腐る直前まで熟した桃を、食べたことがある。
 フォークを差しても果肉が柔らかすぎて持ち上げられなくて、そのくせ水分をたっぷり含んで重い。素手で掴むと、その指の跡さえ残りそうだった。やわらかい、というより、ぐずぐず、と呼んだ方がいいような脆い物体。まとわりつくような甘い匂いと、喉にいつまでも残る蜜のような果汁。確かな重量を持って実体があるくせに、掴もうとすると崩れていく。甘いんだか渋いんだか、熟しているのか腐っているのか、もうわからない。かたちを保てなくなっていく。自分の重さに、押しつぶされる。――数日前までの私はまさにそんな状態だったんじゃないかと、思えるようになったのは、最近の話だ。

「あ、の」
「んー?」

 絡められた指先はポケットの中に隠されているとはいえ、先輩のポケットに手を突っ込んでいるという状況は隠しようもないわけで。それだけなら仲のいいカップルに見えるかもしれないが、反対側は――手を繋いではいないとはいえ、身体の側面をぴったりくっつけている花宮さんがいるわけで。友人三人組、にしては距離の近すぎる男女三名。

「ひ、人に、見られます……」

 そう明るい時間帯ではないといっても――だからこそ、かもしれない――外だ。繁華街と住宅街の、ちょうど中間のような、静かでも騒がしいほどでもない場所。たまに、不思議なものを見たような顔で首を傾げていく人がいる。
 頭上で、花宮さんと今吉先輩が顔を見合わせる気配がする。仲がいいのか悪いのか、なぜだか頻繁に張り合っているようなやり取りはするけれど、意思疎通が速い。今だって数秒も経たずにほぼ同時に背中を曲げ、左右の耳に顔を寄せてきた。

「ひとけのない場所に行きたいって?」
「っそ、そういうわけじゃ、なく」
「……手、放さんとダメ?」
「そ、そうでもなくて!」
「じゃ、場所探しましょうか」
「つっても制服やしなあ。結局カラオケとかになりがちよなあ」

 一応は自由だったほうの片手も花宮さんに掴まれて、恋人というよりは保護か捕獲されているような状態で連れて行かれる。――花宮さんは指先を絡めて取るタイプで、今吉先輩はてのひらを持ち上げるようなつなぎ方をすることが多い。そういう見分けも、つくようになってしまった。

(…… お話したいことがあるんです)

 そう、二人に送ったメッセージは、画面上で詮索されることは無かった。ただ、わかったじゃあ場所と時間は、と私が置き去りになるほどさっさと決まった。待ち合わせにしてもそれからにしても、考える必要がまるで無い。言い出したのは私のはずなのに、まるで流されているのかと思うほどすべてが順調に決められて状況が進んでいく。それは楽なようでもあって、なんだか居心地が悪い気もする、……なんて思ってしまっているのは、多分やましいからだ。私は、この状況が、疚しい。

「なんだあれ連行?」
「友達でしょ」
「カップルだったりして」
「三人でえ?」

 この奇妙な状態を見た人が、笑って話しているのが耳に入る。
 連行。友達。カップル。――そのいずれでもなく、じゃあ何かっていうと、わからない。わからないから、困ってる。もう常連となってしまったようなカラオケボックスに着くと、受付のために手を離された。それに、少し、心細いような気がしてしまうのも、良くない。

「モノ足んなそうな顔」
「してない、です!」
「ははは、さよか」

 笑う先輩がちょっと意地悪になった気がする。ポケットの中でつかまったままの手をぎゅっと握られ、放され、パン生地をこねるみたいに弄り回される。

「な、なんですか」
「ハンドマッサージ」
「絶対嘘じゃないですか……」
「んー、バレたー。いじりたいだけ」

 それまで普通だったのに、急に耳元に唇の触れる距離で囁かれビクッとしてしまう。だ、だから、こういう、こういうさあ……いや、それ以上のこともあったんだけど……でもなんか、なんていうか。ていうかなんで私ばっかり悩んでるんだ! 逆恨みとは知りつつ恨みを込めて見上げると、わざわざ間近に寄せられていた顔がきょとんと意外そうに瞬いて距離を取った。それから少し、柔らかく微笑む。

