もしもあの時ああしていたら、今頃どうなっていたんだろう。
 ――という自問自答に、大体の人は良い結果しか想像しないのだという。あっちの学校に進学していたら充実した日々を過ごしていたに違いない。あっちの道を選んでいたら犬に吠えられることなんて無かったのに。些細なことも大きなことも、現状より悪くなる可能性も等しく在るにもかかわらず――とはいえ、その問いの正解を知ることは絶対に不可能であり、本気で意味のないことなのだと聞いたか読んだかしたことがある。それでもその質問が頭から消えることがないのも、まあ、誰にも共通のことだろう。不毛な問いだと知りながら自分へ投げかけ続ける。
 ――もしもあの時、ああしていたら。
 ――もっと素直になれていたら。
 ――ふざけるなって怒ることができていれば。
 ――誰かを信じることができていたら。
 私は。

「…… おい?」

 訝しげな声に、はっと意識が引き戻される。
 両手がキーボードの上に乗ったままだった。灰色の分厚い古いパソコン、専用のソフトで管理している数十人の名前が並んでいる。画面から顔を上げると、部室の更に区切られた狭い一角、妙に白い照明に照らされた――黒髪――

「虹村先輩」
「どうした?」

 口から飛び出した名前を当然のように聞いて、首を傾げて反応する人。
 ……ああ、これ、夢だ。
 理解した瞬間に安堵のようなものがあって、息を吐く。覚えがある。覚えがあった。

「三軍の育成は順調です。二軍はここにきて基礎不足が気になるので、……このグラフなんですけど……ちょっとゲーム控えめに筋トレと走り込みメインにしたいところです」
「ああ、サンキュ」

 画面を指しながら言うと、覗き込んで確認しつつ、律義にお礼の言葉を口にする。こういうところが好きだったなと蘇る気持ちが生々しく温かくて、苦笑する。

「、桃井?」
「……あと、灰崎くんが来たみたいですよ、外」
「てめぇサボんじゃねえって言ったよなあオイ?」
「早え! なんで気付いてんだよ桃井!」

 灰崎君の名前を出したのとほぼ同時に部室の扉を開けてその首根っこを掴んだ先輩と、自ら来たっていうのに反射的に逃げ出そうとした灰崎くんの姿にふっと笑みがこぼれる。まだ髪型もおとなしくて顔立ちも幼い灰崎くんだ、虹村先輩もどうしてか年下の男の子みたいに見える。大型犬がじゃれ合ってるみたいで微笑ましい。
 ほのぼのと眺めていると、二人がぽかんとした様子でこっちを向いていた。

「……? 先輩、報告は以上でいいですか」
「ん、お、おう」
「じゃあ私は洗濯の方に加わりますんで――灰崎くん、ちょっとどいて。あと香水くさい」
「俺のじゃねえっつの!」
「知ってるよ、……そのうち走るのキツくなるよ」

 部室を出るすれ違いざま、最後の一言は、虹村先輩には聞こえないように付け加える。
 煙草の匂いを女子用の香水で上手くごまかしたつもりだったんだろう灰崎くんは少し目を丸くして、それから戸惑ったように視線を泳がせた。おや、と思ったけれど、作業の方が先だ。部室を出て洗濯コーナーへ向かう。確かこのあと洗濯、選手達の休憩時間になったら床を拭いて、スコアは誰かがやってくれるはずなので別の体育館との連携と、姿が見えない部員の名前を取りまとめてメモ、三軍が走り込みから戻ってきたら休憩ついでにボール磨きでそれから―― 覚えてるもんだなあ。妙に具体的な夢に溜息をつく。

(さっきの灰崎くん、気まずそうだったな。意外かも)

 でもそうか、このころの灰崎くんはまだバスケが好きなのだろう。
 高校生になったら――たぶん、好きといえば好きなんだろうけど――その『好き』は随分こじれてしまったようだったから。中学生の、虹村先輩がいる頃の灰崎くんは、まだ多少まっすぐバスケを好きなのだろう。……もしかして灰崎くんがああなったのって、虹村先輩がいなくてつまらなくなった、プラス大ちゃんのせいだったりして。

(そんなことない、とは言いにくいよな……エースだっただけあって、やっぱり影響力は大きかった)

 ていうか灰崎くんは友達が少ないんだよなバスケ部に。一軍仲間だろうにな。……あ、いや、キセキの連中そもそもあんまり仲良くないんだったわ……高校生になってから妙に仲良しっぽかったから忘れてたけど……。

