごころ、私欲を離れて正直に熱心に事に当たる心、だそうです。違和感しかない。そして実の弟の『俺のもんになってくれ』に対する誠意ってなんだ。レアケースすぎるし万一監視を受けている可能性を考えると検索しづらい。あと心操くんとも気まずいというか距離の開いたままなのでどうにかしたい……。プロポーズでぎくしゃくした私も悪いけど心操くんも何言ってんだかよく解らないんだよ、いや解らなくはないけど意味が解らないんだよ。轟さんにしとくのが嫌とは。同情と心配と世話焼きで正義感の強さゆえの云々なのだろうが、……それは、わかってるんだけど。
 焦凍の『好きだ』も心操くんの『結婚しよう』も、おそらく両方、真心と呼べるものではある。両者にそれぞれ真剣に、返す気持ちがあるとすれば。
 自販機の前に辿り着き商品を選ぶ段階で、うろ、と指が彷徨った。いつものパッケージを、なんだか今は選びたくない。

 ――恋をする可能性っていうのは、もう、無いの?
 緑谷くんのその質問に、無くはないでしょう、と答えた。そうじゃなきゃ困るだろうと。相手が誰かは置いておいて、その気持ちの強さも置いておいて、無いってことはないだろう。いつか誰かを、何かを好きになる。

「…………」

 そうあるべきだと思う。
 そうあってほしくない、と、少しだけ思う。

(……いつまでも亡霊でいちゃいけないんだよ)

 生きてるんだから。こっちで、生きてるんだから。私にとっていいことであるはずがないし、先生にだって。本人のあずかり知らぬところではあるけれど、先生を言い訳にするべきじゃない。ていうか片想いの分際で何様だ私は。
 ――男の子はね、呪いも解いてあげたいものなんだよ。
 悪意を煮詰めて生まれたような紳士の声を思い出す。呪い。呪いか、そう言ってもおかしくないかもしれない。その場合、根源は前世の私になるけれど。ヒーローの端くれ、。ヒーロー名はセイレーン。先生に恋をして、ジェノスと無駄に張り合って、キングさん達が好きで、ソニックと顔を合わせるたびに斬り合って、――『三度目』もあって――お父さん、お兄ちゃん、…………みんな……。

「――……」

 口を開いたのをきっかけに、何かの音をこぼす。
 急に唸り始めた自販機の運転音に、紛れるほどの音量で小さく歌うのは簡単だった。ことあるごとに零れ落ちようとする歌を、調整はできるけど制御はできていない気がしている。これもあまり、いいことじゃない。

(私は……たぶん、あんまり歌わないほうがいい)

 入院中、やたらと個性関係の疑いをかけられた時。マスクやら首に包帯やら、明らかに声を警戒されていた。
 前世でだって、偶然が重なっただけとはいえ、おかしなことが多かったのだ。先生やジェノスのおかげであまり意識しないでいられたけれど。お父さんやお兄ちゃん達は褒めてはくれたけれど。でも――

(……『セイレーン』)

 人魚と言えば聞こえはいいが、その実態は船乗りを惑わせて船を沈め、死肉を貪る怪物の名だ。
 喉元に手を当てる。あっちで死んでこっちで目覚めて以降、なんとなくスムーズに声が出るようになっている、気がする。以前より力を込めやすくて、抜きやすい。操作が容易というか、イメージ通りに声が出る。兄が取り戻し、父が修復してくれた声。あの声を持って行けなかったら、来世きっと惜しいだろう。そう言ってくれたという兄。ゾンビマンさん。怪物を、慈しんでくれた人たち。彼らをいとおしく思う、今でも感謝している、私が家族というものを認識していられるのは彼らのおかげだ。どう足掻いても満たされなかった幼少期を、前世の記憶を言い訳に置き去りにしてきた小さな女の子を、抱き上げて守ってくれた人達がいたからだ。だけどその記憶に引きずられるのは、彼らだってきっと望むところではないだろう。
 誠意。
 誠実。
 いつまでも亡霊でいちゃいけない。

「――……いた!!」

 いきなり響いた声にびくっとして、とっさに振り返った肩が自販機にぶつかった。
 あ。と思った時にはガコンと重い音がして、取り出し口に一本なにかが落ちている。けど、まあ、それはいい。息を切らせている彼女は走って来たのか、『あの』『ごめん』と呼吸の隙間に聞こえた。そんなに焦らなくても。

「じろうさん? だよね。どうしたの、自販機に用事?」
「う、ん、……いや、」
「どうぞどうぞ。私はもう買ったから」

 どうせ何を買うかも決めていなかった一本だ。赤い背景に女の子のイラストのパッケージを見て少し沈黙してしまったものの、話のネタになるだろう多分。自販機の前から退いたものの、彼女はそちらには目もくれずにじっと私に視線を向けてくる。思わず首を傾げると、はっとした様子で『ごめん!』と謝られた。