「何いちゃついてんですか」
「いやーがかわいくて」
「いちゃついてないです!」
「ほら部屋番」

 行くぞ、とまたもや片手を取られ、ぐっと言葉を飲み込んでしまう。なんか飲みモン取ってくるかなあ。後でいいでしょう。何気ないような会話に挟まれながら、肩にかけていた鞄を取り上げられる。手際よくまとめられた三人分の荷物が邪魔にならない場所に置かれるその一方で、繋がれた片手が意志を持って強く引かれる。

「ん、」

 部屋に入ってすぐ、ドアの脇に押し付けるようにして唇を重ねられる。
 待って、今日は、話すことが。今日こそ話さなきゃいけないことが。一瞬離れた唇の合間に呼吸を零し、何か言わなきゃと気持ちを奮い立たせる間もなく再び塞がれる。視界が、てのひらで覆われる。手首を肩の傍で壁に押し付けられたまま、身動きが取れない。
 違う、今日は、


「ぅ、」

 その声で名前を呼ばれるとぐらっときてしまう。
 違う唇が触れる、違う指が触れる。身体のラインをなぞるように腰を撫でられる。――甘い匂いが、まとわりつくような蜜の気配が、する気がした。ぐずぐずに溶けて、自分の力でさえ持ち上げられずに潰れてしまう――……

「……っだめ! です!!」

 正気を齧り取っていくようなキスをどうにか避けたと思った瞬間、その場に崩れ落ちた。

「え」
「あーあ、腰砕けてら」
「えええ、キスしかしてへんけど」
「絶対しつこいんですよアンタ。ほら腕よこせ」
「う、いや、あの、このままで大丈夫なので、」
「何言ってんだバァカ」

 床にへたり込んだ身体をずりずり動かしてどうにか正座の姿勢に持って行こうとするも、あっさり抱き上げられて膝抱っこされる。正直これも慣れてきてしまったけれども! これをどうにかしたくて今日は来たわけで!

「で?」
「っ」
「今吉サンより俺の方がいいって?」
「そ、」
「そんなこと言ってへんやん」
「く、くすぐるのやめてください……!」

 耳の後ろや首筋あたりにキスをしながら言うのもやめてください! と言うべきなのに、身を捩るので精いっぱいだ。先輩に視線を向けると、なにやらムスッとした様子で状況を見守っている――助けてくれる気配は、ない。

「ん、っ、ちがう、違うんですよ今日はっ……!」
「なにが」

 揶揄を含んだ笑い声で言われてくらっとする。いい声をしているのがずるい。くすくす笑いながら弱いところに触れてくるのがずるい。反応してしまう身体を奮い立たせ、逃げるようにソファの端まで這って行って距離を取り、違うんですよ! と繰り返し声を張った。

「今日は! 真面目な! お話があるんです!!」
「……」
「……」

 無言のまま顔を見合わせた花宮さんと今吉先輩が、やはり私には通じないやり取りをする。花宮さんは少し肩をすくめたようで、今吉先輩は苦笑して見せつつも軽く頷いた。まじめなはなし、なあ。関西のイントネーションのせいだろうか、先輩の物言いはやわらかいのに、あまり誤魔化されてくれる気はしない。

「ま、聞くだけ聞いてやるよ」

 私を挟んで反対側――ドア脇のソファに移動した花宮さんが、長い脚を組んで軽く首を傾げる。だからその妙な色気やめていただけませんか。

「せやなあ、の話は全部ちゃんと聞いときたいしな」

 コの字に並ぶソファの奥にいる私を取り囲むように、先輩が少し距離を詰める。思わず後ずさった身体に鞄の山がぶつかったが、それはひょいひょいと取り上げられて先輩の背後に積み上げられた。