 それにしても長い夢だな、と思ったのは、作業終わりにマネージャー仲間と手を振り合って別れてからだ。
 マネリ先輩にくっついて先生や部長に報告をして、既に部の中心部に近い赤司くんを遠目に眺める。ちょっと浮いて見えるほどの美少年だ。隣にいる緑間くんも、もともと美形だとは思っていたけど、こんなにだったっけ。幼く見えるから余計にだ。絵になる二人である。さつきは間違いなく文句のつけようのない美少女で、それは中学生のころから変わらないけれど、なんというか――レベルが違う。

「緑間くん、美少女顔だったんだ……」
「ぶっは」

 え。
 ぽつっと呟いたつもりだった台詞は聞かれてしまっていた。見ると、虹村先輩が肩を震わせながら『いや』『わるい』と何か言っているようだけれど、声が震えてしまって良く聞こえない。
 ひとしきり笑って満足したのか、顔を上げた虹村先輩は意外なほど晴れやかな笑顔をしていた。

「わり、送るって言いに来たんだ」
「え、……私をですか? わざわざ?」
「お前いっつもひとりで帰ってんだろ、暗いのに」
「……」

 言われてみればそうだったな、と思う。
 さつきは大ちゃんと練習してたり、学校が閉まっちゃってもどこかに付き合ってたり、大ちゃんと仲の良かった黒子くんや黄瀬くんも大体そうだ。マネージャーの子達は遠くからの電車通学が多く、私は必然的に一人になりがちだった。

(……、そういえば、こういうこともあったんだよな……)

 なっちゃんに、どうしてマネージャーやってたのって聞かれたことがある。
 今なら断言できる。このためだ。見るに見かねて、なのか、時折こうやって構ってくれることがあった。桃井なにやってんだよ、その量ひとりで抱えようってのが無理あんだろ、頼れ周囲に。オラそこの一年ちょっと来いや! そんなふうに手を貸したり助っ人を呼んでくれることがあった。
 当時はただただ有難くて、嬉しくて胸がいっぱいになってしまってお礼もまともに言えなくて、『はい』『いいえ』『ありがとうございます』ばっかりだった。今は――

「罪な男ですね先輩……」
「なんだそれ」
「いえ」

 態度は荒い部分もあるけれど基本的に親切で平等、あとイケメン。そりゃ恋もするってものだ。
 中学時代の私よ、誇っていい。君の見る目は確かだ。まあ普通に告白もできずに消滅する恋だけどね! 数年後に運命の恋が待ち受けているので消滅もやむなし!

「帰るぞ、家こっちだよな。……青峰もなあ、近所なら一緒に帰りゃいいのに」
「あっ」
「?」
「あ、いえ、すいません、なんでも」

 その台詞には覚えがあった。細かい表現までは覚えていないけれど、一緒に帰る際、大ちゃんを責めるような発言をされたことがあった。
 先輩からすれば雑談かフォローのつもりであろう台詞に、当時の私はどう答えただろうか――さつきがいるから、とか、バスケバカなんで、とか、なんかどうでもいいようなことを言った気がする。大ちゃんを庇うようなことを言おうとしながら、……この状況は虹村先輩には迷惑なんだろうなと、思った覚えがある。先輩も、優しいからこうしてくれているだけで、私のことなんかきっと送ったりしたくないだろうに。面倒だろうに。さつきならまだしも、私じゃ。そんなふうに思った記憶がある。

(……ばかだな)

 ひとの善意をわざわざ裏返して眺めて考えて、口にも出さずに自分を傷つける材料にばかりして。
 今はもう知っている、完全なる回り道で、こうして話しかけてきてくれている。その好意をただまっすぐに受け止めておけばよかったのに。

「ふふ、実は虹村先輩が気にしてくれるかなーと思ってわざと大ちゃんたちと別行動してるんですよ」
「…… え、」
「…… 冗談ですよ?」
「え、な、からかうな!!」
「すいません」

 まさかマジで取られてしまうとは思わなかった。つい素の声で謝りつつ、そういえば中学生だ……こんな冗談に耐性は無いだろう普通。
 先輩めちゃくちゃモテてた記憶があるけどなあ、……先輩を好きになるような子はこんな冗談を言うタイプじゃないのかもしれないな。黄瀬くんあたりは慣れてて普通に『またまた~』とか言ってくれそう、言う気も接点もないけど。