「ごめん、あの、自販機じゃなくて、轟さんに用事で」
「え、私?」

 焦凍のことだろうか。
 と思ったとたんに『好きだ』発言を思い出して気まずくなるけれど、……待てよ、恋人ができれば双子の姉に好きだ何だと言わなくなってくれるんじゃないか? いや、だって普通に付き合える可愛い女の子の方がいいでしょ。ヒーロー科同士だし性格も能力もお墨付きをいただいているようなものだ。障害も少なそう、お姉ちゃんは反対しません。弟をまともな道に戻すためだ、個人情報の一個や二個や三十個くらいは流したって許容範囲内、のはず。

「いいよ、なんでも聞いて?」
「……あっ、あの、……今、歌ってたの、轟さんだよね」
「――」

 その質問は、疑問符をつけていなかった。
 予想と違う内容に言葉を失った私に、嫌なことだったらごめん、と素早く謝罪が紡がれる。だけど。そう言い重ねた彼女の瞳が、強い。

「す、ごかっ…… すごかった! 夢でも見たのかと思った! あの、やっぱり、そういう個性なの? サイドキックするの? 歌手のほう? 事務所はもう決まってる? ヒーロー科に移籍狙ってたりする? 心操とも仲良かったし、なんか関連した技とか――」
「ちょっ、多い多い、緑谷くんか」

 ほぼ初対面だというのに思わずツッコミを入れてしまうと、『緑谷……』と何故だか落ち込んだような顔をした。なんで! 緑谷くんいいじゃん! 擁護するより先に気を取り直したようで、前のめりだった背中がしゃんと伸びる。彼女のまっすぐな黒髪が、顔の横でさらりと揃う様子が好ましい。

「何日か前も、どこかで歌ってたよね」
「……」
「ごめん。ウ、私、そういう個性で。その時も探したんだけど、途中でわかんなくなっちゃって――でも、ずっと、探してて」
「…………」

 何日か、前。
 まだ入院中、校長先生に連れてきてもらった日のことだろうか。そういえば寮に入ったその日、焦凍を追いかけてきたとばかり思っていたあの日も、私は小さく歌っていたはずだ。トランクの音に紛れるほどの音量で。

「……、聴かれてるなんて、思わなかったな」
「……ごめん」
「や、謝ることじゃないよ! 全然! 私が勝手に歌ってただけだし! でも、ごめん、無個性なんだ私」

 できるだけさらっと言ったけれど、彼女は信じられないものを見たような顔をした。
 ……うんまあ、焦凍に彼女ができるのどうこうの話をする前に自分が無個性ってことを忘れてたわ……。無個性の身内がいる奴とか結婚相手にはちょっと、って人も多いんだった……。やはり私は消えるのが一番では? 誰にとっても一番では? 野望は野望として頑張るとして、お姉ちゃんのためにも焦凍のためにも行方をくらまして後々こっそり戸籍を分けるのが最善な気がする。なんでそこまでしなきゃいけないんだという気持ちも無くはないけど、私の自由のためでもあるしな……あっ、もしかしてこれを簡略化したのが結婚か? 心操くんの提案、めちゃくちゃ合理的だった……? いや合理に寄りすぎてるだろう、人権を考慮しろ。いくら友達だと思ってくれているとはいえ身売りみたいな真似すんな。

「ッす、すごいじゃん!!」
「え」
「無個性で! あれ?! すごっ、え、本当に?! 本当に天使じゃん!! ギフテッドじゃん!! えっ嘘マジで、何、どんなことしてんの?!」
「え、お、おお、なになに? なにが?」

 こういうパターンで話しかけてくる人は大体こっちが無個性を暴露すると何故かキレたり必要以上に見下してきたりだったんだけど、なんだこの状況、いや別に疑っていたわけではないんだけど、そういうのを期待していたわけでもないんだけど。反応に馴染みがなさ過ぎて戸惑う。顔を真っ赤にして喋り続けていた彼女がはっとしたように口を閉じて、見るからにそわそわしながら見つめてくる。かわいい。そうじゃない。

「…… あの……じろうさん……」
「はい!」
「…… 褒めてくれて、ありがとう」

 慣れないけれど、そう言ってみる。よく知らない人に、しかも歌を褒められるなんて、たぶん初めてだ。照れくさくて視線を外しつつになってしまったけれど、きらきらの笑顔で頷いてくれたので、きっと間違いではない。間違いでは、ないんだけど。

「……でも、すごいよ。個性じゃないなんて嘘みたい、……あ、疑ってるとかじゃないんだけど」
「大丈夫、わかるよ」
「……初めて聴いた時、なんかすごく……こう……ぶわーってして、力沸いたっていうか、他に誰に言っても気付いてもらえなかったんだけど」
(まあ聴力個性でもなければ聴こえないだろうな……)