「んで、どうしたん?」
「……あの……こういうの、やっぱり、よくないんじゃないかと……」
「……」
「そんなつもりがないとはいえ、なかったとはいえ、あの、……」

 数週間前、いろんな意味で絶望してふらふらしているところを、先輩と花宮さんに助けられた。
 二人は一晩かけて私の気が済むまで付き合ってくれて、その内容は八つ当たりだったり愚痴だったり、自傷行為の一環だったりしたのだけれど、それは置いておいて――とにかくその日から、妙に近くなったこの関係は続いている。この関係っていうのは触ったり触られたりキスしたり普通に遊んだりすることで、一対一なら付き合ってると呼べそうなものだけれど、実際これは一対二で、しかも花宮さんはともかく今吉先輩には好きだと言われていて、私はその返事もしていない――というか求められていない気がするというか……とにかく返事もしていない。

「これ、……これ、二股っていうんじゃないですかね?!」

 ある程度まともにものを考えられるようになってからずっとそれを考え込んでしまっている。
 好きだとも何も言わずにキスして触って触られて、でも最後まではしていなくて、愚痴に付き合ってもらったり相談に乗ってもらったり勉強を見てもらったり一緒に遊びに行ったりしていて、これはなんていうか……私ばかりが得をしている。

「……」
「……」
「ハーレム漫画じゃないんですからもうちょっとなんていうか……きちんとしなきゃいけないと思いまして……!」

 ていうかハーレム主人公はこういう場合どうしてるんだ、と思って何種類か読んでみたけれど、最終的にはメインヒロインとくっついて終わっていた。ハーレム漫画でさえ正しく相手を選んでいる。現代が舞台の場合はだけど。

「わ、私、お二人には本当に感謝してます、し、大事な人だと思ってます。誠意をもって接したいと思って、……誠意ってなんだって話なんですけど…… こんなグダグダ甘やかされる一方の関係はやはり良くないんじゃないかと……思いまして……」
「普通その相談相手に当人を選ぶか?」
「他にこんな話できる相手いませんよ……!」

 さつきとは断絶したままだし大ちゃんとも気まずいままだしバイトも逃げるように辞めてしまったし、学校の友人相手にしたってドン引きされるのが関の山だ。私だったら引く。という発言をどう受け取ったのか、顔を見合わせる二人がなんとなく笑顔だ。なんでだ。

「誠意ってどういう意味やったっけ」
「まごころとか私利私欲を離れて云々だった気がしますけど」
「それって『私利私欲を離れて』ワシらの欲求に付き合ってくれるって話でええの?」

 にじり寄ってきていた今吉先輩が、なんでもないことみたいに太ももに手を置いてくる。だからそういう接触が、と言いかけて上げた顔に、すいと顔が迫ってくる。何度も何度も触れたことのある唇が、あえて触れずに至近距離にあるのが妙に気恥ずかしい。俯くと、なあ、と耳元に吹き込まれる。だから! 声が! ずるい!

「……が嫌がることは、本当に一切、したくないんやけど」

 ふっと、なにか取り落としたかのように柔らかくて弱々しいような声がする。視線をそろそろと上げると、目が合って微笑まれたのちに頬に唇が触れた。幼いような軽いキス。

「こういうの、許してほしいなあ。……ほんまに、それだけでええから」
「……っだ、だからですね、それは私が! あまりにお二人に対して誠意がないんじゃないかって!」
「嫌?」
「嫌とかでは、……その顔と声やめてくださいってば!」

 いけると判断したのかぐいぐい迫ってくる顔をどうにか退けながら、なし崩しになってしまう未来が見え始める。
 違う、嫌ではない、何の不満もあるわけがない。その不満がないのが怖いんだ。だって先輩たちに不満がないわけがない、私のことを好きだと言ってくれるなら尚更だ。たとえば私が先輩の立場だったら、私とさつきが今吉先輩を好きだと迫って、告白の返事もないまま私ともさつきともキスするような関係になってしまったとしたら、――私はきっと、正気ではいられない。百歩譲ってそこがクリアできたとしたって――今の私は、一方的に甘えているばっかりだ。ただ優しくされて、気持ちよくされて、穏やかに幸せな気持ちにさせてもらって、それだけだ。それだけじゃきっとだめだ。
 というのをどう伝えていいのか、わからない。今もぐいぐい来る先輩を押しのけて、わずかに傷付いて見えるようなそんな表情を、させたいわけじゃないのに。ぎゅっと胸の奥が痛む。どうしてこんなに、なにもかも上手にできないんだろう。大事な人を、大事にしたいだけなのに。