 送られて帰った家では中学生のさつきが待ち構えていて、私の姉ほんとに美少女だったんだなと思わずじろじろ眺めまわしてしまう。なあにと可愛らしく頬をふくらませるさつきに、いや可愛いなと思って、と答えたら数秒の沈黙ののちに照れなのか何なのか体当たりしてきた。
 年下は問答無用でみんな可愛い、というタイプではないつもりだけれど、――胸も身長も顔も、この時期の方が好きだな……嫉妬とかではなく……。なんか普通に可愛い……。最近は体当たりされると押し倒されがちだからな。高校生にもなって双子の妹に飛びついてくるのもどうかというのとはまた別問題である。

「それでねそれでね、ってば聞いてる?」
「あー聞いてる聞いてる」

 うそ、半分以上聞いてない。喋りまくるさつきをいなして冷蔵庫からアイスを取り出し、着替えもせずにそれを食べながら引き続き聞いているふりをする。そういえばこんなこともあったな、というのが感想だ。両親もいるのにさつきが喋りたい相手はいつも私で、しかし反応が求められるわけではないのでふんふんと適当な相槌だけを返していた。というのは、最近でもあまり変わらないのだけれど。ここ半年ほどは色々あったせいで、すっかり消えていた習慣だったから、なおさら懐かしく感じるのかもしれない。

(……さつきもなあ……子供みたいな子だよなあ……)

 小鳥がぴいぴい囀るみたいに、ついて回って喋り続けているのを『聞いてるよ』と云うつもりで頭を撫でる。口はアイスで塞がっているので。
 大ちゃんがああでね、新しい部員の子がこうでね、練習状況がこうで、もきっと知りたいと思って。習慣でもあるし、たぶん親切のつもりでもあるんだろう。その中に反応しづらい話とか、自慢なのかマウント取られてんのかと思うような言葉が挟まるのは、……この姿だと思うけど、ほんとに意識していないのだろう。逆にかわいそう。会話もトレーニングだけどフィードバックが基本的に無いものだから改善できずにいる。これ注意してあげるべきなのかな。一瞬考えたものの――まあ、どうせ夢だし。という片付け方をして、アイスの最後の一口を噛んだ。どうせ夢だし花宮さん関係のごたごたがあって大幅に改善されているし、現実の私が日々やっていることだ。夢の中の私までやらなくたっていいだろう。

「お、当たった」
「…… え、ずるーい! なんで大ちゃんとばっかり当たるの!」
「さつき微妙にクジ運ないよねえ。そのぶん私が当たってるのかもね。はい」

 あたり、の文字が刻まれた棒を、さつきに差し出す。
 きょとんとして首を傾げたさつきに、逆方向に首を傾げてしまった。昔からさつきは微妙にクジ運が悪くて――とはいえ大事な場面だとそれほどでもなく、あくまで日常的なお菓子のおまけが目当てのものだけ出ないとか、当たりつきのアイスに当たった試しが無いとか、その程度だ――私は比較的当たりやすい。だから、当たるたびにさつきにあげる番、自分で使う番、と繰り返していた。その、さつきの番が来ただけだ。

「――そう、だよね」
「?」

 どうしてか胸が詰まったような声をして、少し違う顔をして、笑う。

はずっと、そうしてくれてたんだよね」
「…… さつき?」
「……んーん! ありがと! 明日にでもみんなでアイス食べに―― も一緒に帰ろう!」
「あっそれは遠慮する」
「なんで!!」

 夢の中とはいえ、そして全員が記憶しているより幼くて可愛いとはいえ、関わりたいかというとそうでもない。どうせ夢だし。
 ――しかし、妙に長い夢だな、とまた思う。体感で五時間は過ぎただろうか、そろそろ覚めてもいい気がするんだけど。