 嬉しい、半面、よくないことをしてしまったような気がしている。
 数分前まで捨てるか、せめて仕舞い込むかしようと思っていた歌だ。あんまり人には聴かせちゃいけないと思っていたものだ。反応に困って口を閉じてしまっている私をどう感じたのか、ごめん、困らせた? と予想外にしょんぼりした顔で言われてしまって首を振る。クールそうな見た目をしているのに反応がかわいいよお……私やっぱ女の子に弱いっぽいよお……。

「あんまり、いいものじゃ、ないんだ」
「……」
「その、じろうさん褒めてくれてるのに何だけど…… あんまり、自慢できる動機じゃなくて」

 どうしようもない。どうしようもない、告げることもできなかったような歌だ。自滅した恋の亡霊だ。いつもいつも、自分の無力さにばかり打ちひしがれている。おかしな偶然を呼ぶことの多い歌だ。セイレーン。死肉を貪る怪物の名前。だけど父と兄が取り戻してくれた声。愛していて、疎んでいて、きっと隠さなくちゃいけないもの。
 手の中でもてあそんでいた缶を、ぎゅっと握りしめる。

「……天使だと、思ったんだよ」
「……」

 天使って。
 と、言えずに彼女を見返す。どうしてか悔しそうな顔をしている彼女が、すごかったんだよ、と、まるで責めるように言い募る。

「本当に―― 本当に、光が、差したような気がした。しばらく動けなかったし、動けても、これ白昼夢かなんかかなって」
「……」
「訓練中だったから、足元崩れて、それで気付いて、走ったんだけど、追いつけなくて、探せなくて、……それからずっと、耳を澄ませてた」

 特徴的な形の耳たぶが揺れる。それが彼女の『個性』なのだろう、空を泳ぐように天を向いて――まっすぐ私に向けられる。

「ゴスペルとかそういう……神や自然や歴史や、人ならぬものに捧げる音楽っていうのがあって。技術の粋を尽くしながら、誰の方も向いてない。人間の力を結集してるのに、人間のためには作られていない音楽が、あるんだけど、……それを、思い出したんだ。人のために作られる美しさっていうものもあるけど、それとは別種の高潔さがあって、祈りの軌跡みたいなものがあって、そういうのに似た、ひたむきさを、聴いた」
「……、」

 吸った息の詰まる様子まで、彼女に聞こえてしまっている気がした。
 イヤホンジャックによく似た形状の先端が、まるでそこに正しい端子が存在するみたいにじっとしている。胸に抱いた、ひんやりしていたはずの缶が、境目もわからないような温度になってしまっている。

「……あんな歌声を持っていたら、いいことばっかりあったわけじゃないっていうのも、わかる。でも」

 でも――と、繰り返した声の弱々しさにつられるようにして、尖っていた先端がへにょりと下がった。

「……そんなふうに言わないで。ギフトだよ、間違いなく…… あんまり、好きな言い回しじゃないけどさ、『神がそれを許した』としか表現できないようなものだよ」

 ギフト。ギフテッド。
 神様から与えられた、特別な才能のこと。それを受けた人のこと。そんな映画を見た覚えがある。
 彼女こそギフトを持って、恵まれた『個性』の特別な耳でもってして、そんなふうに言う。無個性の私に。怪物の歌を。

(………… お父さん。十兄)

 あなたたちが取り戻してくれた声を、そんなふうに言ってくれる人がいるよ。この、世界に。

(先生)

 先生。先生。献身のふりをしたエゴを、告げられないくせに終わることもできなかった恋を、ただ、ただ、誰のためにもなれなかった歌を、こんなふうに、言ってくれるひとがいます。ほとんど初対面の、何も知らないはずの相手を、こんなに手放しに誉めて認めて、許そうとしてくれる人がいます。助けてくれる人がいます。救おうとしてくれる人がいます。彼女だけじゃなく、他にも、緑谷くんや心操くんや校長先生や、きっと私が知らないところにも。
 この世界にも、ヒーローがいるみたいです。
 それを一番に報告したいのは、やっぱり、あなたなんです。

「………… ありがとう」

 今度こそ、とても素直に、感謝を伝えられた。

「ありがとう、じろうさん」

 そうだ。私はこの命でできている。先生への想いでできている。――たとえ忘れてしまっても、絶対にそれは変わらない。忘れることを、恐れなくたっていい。忘れないことを、恥じなくたっていい。
 私は変わらなくていいし、変わることだって選んでいい。
 選びたいものを、選んでいいんだ。

