耳郎がはしゃいでんの珍しいな。誰かの声に何気なく視線を向け――その先にいた相手に、ぎくりと全身が硬直するのが解る。あの女の子の名前を知っている、『ちゃん』だ。緑谷が、抱き締めていた女の子だ。目の前が、赤く歪む。風が吹いて、その音に、ひゅう、と頼りない細い音を聴いたような気がした。


 ひゅう、ひゅう、と、頼りない音がしていた。
 夜の繁華街だ。騒ぎの最中だ。細い喉を通る風の音が、掻き消えそうなその音が、耳に届くのがいっそ不思議なほど騒がしいのに妙に近くて生々しい。見えているのかいないのか怪しいような虚ろな眼が、少し逡巡して、前を――緑谷を捉えた瞬間、ふっと笑んだ。
 なに、泣いてるの。状況にしてはあまりに甘やかな声が、ゆっくりと紡がれる。頭や背中から未だに止まらない血を流して、誰が見ても命の危機で、だけど笑って――囲んでいる俺達の方が、むしろ血の気が引いていた。ちゃん。ちゃん。知り合いなのか何度も名前を呼ぶ緑谷との会話、本当は聞いちゃいけないのかもしれないやり取りから、席を外すこともできずに小さな頭を支える。そこから流れる血の感触がする。

 ――生きることを諦めてしまった人の身体は、とても重いんです。
 いつどこで聞いたんだったか、たぶん救助か医療のドキュメント番組だったと思う。顔もなにも覚えていない番組の一部が、切り取られたように浮かび上がってきていた。
 ――助かることを、諦めてしまう。そうなったら、もう、……それでも救うことが私達の仕事ではありますが……とても、難しいものになります。
 聞いたことがある。読んだことがある。授業でもやった気がするし、誰かとも話したような気がする。諦めた人間は砂の詰まった麻袋のように重くなる。不思議な話だな、血が減った分軽くなってそうなもんだけど。程度に受け止めていた知識が、それでも重量が増えるわけじゃねえんだろ、鍛えないとな、なんて片付けていた知識が。あたたかい血に濡れる掌を指の先から冷やしていく。なんとかしなくちゃいけない、何かしなくちゃいけない。気ばかり焦いて、声も出せない。ただ、ただ、手の中にある命が、自分と変わらない年齢の女の子が、息絶えていく感触がする。重くなるなんて嘘だろう。こんな、枯れ枝みたいな頼りない気配で。指先に少し力を込めれば壊れそうな、と、思うのに、力は少しも入らないしその頭を支えた状態から動けない。
 ――ひとは死ぬと軽くなる。
 また、ドキュメントで聞いたような一部を思い出す。

 ヒーローになりたいと思った時、自分は何を志したのだったか。
 逃げない男になりたいと思った。正しい時に正しいことを行うために、力が必要だと思った。勇気を育てる必要があった。自信を持つ必要があった。ここで何かしなければ、諦めてしまっては、ヒーローでも男でもなくなっちまう――つい先日叫んだ言葉が、胸に苦く痛む。ヒーローには成れたか? 男には? 脳の裏で誰かが嗤う。
 何もできない。
 今、自分には、何もできない。
 抑えているはずの傷口は塞がれず、鮮やかなほどの真紅は逃げるように流れていくばかりだ。治してやれず、止めることもできず。死を受け入れたようなことを言う女の子を、安心させることも、励ますこともできない。喉の奥が引きつったようになって、たった一言も出てこない。
 対照的にどうにか彼女を安心させようと、大丈夫だと繰り返していた緑谷も、彼女の『おねがい』に絶句してしまった。
 ――息を吸って、なにか、言おうとしたのか、それとも留めようとしたのか。細い肩と後頭部を支えた腕に、少し距離を取る。緑谷の、入学当時より逞しくなった腕が、ひどく震えながら彼女を掻き抱いた。

 この期に及んで、甘く見ていた、なんて言うつもりはない。何か選択を間違えたということもないだろう。爆豪は助かって、自分達はどうなるか判らないにしても、目立った怪我もなく戻ってきた。たとえ退学になろうが、やらなきゃいけなかったことだ。自分で自分を憎んでしまわないように、ヒーローになりたいんだと言えるように、自分を誇れるように。
 だけど。
 血ばかり熱い、冷えていく肉体。掻き抱いた緑谷に、少し笑って、抱き返そうとしたんだろう、指先が少し震えて――かくんと落ちた一瞬。眠そうにそっと閉じた瞼。救急車がやってきて声をかけられ、その場でやっと呼吸を思い出した。知らないうちに呼吸を止めていたせいだろう、自分の心臓の音が妙に響く。ガンガン痛む頭で、野次馬の声にかき消されるような質問を投げかけられながら、誰かが指した中継映像に視線を向ける。
 両手を濡らす血が風に冷えて、妙に寒い。固まって皮膚が引っ張られるような感触がする。だれか。だれか。噛み合わなくなる歯の奥で呟いていた言葉は、幸い誰にも届かなかった。だれか、たすけてくれ――あの子を助けてくれ。俺は、俺には、むりなんだ。ヒーローを志す身でありながら。諦めないことだけを信条にしてきた心が。ただ無力を突き付けられていた。
 怖かった。
 自分の力の及ばないものが、目の前で展開していく。鍛えたはずのものが、これまでずっと積み上げてきたはずのものが、なにひとつとして通用しない。