「…………一緒に住むか」
「は?」
「は?」

 唐突な言葉に、顔を向ける。
 何やら考え込んでいた様子の花宮さんも視線を返し、私と今吉先輩の体勢に渋い顔をしつつも言葉を続けた。

「家事全般と、将来的に事務作業――とりあえず秘書検とれ。英語もやれ。あとなんだ、……財務?」
「ちょぉ花宮、説明してからハナシ進めてや」

 概ね同意だ。こくこく頷きながら、押し倒されかけていた身体をソファに戻す。抜けた腰はいつのまにか戻ってきてくれていて、しゃんと背筋を伸ばして座ることができた。今吉先輩も隣で姿勢を正し、まるで面談でも受けるみたいに話を聞く。

「そいつ、あんたの飴で溺れそうになってんですよ。お望みの鞭とやらだ」
「……」

 何を言われているのかは、正直よくわからない。だけど、的を得ているような気がした。
 飴で溺れそうになっている。今吉先輩の飴で。――やさしく、優しく、甘やかして、とても比較にならない報酬――キスだけを求められて、好きだって何度も繰り返しながらその答えを聞こうとはしない。ただ、ただ、捧げられるという居心地の悪さ。
 お望みの鞭。

「不安なんだろ、早い話が。『好き』とかいう根拠も実態もねえもん使われてるから」
「……、」
「事実ベースで示せっちゅうこと?」
「その『事実ベース』も桃井さつきのおかげで本人的にはガッタガタなんでしょうが。だったら将来性に持ってくしかねえ」
「……なるほどなあ」

 私の話をされているはずなのに私がよくわかっていない気がする。理解の早さと意思疎通に置いて行かれている……。事実ベースってなんのことだろう、そしてどうしてさつきの名前が出てきたんだろう。さつきに事実ベースをガタガタにされているとは……? 自信とか……?

「――

 わからないなりに考えようとしていたところを、手を取られて視線を向かせられる。今吉先輩は思ったより真剣な顔をしていて、心臓が騒がしくなる。数えきれないくらいキスをしたのに、それ以上のこともしたのに、今でも――今の方が、どきどきしてしまうように思う。

「どうやろ? できそう?」
「…… 秘書検ですか?」
「まあ…… せやな、とりあえず、そういうことになるんかなあ」
「なら、頑張ります」
「ええ子」

 ちゅ、と、今回は額に唇が触れる。花宮さんが無言のまま寄ってきて、今吉先輩を引き剥がした。

「……花宮ア」
「だからそれが溺れさせてるってんだ」
「いーや今のはヤキモチやろ」
「るっせえな」
「……、」

 状況を、未だによくわかっていない。自覚はある。だけど、この人達が自分のために気持ちと労力を割いてくれていることはわかる。私自身でさえ上手く言葉にできない不安さえ、置き場と解消法を探そうとしてくれている。

(やっぱり、優しい)

 やっぱり、――好きだと、思ってしまう。

「でも言うほど簡単やないで?」
「だから意味があんでしょう。簡単な話で納得する女には見えねえ」
「……それは確かに」


 反射的に顔を上げてしまった。花宮さんに名前で呼ばれるようになったけれど、それでも、あんまり呼ばれることがない。呼ぶときには、まっすぐに視線を向けてくれる。それが緊張して、少し息苦しくて、もっと聞きたい。呼んでほしい。