 もしもあの時、ああしていたら。
 ……その『あの時』に戻ったとしたら、私は一体、どうするんだろう。と、考えるようになったのは、体感で数週間が過ぎた頃だ。
 夢にしてはあまりに長く、また私が現実と認識しているものの方が夢だったとすればあまりにも記憶が鮮明だ。だけど中学生に戻ってすぐのころに感じていた違和感というか、これ夢だな、と確信できるあの感じ――微妙に世界の色彩が淡いような、ふわふわした感覚はだいぶ薄れてしまっている。これが夢じゃなかったらどうしよう。もしも、『あの時』に戻ったのだとしたら――とはいえ、その『あの時』っていつだろう。自分で言うのもなんだけれど私の鬱屈は日々、長い年月をかけて積みあがったもので、なにか決定的なことがあったわけじゃない。キセキの世代やさつきにとって大きな事件だっただろうことも、私には日々の延長であって関わりのない話だった。ただ毎日をどうにかやり過ごしていただけだった。
 これがゲームや映画だったらなにか事件を解決して夢が終わってクリアなんだろうけどな。そもそも事件が存在しないな。
 呑気に首を傾げているうちに更に時間が過ぎて、年月が経って、周囲の空気がピリピリし始めて。記憶よりキセキとの接点が多いような気もしたけれど――まあたぶん気のせい。黒子くんがやたら絡んできたり、緑間くんとの距離が近かったりする気もするけれど、気のせいだ。マネリなのでそういうこともあったのだろう、覚えてないだけで。

(もしもあの時、ああしていたら、か)

 私にとって『あの時』が無い。しかし、私以外にとってはこれが『あの時』なんだろうな、と思う瞬間はいくつかあった。
 何故か記憶より近いキセキとの距離の中で、目に付くものがある。黒子くんが『六人目』になる瞬間や、黄瀬くんの入部、灰崎くんとの衝突。赤司くんの雰囲気が、少し変わる瞬間。現実では無かったはずの、介入できそうなタイミングがある。……どうしてこんな夢を見ているのか、わからない。もしかして本当に変えられるんじゃないかと思う瞬間さえある。あまり詳しくはないけれど、キセキと呼ばれるようになる転機や、その崩壊。誰かが傷つくこと、誰かが傷つけること。もしかしたら、少し行動することによって変えられるのかもしれない――……

(変えたいんだろうか、私は)

 いつもそう思って、いつも行動しないでいる。記憶通りの行動をなぞっている。夢の中でさえ。たとえこれが現実だとしても、――現実だったらなおさら、絶対に、同じ行動をする。誰かが傷つくとしても、私が傷つくとしても。バタフライエフェクトなんて許してはいけないし、許したくない。傷だらけで、地獄のようで、掴みかけたものを取り上げられたあの絶望の底で、あの人に会うのだ。
 夢の中でさえ、絶対に、他の誰も選びたくない。

 正直なところ、私の中学時代のハイライトはたった一言に集約されていた。
 憧れの先輩から託された、たった一言だ。おそらく何気なく吐いたであろう、半分以上はそのつもりもなかったであろう、たった一言。

「……あいつらのこと、頼むな」

 こんなに掠れそうな声だっただろうか。
 こんなに無理やりに笑っていただろうか。こんなに泣くのを堪えているような目をしていただろうか。おそらく当時に比べて冷静な瞳に映る姿は、覚えていたよりずっと儚い。こんなに、小さな男の子のようだっただろうか。

(……虹村先輩)

 長すぎた夢のクライマックスはここなのだろうか。
 この日を最後に会えなくなって、もちろん連絡先なんか知らなくて、今の私にとっては思い出の中にしかいない先輩。だからこそいつまでも年上で。素敵で、頼りがいがあって、かっこよくて、憧れて――だけど。

(今だから、わかることがある)

 放課後の部室、二人きり、そう珍しくもなかったシチュエーション。
 主将を赤司くんに交代すると正式に部活全体に伝えたこの日を最後に、先輩と会えることはなかった。今思うと、避けていたのかもしれない。私ではなくて先輩がだ。充実した思い出の詰まった場所は、バスケ部は、この状況にある彼にはむしろ苦しいものだったのかもしれない。

「……」

 返事をしない私を不思議に思ったのか、虹村先輩が視線を向けてくる。
 頭を撫でてあげたくなって、――さすがに先輩相手にそれはダメか。そっと肩に触れた。
 はじめて自分から触れたせいだろうか、驚いた顔に見つめられて微笑する。それにもまた、面食らったような反応がある。そんなに意外か。そうかもしれない。笑って、だけど何を言っていいかもわからず、迷った末に出てきた言葉は『大丈夫ですよ』という何のひねりもないものだった。

「大丈夫ですよ、先輩」
「……」
「私は大丈夫です。彼らも――まあちょっと喧嘩はするかもしれませんけど――いつかは仲直りしますよ、彼ら、けっこう似た者同士ですから。そうだな、三年以内で片付きますよ」
「……ずいぶん、具体的だな」
「三年って、永遠みたいに感じるかもしれませんけど、結構あっという間ですよ」