「……『ヒーローのいる世界の子供』だとよ」

 病院、警察、先生や校長。いろんなところで延々と話をさせられたらしい爆豪は心底うんざりした様子だったが、それでもぽつりと零すように言った。
 寮に入ってすぐの夜だ。ちょうど二人きりだったのもあったかもしれないし、俺がまともな顔色をしていなかったせいもあったのかもしれない。爆豪、あの子と喋ったりしたのか。前触れもなにもない台詞だったにもかかわらず、『あの子』はすぐに通じたから、爆豪も考え込んでいたのかもしれない。

「え」
「テメェは無個性の癖にこの俺を捕まえて子供扱いとはよオ……」

 必要ない憎まれ口を敢えて叩くのでこいつの天邪鬼も大概だ、とは思うけど、見方によっては素直なのかもしれない。つまり子供扱いされたことにイラついている。そこにしか、イラついてはいない。ていうか無個性なのか、あの子。そういやヴィランもそんなことを言っていた気がする。
 今も意識を取り戻さず入院中――ということしか教えてもらえなかった――彼女については、未だ何もわからない。生きている、意識はない。今はそれ以上の詮索はするな。ばっさり切り捨てた先生の言うことは、たぶん罰のうちでもあるんだろう。『庇われた』らしい爆豪には、その限りではないのかもしれないが。

「ヴィランどもの真ん中でヘラヘラヘラヘラしやがって……連れてかれて……俺も、ほとんど何も知らねえよ、あんな女」
「……」

 無個性。雄英の制服を着たままの女子。縛り付けられていた爆豪と違い、手枷も足枷も付けられずに笑っていたという。
 文字面だけなら疑っているようにも聞こえなくもない。ただ、爆豪の憎まれ口は、本人でも自覚していそうなくらい力が入っていなかった。そうしてそれは――おそらく爆豪よりは自分の方が、理解できる事象だった。誰もがその身に臆病の虫を飼っていて、けれど大小も強弱もある。その性質によってだけ、理解しやすいものもある。無個性、体型は平均かそれより細い程度の女子。たぶん笑って上手く躱すことでしか生存権を得られなかった弱い命。
 虐げられた人間は、怯えている人間は、泣くよりも笑顔を取り繕っていることの方が多い。

「…………あの子、助かったんかな」
「知らねえ」

 おそらくそれは本当だろう。爆豪に何も知らされていないなら、きっと、知らせるほどのことがまだ無いということで。『生きている。が、意識はない』。

「お見舞いとか行けねえかな」
「行ってどうすんだ」

 そう言われるような気はしていた。

「行ってどうすんだ。俺らの領分じゃねーわ」

 その通りだ。

「……起きた時、こっちがシャンとしてねーと、……ムカつくだけだろーが」

 顔を上げる。
 寮に入って早々に喧嘩して、謹慎と掃除当番。大人しく、と言うには語弊があるが罰を粛々と受けている爆豪の横顔には未だ傷が残っていて、見てもいない喧嘩とやらの激しさを示している。……緑谷も、同じ気持ちでいるんだろうか。前から熱心な性質ではあったけれど、ここしばらくは没頭するように自身を追い詰めている緑谷。あの日、抱きしめた彼女を長いこと離せずにいた姿。
 なにも、なにも知らなかったんだ。なにも――見えてなかった。
 血を吐くように言っていたあいつは、それをどう片付けたんだろうか。

「……もしかして緑谷と喧嘩したのってそのことでか?」
「…… は?」
「え、あの子って緑谷と友達か何かなんだろ? 名前で呼んでた、し、」

 ――あ、余計なこと言った。咄嗟に口を閉じたものの、しんみりしていた横顔が見る間に鬼の形相になり『デェクゥ……』と唸るのを聞いてさっと視線を逸らす。ごめん緑谷……なんか仲直りしたっぽいし大目に見てくれ……あと結局あの子との関係聞けてない。
 しかしまあ、結局、そうだ。やるべきことは変わりない。救えなかったものを次は救えるように、助けられなかったものを次は助けられるように。傷だらけになってしまった女の子に、大丈夫だと 笑ってやれる、ヒーローに、

(…………)

 何度。そう自分に言い聞かせてみても、あの日に感じた途方もない無力感が、大きくて暗い穴が口を開けて待ち構えているような、その感覚が、ずっと消えない。



「――あ」

 誰かの声に、はっと我に返る。耳郎と緑谷と話していたらしい『ちゃん』が、こっちを見ていた。予想していなかった事態に思わず一歩下がるも、それよりずっと軽やかに小さな足が近付いてくる。