「ぜんぶ寄越せ。この状況に気が引けてるなら、お前の支払えるもんをぜんぶ寄越せ」
「…… え、」
「お前の時間と、労力と、将来性と、今あるもんも全部」
「……」

 秘書検、は、その一環ということだろうか。
 時間と労力と将来性と、今持っているものを全部。彼らのために秘書検を取って、彼らのために英語を学ぶ。

「必要に応じて外注する部分も出てくるでしょうが、それは俺とアンタの能力次第ですね」
「花宮プレッシャーかけるの上手いよなあ」

 する、と髪に手が差し込まれた。大した力もかかっていないのに、されるがままに顔を上げてしまう。まっすぐに顔を見つめる。

「俺のために学べ。俺のために能力を伸ばせ」
「……」
「俺ら、な。……なー、ワシんために頑張ってくれるか?」
「それ、は、もちろん、」

 そこに異論なんてない。だけど――全部。その単語が妙に引っかかる。私の認識している『全部』と、花宮さんや今吉先輩の言っている『全部』の意味が少し違う気がする。
 時間。労力。将来性。今持っているものを、全部。一瞬ぞわっと身体に寒気が走った――けれど、それがなんだっていうんだろう。そう囁く声も、私の内側にある。
 私が認識している以上の意味だとして、それがなんだっていうんだろう。
 欲しいって言ってくれるなら、あげたい。こんなに優しくしてくれる二人に、優柔不断な私ができることがあるなら、全部。

「あんたも一人称になってますが。……なあ」

 顎を、く、と持ち上げられる。キスされる、と反射的に思ってしまうのに、間近に迫った唇は触れることなくただ念を押すように言葉を紡ぐ。

「同じ部屋に住んで、同じ場所で眠って、同じ目的のために動け。――が、できないならここで中断、ってのはどうですか」

 後半は、今吉先輩にも投げかけられたようだった。顎を離されて同じように視線を向けると、その表情がみるみる難しげに歪んでいく。

「……今あ?」
「こういうのは早い方がいい」
「ワシが妖怪だとしたら悪魔やん」
「っは」

 止めねえくせに。と、聴こえた気がした。
 今吉先輩も同じ声を聴いたみたいに、首を傾げつつも『あー……』と言いづらそうに声を出す。

「……簡単な話やないで。ワシら欲深いし嫉妬深いから」
「こういうときだけ複数形」
「うるさいわ。……なあ、ホントにええの? 逃げるなら今やで?」

 上半身を曲げ、覗き込むようにしてくる先輩の顔。こんなふうな角度で見るのも慣れてきた。意外とこうして上目遣いになりがちな人だ。その変化を、その癖を知っていることを、嬉しいと思う。

「全部捨てるつもりで来い。お前の姉も、家族も、幼馴染も、キセキの連中や友達も、全部」

 ぜんぶ。これまで得たもの、これから得るもの、あるかもしれないかったこと。どうしてか今になって、火神くんの笑顔を思い出した。今の今まで忘れていた、きっと恋していた男の子。はっきりした声と、人の波に紛れない長身。赤みがかった髪。強い瞳。光のような――憧れのひと。
 全部を捨てて、二人のところに。

「――……」

 まるで不安をごまかすみたいに、捕まえるみたいに、手を握られた。。名前を呼ぶ声が、少し震えているようだ。

「ワシらのために、生きてくれん?」
「…………」

 目を閉じた。そうしてくれ、と言われた気がしたからだ。
 当たり前みたいに、唇に触れる指の感触がある。これだけでは、どちらの指かわからない。それを、わからないまま受け入れること。二人を信じて受け入れること。もしかしたらいつか、唇の感触だけでも二人を見分けられるかもしれなくなること。――胸にせりあがるような感情に、呼吸が浅くなる。何か答えようとして、一回つばを飲み込まなくちゃならなかった。そっと視界を開けると、表情らしい表情は映さないまま、ただじっと見つめてくる二対の瞳がある。
 考えなくても答えは決まっていたけれど、いちど浅く頷いた。

「逃がしてやれんよ」

 わかっていたような声がする。敢えて目を閉じて、もう一度頷く。『はい』と口にする。

「はい。……私も、きっと、そうなりたかったんです」

 二人のための私に。
 ぐ、と肩を押されて背後に倒れ込む。反射的に目を開けようとしたけれど、それより先に掌に視界を覆われていた。その状態で、降ってくる唇。かみつくような、食べられてしまいそうなキス。

「ぁ、」
「んむ」

 一呼吸も置かずに入れ替わる感触がする。酸素が足りない、と思ったタイミングで呼吸を許される。また唇を塞がれる、ソファに柔らかく押し倒される。侵されていく感触がする、自分が自分でなくなっていくような気配がする、少し怖い、でも逃げたいとは思わない。