 いやどうだろうな。適当に言っちゃったけどどうだろうな。少なくとも私は中学生活めちゃくちゃ長かったな。だけど、……その三年の先には、花宮さんがいる。私は、一生で一人だと確信できる相手に出会える。バスケがあったおかげで、彼らがいてくれたおかげで。だから悪くないって、今は言える。
 必ずしも無傷である必要なんか無い。私も、彼らもだ。
 これが現実だとして、私の行動によって何かを変えられるとして、その選択肢を私に委ねた誰かや何かをばかだなと思うだけだ。ばかだな。変えるわけがない、救済なんて必要ない。彼らは必要な紆余曲折を経てまとまるのだ。救済は私なんかの介入じゃなく、彼ら自身の手で引き寄せられるべきものだ。と、中学生として過ごした夢の中で、強く思うようになった。

「あっという間に片付きます。だから、何も心配しないでください」
「……」
「大丈夫ですよ、何もかも」

 大ちゃんはバスケを失って取り戻す。
 さつきは大ちゃんの傍にずっといる。
 黒子くんは大ちゃんと派手に喧嘩して他のキセキ連中とも派手にやり合うけど最終的に全員ぶちのめして優勝する。
 緑間くんも紫原くんも黄瀬くんも赤司くんも、なんか色々あったらしいけど元通りだってさつきが言ってた。誰よりキセキの傍にいて誰より心を痛めていたさつきが、そう言ったのだ。だから大丈夫、彼らのこれからは彼ら自身に任せておけばいい。

「先輩は、先輩の考えたいことだけ考えていていいんです」
「、」

 思えばこの人にも、頼れる相手がいなかったのだ。あんまり関わりのないマネージャーに、大事な後輩たちのことを託さなくちゃいけないくらい、追い詰められていたのだ。憧れるばっかりで、長く見つめていたくせにそんなことにも気づけなかった。

「大丈夫。私とさつきにかかれば、あんな男共ちょろいもんです」
「……今日は随分たくましいな、桃井」
「実は今まで猫被ってたんですよ」
「知ってたよ!」
「わ」

 髪をぐしゃっとされて声が出る。知ってたよバカ、お前が無理してんのくらい。ぐしゃ、ぐしゃ、と髪が乱される。その勢いに強制的に視線を下げさせられて、見えるのは先輩のシャツだけだ。顔を、見られたくないのかもしれない。

「……知ってたんだよ」

 先輩らしくもない、蚊の鳴くような声だ。

「わるい」
「…………」

 今。顔を上げないでいることが、この人への精いっぱいの優しさだと、信じて。

「……ピースオブケイク」
「ん?」
「って、言うらしいですよ。『楽勝だよ』って。英語の授業で習ったんですけど」
「……」
「大丈夫。ケーキ一切れ平らげる程度の労力です。……ま、主に働くのはさつきなんですけどね!」

 いやマジで。謙遜とかじゃなくマジで。キセキの仲違い云々について詳しくは知らないけれど、解決に導く一助になったのは間違いなくさつきだろう。私はいなくても問題ないポジションだ。
 長い沈黙が下り、それを途切れさせたのは先輩の『お前が』という声だった。

「お前が―― 誰より働いてくれてんのは、知ってる」
「……」
「あんまりバスケが好きなようには見えねえ」
「え、バレてたんですか」
「ほんとに猫脱いだな……」
「ふふ」
「……だけど、誰より働いてくれてんのは、なんでだってずっと思ってた」
「……」

 なんで。誰より。バスケを好きでもないのに。
 先輩に頭を抑えられ、白いシャツに皺が寄っているのを見つめながら、思う。なんでそんなに熱心にマネージャーをしていたかって、そんなの、そうでなければ許されなかったからだ。少なくともそう思い込んでいたからだ。さつきの助けにならない私に存在価値など無く、むしろ罰するべきものであるから。
 とか言っている間にマネージャーリーダーとかになっちゃって立場ができちゃったからというのもある。好きじゃない上にレギュラー陣に興味が無いゆえに仕事熱心になれたって考えてみると皮肉な話だ、内申上がったらしいからいいけど。
 でも、本当にそれだけだったんだろうか。
 さつきのために、同調圧力に負け、在るかもわからない非難に怯えて、私はマネージャーをやっていたんだろうか。