「助けてくれた子だよね!」
「――」
「えーと、覚えてない? キ…… ヴィラン連合でゴタゴタあったときに助けてもらったんだけど」
「いや、……わかる、」
「本当、よかった。あの時はありがとう。おかげさまで助かったよ!」

 生きている。動いて、笑って、あの日とは別人に思えるくらいはっきりした声で喋っている。思わず彼女の肩に手を触れた。すぐに折れてしまいそうな細い肩。だけどあの枯れ木のような気配は無い。ちゃんと、生きた人間の感触がする。

「……?」
「、よかっ、た」
「……」
「よかった、……ごめんな、あのとき、乱暴にして」

 頭から血を流している人間を、雑に担いでのハイジャンプ。あれがベストだったし他にどうしようもなかったとは理解している、けれど、もし違う手段があったら。もっと早く、安全に彼女を確保できていたら。何度も何度も、そう考えた。夢にも見た。血を流す彼女の前で成す術もない自分。緑谷もいなくて、力付けてあげることもできなくて、救急車の音がいつまで経っても近付いて来ない夢。ただただ震える腕の中で、――ふっと、唐突に軽くなる抜け殻の夢だ。

「…… ヒーロー科の人はみんなストイックだね」

 苦笑した彼女が、肩にかかったままの手を叩いた。反射的に腕を引っ込めて謝る、それにも少し笑って首を振る。

「助けてくれたよ。後から状況聞いたけど、誰が欠けても出来なかった救出劇だったんでしょう。悔やむことない」
「……」
「……正直言うとね、助からないと思ってた。実際に後遺症もなくこうやって立ってるの奇跡みたいなもんなんだってさ。その奇跡を起こしてくれたのは緑谷くんときみだよ。ありがとう、ヒーロー」

 笑う女の子が、あの日よりずっと確かな存在感を持ってここにいる。何もできなかった。できることを、探すことさえできなかった。彼女が何を言ってくれようと、あの日の無力を知っている―― というのは顔に出ていたのか、何を聞いたわけでもないはずなのに『ヒーロー科マジで頑固だな』と呟いた。

「私が知ってる限り全員がマジでストイック頑固…… きみのことですよ緑谷くん」
「エッ流れ弾」
「心操くんもですよ」
「完全なるとばっちり」
「いやー心操くんに対しては本当に日々日頃常々そう思ってる。……それ含め資質なのかな」

 最後の台詞は、誰に聞かせるつもりのものでもなかったのだろう。後ろに向けていた顔を戻して視線を合わせた女の子が、まっすぐに目を見て、笑った。少し、寂しそうに。

「助かったと思ってるんだよ、本当に。だからきみも、少し自分と私を信じてくれないかな」
「…… え、」
「私が助かったっつってるからには助かったの! どうしても気になるなら今回は結果オーライで済ませて、次に活かしてください!」
「いって!」
「轟、お前その『話のシメが雑』の癖を治した方がいい」

 バシンと肩を叩かれてすぐに心操からツッコミが飛んでくる。え、ていうか、轟? 思わず視線を巡らせると、そこにいたクラスメイトの方の轟が何故かドヤ顔で『双子だ』と聞く前に言った。なんで自慢されたんだ今。

「どうも弟がいつもお世話になってます~。マジ感じ悪いでしょこいつ」
「や、最近はそんなことねえよ!」
「最近ってついた」
「いや実際のとこ轟ずいぶん印象変わったよね。前ぜんっぜん話してくんなかったし」
「わかるう。ヒーロー科おおらかなひと多いんだね助かる…… 心操くんのこともよろしくお願いします……」
「なんで俺」
「心操くんも入学当初わりと距離置かれてたよ。言っとくけど個性のせいじゃないからね」

 心操といるってことは普通科なのか。わいわい話し始めた様子を眺め、確かに入学当初からは想像がつかない感じだよなと――思うのは、轟のことばかりではない。緑谷だって耳郎だって、ずいぶん声を出すようになった。――俺も、多少は、変わっただろうか。そう思った瞬間に、彼女と目が合う。そこにいる誰にも気付かれないほどささやかに、腕を引かれる。

「そういえば私と一緒につかまってた子は無事? 無傷だった?」
「ああ、うん、…… そういや爆豪のこと庇ったって話! ありがとな! 詳しく知りてえ!」
「え、なんかしたっけ……? 特になんもしてないよ……?」
「でもアイツ庇われたって言っ、」
「うしろ! 切島くん! うしろ!!」

 すぐ背後で爆発音がする。
 なんかそういうネタなかったっけ、とのんきに雑談を続けようとした『ちゃん』を心操が引っ張って、じゃあおやすみ、と言い残して普通科の寮の方へ駆けて行った。



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2020.08.16