(私も、そうなりたい……)

 このひとたちのものになりたい――と、いう想いは、服の中をまさぐる手の感触に弾け飛んだ。

「ちょっっっと! 待って! ください!!」
「……」
「……」

 バネがあるみたいに飛び上がった身体を、ぶつけるかと思った頭はさすがの運動神経のおかげでぶつけずに済んだ。ただ、同じ表情で見つめられているのに冷や汗が伝う。

「ち、違う、違うんです嫌とかではなくて! いいんですけど! 全然いいんですけど! 準備をさせてください!!」
「……準備?」
(今吉先輩のこんな顔初めて見た)
「準備って?」
「うっ……あ、あの、下着とか、シャワーとか、ダイエットとか!!」
「最後は却下」
「最後は却下」
「満場一致で……?」

 そういう話じゃなかったらどうしよう、とは言ってから思ったけれど、そういう話ということで正解だったらしい。自分の身体をぎゅっと抱いて、どんな下着をつけていたか思い出そうとするけれど混乱してしまって思い出せない。以前言われた単語――さんぴーみすい、が、頭の中で熱を持つ。未遂だった。あの日は未遂だった。これから未遂じゃなくなるかもしれない。それは別にいいんだけど、構わないんだけど、――せめて準備を!!

「……まーワシらも必要なモンはあるか」
「場所がカラオケボックスっつーのもどうかと思いますしね」

 長い長い溜息を吐いた今吉先輩が天井を仰ぎ、数秒の間を置いてぐるんと顔を戻す。一方花宮さんは鞄から財布を出して中身を確認し、ぽんと寄越した。

「一時間」
「……え……」
「付近のビジホ当たります。このへんラブホないんで」
「おー、じゃあワシも必要なモン買って行くわ」
「え、あ、あの、……あの……?」
「シャワーのある部屋にしてやるよ」

 口に出そうとした疑問が全部、その笑顔で塞がれる。違うそういうことを聞きたかったわけじゃない。言葉を失ったままの私に、今吉先輩が『このへん店多くてよかったなあ』と本当に喜ばしいことを言うみたいに笑いかけてきた。

「……あ…… あの……」
「一時間以内に必要なモン揃えて、戻ってきて、シャワー浴びろ」
「…………」

 待って、いちおう処女喪失の話をしているんですけれども。
 そんな業務連絡みたいな。いや本番はきっと優しくしてくれるけど、それに対して不安はないけど、そこに至る道が、いや準備したいって言って準備の時間と資金をくれるのはすごく有難いというか珍しいことだってわかってるけど、そうじゃなくて、色々そうじゃなくて。

「荷物はまとめて俺が持っていきますんで、ここの会計はお願いします。部屋取れたら場所送るんで、各々充電と通知……は大丈夫ですね」

 あっさり部屋を出て行ってしまった花宮さんの背中を見送りつつ、未だ現状を受け入れられずに立ち尽くす。
 一時間――一時間? って、なんだっけ?

「ほら、部屋出るでー。もスマホ持ったな? 買い物行き。あと五十五分やで」
「いや、あの、」
「……一緒に下着選ぶ?」
「ひとりで行きます!!」

 反射的に大声を出し、部屋を飛び出す。走っているうちに現実がじわじわ染みてきて、意味もなく叫びたくなった。
 二人のためになるとは言ったけど! 二人のために生きるつもりであるとは決めたけど! そんなつもりじゃなかった! 少なくともこんなシチュエーションは想像していなかったッ!!
 混乱しながらも最寄りのドラッグストアに駆け込むと、用があったらしい花宮さんがちょうどレジを終えたところだった。目が合って上機嫌そうに微笑まれ、これ見よがしに時計を指される。迷う暇がないんですけど!!
 声をかける余裕もなく棚の間を走り回っているうちに、迷いようもない近くのシティホテルを指す地図と……一緒に送られてきた『時間になったら迎えに行く』に、今度こそ呻き声が出る。羞恥とか理解とか混乱とか考えてる場合じゃないのかもしれない。



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2020.08.08

腐りきったポットさんよりリクエストで『三角関係その後』でした。
感想と他色々ありがとうございました…!!