「……内緒ですけど」

 少し、笑う。
 なんでマネージャーやってたの? と、聞いてくれた女の子が、かつて居た――いや、これから来るのだ。

「憧れた人がいたんです」
「……憧れた?」
「かっこいい先輩がいて、その人のことを見てたくて、マネージャー業が苦じゃなくなったんです。軽蔑されそうでずっと言えなかったんですけど」
「……選手に気ィ取られて働かないマネージャーよりずっと助かる」
「ははは」

 下を向かされていた手がどけられて、顔を上げられるようになる。懐かしいアヒル口のしかめっ面が、以前よりいとおしいように感じる。こんなに可愛い人だったかな。今は年下だからそう見えるのかな。それともやっぱり、当時の私は先輩のことが見えていなかったのかもしれない。

「……それ誰かって、聞いてもいいか」
「ご褒美くれるならいいですよ」
「ご褒美?」
「……」

 記憶の中では、たった一言。『あいつらのこと、頼むな』。その言葉だけで、それまでのすべてと、それからのすべてが報われたように思っていた。そしてたった一言、『はい』と答えるだけで精いっぱいだった。幼い憧れの記憶。

「ご褒美って、……!」

 その先を言われる前に、目の前のシャツにぎゅっと抱き着く。
 こんなに細い人だったか。いや細くはないはずなんだけど、どちらかというと筋肉質だし逞しいはずなんだけど、でもやっぱり、中学生の男の子だ。声変わりさえ中途半端な。

「ずっと憧れてました、虹村先輩」

 憧れるばっかりで、見つめるばっかりで。力になれなくてごめんなさい。

「――」
「…… ありがとうございました! 引退までマネリ頑張っちゃいますよ私!」

 そこから先は、さつきの仕事だけどね!
 ぱっと身体を離して、なんでか真っ赤になっている先輩に笑って―― 視界が妙に眩しくなっていくことに気付いた。きっと、夢はここまでだ。



「…………」

 なんか、いい夢だったな。
 予想通りに夢オチだった。カーテンを開け、薄白い日差しに目を細めつつ少し含み笑いをする。実際の過去がどうだったかはわからないけれど、なんだか根強く残っていたわだかまりを消化できたような気がする――し、寝る前よりさつきのことを好ましく思えている気がする。あと、なんだか、花宮さんに会いたい。この人に会えたからこれまでのすべては無駄じゃなかったんだって、再確認したい。好きですって言って手を繋ぎたい、あわよくばキスしたい。

(今日会えますかって送っちゃおうかな、急に言うなって怒られるかなあ。ほんとにちょっとでもいいから会えないかな……)

 弾んだ気持ちのままスマホを取り、なにやら入っている通知をひとまず置いて恋人に連絡をする。なんて送ろう、油断すると好きが溢れそうで困る。キスしたいですって送ったら……さすがに痴女? 会いたいです、くらいにしておこうかな。ととん、と軽く画面をタップして簡潔に送ると、案の定『急に言うなバカ』と返ってきた。それからすぐに、『俺も』。

「……ッ好きぃ……」

 優しい、かっこいい、好き、大好き。ベッドに戻って足をバタバタさせつつ約束を済ませてから、さっき放置した通知に目を通す。
 メルマガ、別の友達からの連絡、バイトの連絡、それから――

「………… ?」

 寝る前まで存在しなかったはずの文字列に、思わず起き上がって部屋の中を確認する。
 開けたばかりのカーテンの向こうにはいつも通り大ちゃんの家の壁が見えるし、日差しにも違和感はない。壁には桐皇の制服がかかったままで、面倒で置きっぱなしの鞄も寝る前と寸分違わない。頬をつねる。痛い。もう一度画面を見る。『虹村』の文字列が、まだ、残っている。
 トーク画面が開き、『久しぶり』のメッセージが表示された。『帝光の虹村だけど、俺のこと忘れてねえよな?』『今度、日本に帰ることになったんだけど』『会えねえかな』

「…… え…… えええ……?」

 現実を受け入れられないまま、そんな声が漏れる。
 再び頬をつねる――だけでは足りずに顔を洗って戻ってみたけれど画面に変化はなく、むしろスタンプが一つ増えていた。先輩スタンプ使うんだ、かわいいな。そうじゃない。



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2020.08.10

uさんよりリクエストで『マネ時代に理解してくれていた人がいたお話』でした。
ありがとうございました!