「……」
「じろうさん?」
「あっ、いや、うん! 別に! ご、ごめん!」
「じろうさんめっちゃ謝るね?」

 別に謝られるようなことないと思うんだけどな。
 本人以上にわたわた暴れていた耳たぶがシュンっと元の長さに戻っていく。しかし自販機の運転音に紛れる程度の歌声と、前回は屋上でボリューム抑えなかったとはいえあの高さだぞ……そんなものまで聞こえちゃうんじゃ、日常生活が逆に不便そう。あの耳どうなってんだろう、ちょっと触ってみたい。じっと眺めていると、そろそろとまた長くなっていった耳たぶが彼女自身の手で捕まえられた。照れるようにその先端をつつき合わせながら、控えめな視線が向けられる。

「それで…… いつまでも盗み聞きみたいの、良くないと、思って」
(いい子だなあ、マジで私が勝手に歌ってただけなのに)

 でも言われてみれば確かに、聴かれてると思うと歌いづらい。というのが顔に出ていたのか、本当ごめん、とまた謝られてしまう。

「い、いいんだってば、ただの鼻歌みたいなもんだし、むしろ変なもの聞かせてごめんっていうか」
「そんなことない!」
「否定が早い……ありがとう……でもあんな音量まで聞こえちゃうんだと、なんていうか、大変じゃない?」
「……、」

 何気なく口にした疑問だったのだけれど、彼女は一瞬硬直したようだった。
 それはすぐに解けて淡い微笑になったけれど、ううん、と答えた声がなんだか甘く、愛おしさのにじむような音をしている。

「大丈夫、……好きなものは特別よく聞こえるし、歌ってそういうものなんだよ」
「……そう、なら、よかった」

 って言っていいんだろうか。救助を求めるときにガンガン叩いても他の音に紛れちゃうけど、五七五とか三三七で叩いてたら気付いてもらえたとかそういうニュースを見たことがある。そういうことだろうか。リズムが人の耳に届くようになっているとか、そういう?
 ――あんな歌声を持っていたら、いいことばっかりあったわけじゃないっていうのも、わかる。
 そう言う彼女も、その個性に、ギフトに、苦しんだ時期があるのかもしれない。……どんな恵まれた能力も、良い方向にばかり動いてくれるわけでもない、か。先生も、そうだったもんな。

「だから、できれば許可を取りたくて――また、聴かせてくれる?」
「……」
「なんとなく歌ってそうなやつは聴かないように気を付けるから!」

 それ結局は聴いているのでは。そして『改めて場を設けて彼女に聴かせる』みたいなことになるのでは。どういう状況だ。アイドルか何かか。

「……機会が、あれば……?」

 返答に迷って出した答えにきゅっと唇を結んだ彼女は、きっとなんとなく解っている。私も口に出してから、これ遠回しなお断りだ、と思った。いやでも機会があれば別に。機会があるかどうかがわからないだけで。――聴かれる分には構わない、それは確かにそうだ、だけど。彼女のために歌えるかというと、多分、できない。
 神様に捧げるみたいに。
 私はまだ、あちら側を想うようにしか歌えない。
 引き結ばれていた薄い唇が、ゆるりと開いた。

「……ウチの演奏も、いつか、聴いてもらえる?」
「え…… うん」

 想像もしていなかった質問にきょとんとしてしまいつつ頷くと、安堵したような笑みがこぼれる。さっきまで泣きそうだったのに花のように笑う顔にぐっとくる。かわいい。今日これ思うの何度目だ、かわいい。

「楽器とか、なに好き? ジャンルどんなの聴く? ウ、私が聴くのロックばっかりなんだけどさ、轟さん多分いろいろ――ていうかID交換しよ、今スマホある?」
「待って待って、よく考えたら練習中か何かだったんじゃないのじろうさん」

 私服だろうと思っていたけれど、今の時間とかヒーロー科の事情とか彼女の性質とか考えたらこれがヒーローコスチュームである可能性もある。言ってみると案の定はっとした様子で、出したばかりの画面を見て『やばい!』と叫んだ。授業中か特訓中だったかあ……来たってことは途中で抜けてもいいやつだったんだろうけど……。

「ごっごめん轟さん、また!」
「うん、 ――ねーじろうさん、次からは普通に喋って大丈夫だからね!」

 駆け出していた彼女がいい勢いで振り返り、髪も耳も弧を描く。白い頬にじわじわ赤がのぼっていくのが見える。

「……響香、だから! よろしく!」

 言って、逃げるように走って行ってしまった彼女の背中を見送り、溜息をひとつ吐いて踵を返す。きょうかちゃん、か。呼び捨ての方が言いやすそうだけど、さすがにそれは早いかなあ。響香。響香ちゃん。きょうちゃん。……響香ちゃん、かなあやっぱり。ひとり練習しながら缶を放り投げたり受け取ったりしていると、遠くで派手な爆発音のようなものが聞こえた。ヒーロー科どういう練習してるんだ。



next
===============
2020.06.05